第34話 愛されたいというこも
その日の夜。
萌呼は、女中に案内された客間で一人になっていた。
綺麗に整えられた布団。
静かな部屋。
柔らかな灯り。
自分のために用意された場所。
病院の夜とは違う。
機械の音もしない。
消毒液の匂いもしない。
遠くから、人の話し声が聞こえる。
廊下を歩く足音もする。
ここには。
ちゃんと人がいる。
萌呼は布団の上へ座ったまま、今日一日のことを思い返していた。
信長。
政宗。
何度思い出しても。
胸の奥が熱くなる。
本当にいた。
自分を見た。
自分に話しかけた。
自分の名前を呼んだ。
「……信長様」
小さく名前を呼ぶ。
それだけで、頬が緩んだ。
「……政宗様」
もう一人の名も口にする。
ずっと好きだった。
会ったことなど、一度もなかったのに。
本の中でしか知らなかった。
残された言葉。
生き様。
戦。
死。
何度も読んだ。
何度も想像した。
もし、自分があの時代にいたら。
もし、二人に会えたら。
もし。
二人が自分を見てくれたら。
そんなことばかり考えていた。
そして今。
その願いは、叶った。
萌呼は自分の胸へ手を当てた。
「……もっと」
声が零れる。
会えただけでは。
足りなかった。
話せただけでも。
足りない。
もっと見てほしい。
もっと名前を呼んでほしい。
もっと近くにいてほしい。
信長にも。
政宗にも。
「……愛されたい」
ぽつりと呟いた。
その言葉だけが、静かな部屋に残った。
愛される。
それがどんなものなのか。
本当は、よく分からない。
誰かに必要とされることも。
自分だけを大切にされることも。
抱きしめられることも。
帰りを待ってもらうことも。
ほとんど知らない。
だからこそ。
欲しかった。
少しでは嫌だった。
優しくされるだけでも足りない。
誰よりも。
何よりも。
自分を選んでほしい。
自分だけを見てほしい。
溺れるほど。
逃げられないほど。
二人の心を、自分でいっぱいにしたかった。
「……私だけを、愛してほしい」
萌呼は立ち上がった。
部屋の隅に置かれた鏡の前へ歩いていく。
鏡の中には。
淡い色の着物を着た、小さな少女が映っていた。
細い身体。
長い黒髪。
白い肌。
病院のベッドにいた自分とは、もう違う。
萌呼は鏡へ手を伸ばした。
鏡越しに。
自分の頬へ触れる。
「……今の私なら」
愛してもらえるだろうか。
信長に。
政宗に。
その瞬間だった。
指先が、ふっと熱を持った。
「……え?」
萌呼が自分の手を見る。
掌の上で。
黒い炎が揺れていた。
「……なに、これ」
燃えている。
けれど、熱くない。
痛くもない。
黒い炎は、まるで生きているように指先を這った。
萌呼が息を呑む。
次の瞬間。
鏡の表面が、ゆらりと歪んだ。
「……?」
自分の姿が消える。
代わりに映ったのは。
金色の髪をした、美しい姫だった。
柔らかな光の中で。
誰かと話しているのか。
とても幸せそうに笑っている。
その表情を見た瞬間。
萌呼の胸の奥が、僅かにざわついた。
知らない人。
なのに。
黒い炎が揺れた瞬間。
その名が、頭の中へ流れ込んできた。
「……リリアーナ・リュミエール」
萌呼は、小さく呟いた。
リュミエール国の姫。
そして。
その背後に。
もう一つの姿が重なった。
黒いスーツ。
刀。
鋭い目。
「……清司」
萌呼は鏡へ近づいた。
目を凝らす。
違う。
二人ではない。
同じ魂。
同じ人。
「転生後に……リュミエール国の姫……?」
黒い炎が、指先で静かに揺れる。
萌呼は鏡の中のリリアーナを見つめた。
幸せそうだった。
大切にされている顔。
愛されることを知っている顔。
自分とは。
まるで違う。
胸の奥に。
冷たいものが、ゆっくりと広がっていく。
信長が愛した人。
政宗が今も心を向けている人。
その両方が。
この人。
「……憎い」
声は小さかった。
けれど。
その感情だけは、はっきりしていた。
会ったこともない。
何をされたわけでもない。
それなのに。
憎かった。
自分より先に。
二人の心の中にいた人。
自分がずっと欲しかったものを。
当たり前のように持っている人。
萌呼は鏡へそっと触れた。
黒い炎が、大きく揺らめく。
その瞬間。
頭の中へ。
何かが流れ込んできた。
言葉ではない。
説明されたわけでもない。
けれど。
すぐに分かった。
この炎が何なのか。
人の心。
感情。
愛情。
執着。
誰かを好きになる気持ち。
誰かを嫌う気持ち。
誰かを求める気持ち。
それを。
変えられる。
支配できる。
萌呼は、自分の掌に揺れる黒い炎を見つめた。
「……そういうこと」
驚きは。
もう消えていた。
この力があれば。
信長にも。
政宗にも。
自分を見てもらえる。
誰かを愛しているのなら。
その気持ちを。
自分へ向ければいい。
誰かを忘れられないのなら。
その想いを。
消してしまえばいい。
「……これで」
萌呼の口元に。
ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「これで私は……愛してもらえる」
萌呼は、もう一度鏡を見る。
幸せそうに笑う姫。
その魂に重なる清司。
同じ魂を持つ、一人の人。
萌呼の瞳から。
笑みが消えた。
「……リリアーナ」




