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婚約破棄された悪役令嬢は、有能すぎました  作者: 夜嶋朔


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第35話 誰かを守るということ

 日本の港へ船が着くと、レイナは初めて踏む土地を静かに見渡した。


 木造の建物。


 行き交う人々の服装。


 聞き慣れない言葉。


 海の向こうから見ていた景色の中へ、本当に自分が入ったのだと思うと、不思議な気持ちになる。


「ここが、日本……」


 小さく呟くと、隣にいたパードも辺りを見回した。


「なんかすごいね。ほんとに来ちゃった」


「はい。昨日までは海の向こうだったのに……」


 スギナも目を輝かせている。


 キルナは遠くに見える城を見上げた。


「思ったよりでかい」


「信長様のお城ですものね」


 そう言った途端。


 レイナの胸にも、少しだけ緊張が戻った。


 昨日まで。


 織田信長は、海の向こうにいる恐ろしい人物だった。


 けれど今は。


 もう、同じ土地にいる。


 その時だった。


「おー! なんじゃ、この船は!」


 隣の桟橋から、明るい声が飛んできた。


 全員が振り返る。


 一人の男が、大きな笑顔でこちらへ近づいてきた。


 少し着崩した服。


 無造作な髪。


 腰には刀を差しているのに、武士というより旅人のような雰囲気がある。


 そして何より。


 とても楽しそうだった。


「異国の船か! こんな形は初めて見たぞ!」


 男は積荷を見るなり、子どものように目を輝かせた。


「これは鉄砲か? こっちは靴じゃのぉ。異国には面白いもんがようけあるがじゃな!」


 レイナは思わず微笑んだ。


 初対面なのに。


 不思議と警戒心を抱かせない人だった。


「ずいぶん楽しそうな方ですわね」


「距離感すごいけどね」


 パードが小声で笑う。


 男はしばらく積荷を眺めていたが、やがて思い出したように顔を上げた。


「そういや、名乗っとらんかったのぉ」


 にっと笑う。


「坂本龍馬じゃ」


「えっ!」


 パードの声が裏返った。


 スギナも目を見開く。


「坂本龍馬……!」


 キルナまで、いつもより明らかに反応が大きい。


「龍馬じゃん」


 レイナは三人を見回した。


「皆様、ご存じですの?」


「知ってるって!」


 パードが興奮したまま答える。


「坂本龍馬だよ?!」


「すごいです……本当にいらっしゃるのですね」


 スギナは感激したように龍馬を見つめた。


 キルナも龍馬を上から下まで眺める。


「かっこいいじゃねぇか」


「キルナまで……」


 レイナは少し驚いた。


 そんな三人を見て、龍馬は楽しそうに笑った。


「なんじゃ、わしはそんなに有名ながか?」


「まあ……色々と」


 パードが言葉を濁す。


 レイナはもう一度、龍馬を見た。


 歴史上の人物なのだという。


 けれど目の前にいる人は、難しい顔など一つもしていない。


 異国の品を見て笑い。


 知らない人たちにも自然に話しかける。


 なんだか。


 とても感じのいい人だった。


 やがて龍馬は、リキュウから信長との商談について聞くと、さらに興味を示した。


「信長に会うがか?」


「はい」


「なら、わしが案内しちゃる」


「よろしいのですか?」


 レイナが尋ねると、龍馬はあっさり頷いた。


「わしも異国の話を聞きたいき。お互い様じゃ」


 その笑顔を見て、レイナも自然に笑った。


「ありがとうございます」


「礼はまだ早いぞ。信長は気難しい男じゃき」


「……やっぱり、そうなのですね」


「まあ、面白いもんは好きじゃ」


 龍馬は異国の品を指差した。


「これだけ持っていけば、話くらいは聞くじゃろ」


 少しだけ。


 心強く感じた。



     *



 安土城へ向かう前。


 姫様は、日本兵たちを集めていた。


「俺らが安土城で信長の目ぇ引きつける。その間に、お前らは家へ帰れ」


 兵士たちが息を呑む。


「我々だけで……?」


「家族と話すんは、お前らやろ」


 姫様はまっすぐ兵士たちを見た。


「来るか残るかは、家族と自分らで決めろ。無理に連れてくんな」


「はい!」


「絶対、船へ戻ってこい」


「ありがとうございます!」


 兵士たちは深く頭を下げ、それぞれの故郷へ向かって走り出した。


 レイナは、その背中を見送った。


 戦うために日本を出た人たちが。


 今度は家族を迎えるために帰っていく。


 姫様は。


 本当に、誰かから何かを奪うために動かない人だった。


 だから。


 自分も。


 姫様を守りたい。


 そう思った時だった。


「……待て」


 姫様が立ち止まった。


「どうされました?」


 ミレーヌさんが尋ねる。


「俺の魂、見られる」


 レイナたちの視線が、一斉に清司へ向いた。


 黒いスーツ。


 肩に担いだ刀。


 姫様の魂に寄り添うように立っている清司。


「信長は前世の俺を知っとる」


 姫様の表情が少しだけ険しくなる。


「今の姿を隠しても、こいつを見られたら終わりや」


 レイナは清司を見つめた。


 そして。


「隠しますわ」


 自然に言葉が出た。


 姫様が振り返る。


「どうやって?」


「……考えます」


 その場では。


 まだ答えられなかった。



     *



 安土城。


 広間へ通されたレイナは、息を呑んだ。


 奥に座っている男。


 織田信長。


 昨日。


 遠くから城を見ただけで緊張した相手が。


 今は。


 本当に目の前にいる。


 その横には、明智光秀も控えていた。


 姫様が、尼姿のまま静かに頭を下げる。


 そのすぐ傍ら。


 清司が立っていた。


 信長から見れば。


 きっと、見えてしまう。


「姫様……」


 レイナが小さく呼ぶ。


 その時。


 シャーホムズが葉巻を取り出した。


「煙で隠しましょう」


「煙?」


 パードが振り返る。


「黒王子を煙で隠すんじゃん!」


「なるほど」


 キルナも頷いた。


 スギナも真剣な表情になる。


「少しでも見えなくなれば、気づかれにくくなるかもしれません」


 すぐに。


 みんなが動き始めた。


 葉巻へ火をつけ。


 煙を清司の周囲へ送る。


 パードが位置を確認する。


「もう少し右!」


「右?」


「黒王子の肩、まだ見えてる!」


 キルナも目を凝らす。


「上も足りない」


 スギナも清司を見ながら、小さく頷いた。


「もう少しだけ煙が必要ですね」


 レイナは。


 その光景を見ていた。


 みんな。


 姫様を守ろうとしている。


 一生懸命に。


 少しでも。


 信長に清司を見つけられないように。


 その努力が。


 なんだか、とても嬉しかった。


 だからこそ。


 レイナは何も言わなかった。


 そっと。


 手を胸元へ添える。


 誰にも見えないように。


 魔力を流す。


 煙の奥。


 清司と信長の間へ。


 薄い。


 透明な壁を作る。


 光も。


 煙も。


 何も遮らない。


 ただ一つ。


 信長の目だけが。


 清司の姿を認識できないように。


 透明な魔法の膜が。


 静かに広がっていく。


 誰にも気づかれない。


 姫様にも。


 パードにも。


 スギナにも。


 キルナにも。


 レイナは、わざと何も言わなかった。


 だって。


 みんなが一生懸命に煙を送っている。


 その気持ちまで。


「魔法があるから大丈夫でした」


 なんて。


 無かったことにはしたくなかった。


「もう少し右ですわ」


 レイナも、みんなと一緒に煙の位置を確認する。


「こっち?」


「はい。もう少しだけ」


 パードが煙を送る。


 キルナが清司の姿を確認する。


 スギナも真剣に見守っている。


 レイナは、その隣で小さく笑った。


 大丈夫。


 見えていない。


 信長からだけ。


 清司は完全に消えている。


 みんなが守ろうとしているから。


 自分は。


 ほんの少しだけ。


 その後ろから支えればいい。


「異国の品を持ってきたそうだな」


 信長が口を開いた。


 姫様が顔を上げる。


「はい」


 レイナの胸が強く鳴った。


 けれど。


 信長の目は。


 清司を一度も追わなかった。


 気づいていない。


 成功している。


 レイナは、そっと息を吐いた。


 その後。


 信長は葉巻に興味を示し。


 異国の酒を飲み。


 次々と並べられる品を面白そうに眺めていた。


 龍馬も楽しそうに異国の品を手に取っている。


 レイナは少し離れたところから、その様子を見守った。


 信長は。


 想像していたより。


 ずっと普通に笑う人だった。


 恐ろしいだけの人ではない。


 けれど。


 油断してはいけない。


 この人は。


 姫様の前世を知っている。


 やがて信長は、異国の品から顔を上げた。


「気に入った」


 広間へ声が響く。


「しばらく日本に滞在せよ。宿も用意させる」


 リキュウが深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 レイナも胸を撫で下ろした。


 第一歩は。


 無事に終わった。


 その時。


 光秀が信長へ声を掛けた。


「信長様。そろそろ本能寺へ向かわれるお支度を」


「本能寺?」


 龍馬が首を傾げる。


「間もなく、信長様は本能寺へ向かわれます」


 その瞬間。


 姫様の動きが止まった。


 ミレーヌさんも顔を上げる。


「……本能寺」


 姫様の声が。


 先ほどまでとは違っていた。


 レイナは、その横顔を見る。


 何か。


 知っている。


 姫様も。


 ミレーヌさんも。


 そして。


 パードたちまで。


 僅かに表情を変えていた。


「……?」


 レイナだけが。


 まだ。


 その名前の意味を知らなかった。

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