第33話 新しい景色を見るということ
王都の港には、大勢の見送りが集まっていた。
船には、日本へ向かうための荷物が次々と積み込まれていく。
レイナは甲板から、その様子を静かに眺めていた。
王宮モビーズ、ロイヤル・フラグメント、海賊たち、鉄ちゃん組、料理班、学校や孤児院の子どもたち。
そして、その中にはグランヴェール国王の姿もあった。
エリオットとノエルの父親。
以前なら、その姿を見るだけで胸の奥がざわついた。
自分を悪役令嬢だと決めつけた人。
エリオットとの婚約を、一方的に終わらせた人。
あの時は、本当に憎かった。
けれど今、港に立つグランヴェール国王は、以前とはまるで違って見えた。
エリオットとノエルを両脇に立たせ、穏やかな笑みを浮かべている。
「いってらっしゃい。どうか無事に帰ってきてください」
「帰るに決まっとるやろ」
姫様が笑う。
「日本のお話も、帰ってきたら聞かせてくださいね」
「観光旅行ちゃうぞ」
「それでも、きっと色々あるでしょう?」
「まあ……そらあるやろな」
グランヴェール国王は、また嬉しそうに笑った。
その横で、エリオットとノエルも大きく手を振っている。
「リリアーナー! 絶対帰ってきてね!」
「気をつけてね!」
「分かった分かった」
その様子を見ながら、レイナはふと気づいた。
「……もう、憎くないですわね」
「ん?」
隣にいたパードが振り返る。
「何でもありませんわ」
レイナは小さく笑った。
過去が消えたわけではない。
けれど、人は変わる。
あの頃とは、もう違う。
エリオットとノエルがあんなに楽しそうに父親の隣に立っている。
それだけで、不思議なくらい胸の中が静かだった。
やがて船が岸を離れ始める。
「いってらっしゃーい!」
「無事に帰ってきてねー!」
次々と届く声に、レイナも大きく手を振った。
これから、日本へ行く。
姫様が清司として生きた故郷。
晴明たちのいた国。
そして、織田信長のいる国。
もちろん、危険な旅だとは分かっている。
それでも。
「少し楽しみですわね」
「でしょ?」
パードが笑う。
「せっかく来たんだし、色んなもの見たいじゃん」
「私も、この世界の日本がどんなところなのか興味あります」
スギナも柔らかく微笑んだ。
キルナは海の向こうを見ながら、短く言う。
「城は見たい」
「やっぱり気になりますわよね」
レイナも笑った。
船はそのまま、海の向こうへ進んでいった。
――数時間後。
「スギナ、大丈夫ですの?」
「はい……少しだけ、気分が優れなくて……」
船室の寝台では、スギナが青い顔で横になっていた。
レイナは濡らした布を額へ乗せる。
「無理して起きなくていいですわ」
「ありがとうございます、レイナ」
「お水、飲めそう?」
「少しでしたら……」
「持ってきますわ」
「すみません」
「謝らなくていいですわよ」
スギナは小さく微笑んだ。
「優しいですね」
「当たり前ですわ」
そこへパードとキルナが顔を覗かせた。
「まだ気持ち悪い?」
「はい。でも、さっきよりは楽です」
「よかった」
パードが寝台の近くへ腰を下ろす。
「船酔いするタイプだったんだね」
「私も初めて知りました」
「意外」
キルナも短く言った。
「私もそう思います」
スギナは少し困ったように笑った。
そのやり取りを見ながら、レイナも自然と笑みをこぼす。
危険な場所へ向かっているはずなのに。
こうしていると、ただみんなで遠くへ出かけているような気がした。
翌朝。
「皆様、日本です!」
「……え?」
日本兵の声に、レイナは勢いよく目を開けた。
慌てて甲板へ出ると、水平線の向こうに陸が見えている。
「もうですの?」
昨日、出港したばかりだった。
隣ではパードも目を丸くしている。
「早すぎない?」
「早い」
キルナも珍しく驚いていた。
少し遅れて、まだ少し顔色の悪いスギナも甲板へ出てくる。
「本当に着いたのですね……」
「スギナ、大丈夫ですの?」
「はい。昨日よりは随分と」
「無理したらあかんで」
姫様が振り返る。
「ありがとうございます、姫様」
甲板の反対側では、ミレーヌが海と陸を見比べていた。
「思ったより近かったですね」
「近所みたいに言うな」
姫様が返す。
レイナは思わず笑った。
やがて日本兵たちが、何着もの着物を運んできた。
「皆様、目立たないよう着替えてください」
「着物ですの?」
レイナの目が自然と輝いた。
初めて見る形。
初めて触れる布。
女たちに手伝ってもらいながら着替え、髪も結ってもらう。
鏡の中には、いつもの自分とはまるで違う姿が映っていた。
「……素敵ですわ」
思わず袖を広げる。
「レイナ、すごい似合う」
先に着替え終えたパードが笑った。
「パードも可愛いですわよ」
「でしょ? これ普通に欲しいかも」
パードは嬉しそうに袖を広げる。
その横では、キルナが長い袖をつまんでいた。
「袖、長すぎ。動きにくい」
「そういうお召し物なんですわ」
「これ、少し切っていい?」
「駄目ですわよ!」
「まだ何もしてない」
「しようとしてましたわ」
キルナは少しだけ肩をすくめた。
「敵が来たら邪魔」
「その時はその時ですわ」
「分かった」
本当に分かっているのかは少し不安だったけれど、レイナはそれ以上何も言わなかった。
スギナも自分の袖を眺め、柔らかく微笑む。
「とても綺麗ですね。日本のお召し物は、こんなに美しいのですね」
「スギナも似合ってますわよ」
「本当ですか? 嬉しいです」
そこへ、ミレーヌが船室から出てきた。
髪を高く結い、華やかな飾りまでつけている。
レイナは一瞬、言葉を失った。
「どうですか?」
「……ミレーヌさん」
「はい」
「とてもお綺麗ですけれど……」
「けれど?」
レイナは少しだけ口元を押さえた。
「なんだか、いつものミレーヌさんと雰囲気が違って……少しだけ不思議ですわ」
パードも隣で笑いを堪えている。
スギナも柔らかく微笑んだ。
「ミレーヌさん、とてもお似合いです。でも、確かに少し新鮮ですね」
「皆さん、同じことを言いますね」
ミレーヌはいつもの真顔だった。
それが余計におかしくて、レイナは小さく笑った。
「せっかくですから、記念に残したいですね」
「絵でも描いてもらいますの?」
「良いですね」
「本気ですの?」
パードが吹き出す。
レイナもつられて笑った。
姫様の尼姿まで加わると、船の中にはさらに笑い声が広がった。
けれどレイナにとっては、その全部が新鮮だった。
着物も。
海も。
日本の景色も。
みんなでこうして笑っている時間も。
「日本って、素敵なところですわね」
レイナが呟く。
パードが隣で頷いた。
「ね。普通に観光したくなる」
「まず城見たい」
キルナが遠くを指差した。
「大きいですわね」
レイナも甲板から身を乗り出した。
港の向こうには木造の町が広がり、そのさらに奥に大きな城がそびえている。
初めて見る日本の城。
陽の光を受けたその姿は、遠くからでも目を奪われるほど美しかった。
「日本のお城……」
レイナは目を細める。
胸が弾んだ。
その時だった。
パードの表情が変わった。
「……待って」
「どうしましたの?」
キルナも城を見つめたまま眉を寄せる。
「これ……安土城じゃない?」
スギナも静かに城を見つめた。
「安土城……?」
レイナだけが分からず、三人を見回す。
パードがレイナへ顔を向けた。
「レイナ。あれ、信長の城だよ」
「……え?」
さっきまで綺麗だと思っていた城が、急に違って見えた。
「ここが……安土城?」
レイナの声が小さくなる。
パードが頷いた。
「織田信長の本拠地」
レイナはもう一度、遠くの城を見上げた。
織田信長。
姫様たちが、何度もその名を口にしていた人物。
危険で、恐ろしくて。
けれど、どうしても避けては通れない相手。
「信長は……あそこにいるの?」
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
レイナは安土城を見上げたまま、息を呑む。
海の向こうにいたはずの人が。
もう、目の前にいる。




