第32話 夢に見た人に会うこと
翌朝。
萌呼は、再び信長たちのいる座敷へ呼ばれていた。
昨日とは違い、身体はもうすっかり軽い。
細く小さな身体ではあるけれど、息苦しさもない。
自分の足で歩ける。
食事もできる。
少し動いたくらいで、身体が悲鳴を上げることもない。
それだけで、今でも少し不思議だった。
座敷へ入る。
正面には信長。
その傍らには秀吉。
そして、昨日から城へ滞在することになった政宗がいた。
「座れ」
「はい」
萌呼は静かに腰を下ろした。
膝の上へ手を置き、顔を上げる。
信長。
政宗。
胸の奥が、また大きく鳴った。
やっぱりいる。
何度見ても、まだ慣れない。
「それで」
信長が萌呼を見る。
「おぬし、どこから来た」
萌呼は少しだけ目を伏せた。
いつか聞かれると思っていた。
この時代について、中途半端な嘘をつけば、すぐにどこかで破綻する。
未来から来たなど、言えるはずもない。
だから。
最初から、辿れない話にしてしまえばいい。
「……分かりません」
「分からぬ?」
「はい」
信長が僅かに眉を上げる。
「幼い頃から親がおらず、あちこちを転々としておりました」
萌呼は静かに続けた。
「少し前に、旅をしていた者たちに拾われたのですが……」
一度、言葉を切る。
「途中で、私を奴隷として売るつもりなのだと知りました」
座敷にいた女中たちの表情が曇る。
「まあ……」
「それで、逃げてこられたのですか?」
「はい。隙を見て逃げました」
「お一人で?」
「はい」
女中の一人が、痛ましそうに眉を下げた。
「怖かったでしょうに……」
「もう大丈夫ですよ」
「ここまでよく逃げてこられましたね」
「ありがとうございます」
萌呼は小さく頭を下げた。
淡い色の着物に包まれた姿は、どこから見ても儚げな少女だった。
細い肩。
小さな手。
けれど、その身体はもう弱くない。
今なら、自分の足でどこへでも歩いていける。
そのことが、まだ少し嬉しかった。
女中たちが萌呼へ同情の眼差しを向ける中。
政宗は黙ったまま、萌呼を見ていた。
秀吉も同じだった。
昨日から、どうにも気になることがある。
萌呼は秀吉に話しかけられれば、きちんと答える。
ほかの武将が座敷へ出入りしても、礼儀正しく頭を下げるだけ。
特別な反応は見せない。
なのに。
「それでな――」
信長が声を発した瞬間。
萌呼の視線が、すぐにそちらへ向いた。
政宗が腕を組み直す。
それだけで、今度はそちらを見る。
無意識なのだろう。
隠そうとしている様子すらない。
政宗は僅かに眉を寄せた。
何なんだ、こいつ。
俺と信長を見る時だけ、明らかに目が違う。
秀吉もまた、萌呼の様子を静かに眺めていた。
殿と政宗殿だけ。
あの二人を見る時だけ、目の奥に妙な熱がある。
それ以外の者には、ほとんど興味を示さぬというのに。
「しかし」
信長が萌呼を見る。
「妙な娘じゃな」
「……そうでしょうか」
「昨日から、やたらとわしと政宗を見ておる」
「……!」
萌呼の肩が僅かに揺れた。
「すみません……」
「何故謝る」
「……」
「まあよい」
信長は、それ以上気にした様子もなかった。
萌呼はそっと息を吐く。
けれど。
やっぱり、見てしまう。
信長が話す。
政宗がそれに返す。
ただ、それだけの光景。
何度も想像した。
もし。
織田信長と伊達政宗が、同じ時代に生きていたなら。
どちらが天下を取ったのか。
どんな言葉を交わしたのか。
敵になったのか。
友になったのか。
どんな顔で笑ったのか。
全部。
自分の中にしかなかった景色だった。
そのはずだった。
ぽたり。
萌呼の膝へ、雫が落ちた。
「……え」
自分でも驚いて、頬へ手を当てる。
濡れていた。
「どうした」
信長が眉を寄せる。
女中がすぐに萌呼へ近づいた。
「やはり、昨日のことを思い出されましたか?」
「もう大丈夫ですよ」
萌呼は小さく首を振った。
「違うんです……」
「違う?」
「……嬉しくて」
信長が怪訝そうな顔をする。
「何がじゃ」
萌呼は答えられなかった。
言えるわけがない。
ずっと会いたかった。
何度も夢に見た。
自分の中で何度も生かして。
何度も死なせて。
その生き様も。
その最期も。
何度だって思い描いた。
それでも飽きることなく愛した人たちが。
今。
目の前で生きている。
「……本当に、いるんですね」
小さく零れた。
政宗の目が僅かに細くなる。
秀吉も静かに萌呼を見る。
「何がいるんだ?」
「……すみません。何でもありません」
萌呼は慌てて涙を拭った。
信長はしばらく萌呼を見ていたが、やがて首を傾げた。
「何だ、この娘は」
その言葉に。
萌呼はまた、少しだけ笑った。
その声さえ。
嬉しかった。
生きている。
声がある。
表情がある。
自分を見ている。
それだけで、また胸の奥がいっぱいになる。
萌呼は小さく息を整えた。
「あの……」
「何じゃ」
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「申せ」
萌呼は少しだけ身を乗り出した。
「今、この国は……どのような状況なのですか?」
信長が眉を上げる。
「状況?」
「はい」
「どなたが、どこを治めていて……今、天下はどのようになっているのでしょう」
「随分と天下に興味がある娘じゃな」
「知らない土地なので……知っておきたくて」
「なるほどな」
萌呼は頷いた。
そして。
目の前に信長がいることを考えれば。
自然に答えは一つなのだと思ってしまった。
「天下は……信長様が取られたんですね……」
座敷の空気が僅かに変わった。
信長が萌呼を見る。
「何じゃ、その言い方は」
「……え?」
「まるで、他の者が天下を取る可能性でもあったように聞こえるが」
「……!」
萌呼の指先が僅かに強張る。
「い、いえ……ただ……」
秀吉が静かに口を挟んだ。
「随分と高く買っておられるのう」
声は柔らかい。
けれど。
萌呼を見る目には、さっきまでとは違うものがあった。
「それほどまでに、殿のことを知っておるのか?」
「いえ……お噂を聞いていただけです」
「ほう」
秀吉は、それ以上何も言わなかった。
政宗は黙ったまま萌呼を見ている。
その視線に気づき、萌呼は思わず政宗を見る。
目が合った。
「……何ですか?」
「いや」
政宗は少しだけ目を細める。
「お前、信長の天下がそんなに気になるのか?」
「……はい」
「俺のことも、やたら見るよな」
「……」
「秀吉もいる。他にも名のある武将は山ほどいる」
政宗の声が少し低くなる。
「なのに、俺と信長だけだ」
萌呼は答えられなかった。
図星だった。
政宗と信長。
その二人だけは。
自分の中で、ずっと特別だった。
「……有名なお方ですから」
「俺より有名な奴なんざ、いくらでもいる」
「……」
政宗は小さく笑った。
けれど、その目は笑っていない。
「まあいい」
萌呼はそっと息を吐いた。
秀吉も、そのやり取りを黙って見ていた。
殿と政宗殿だけ。
やはり。
何かある。
「それで」
信長が地図へ手を伸ばした。
「天下がどうなっておるか知りたいのであろう」
「……はい」
「なら、教えてやろう」
萌呼の瞳が僅かに輝いた。
信長が地図を広げる。
その横には政宗がいる。
秀吉もいる。
何度も想像した人たちが。
同じ地図を見て。
同じ天下の話をしている。
萌呼は、また泣きそうになるのを必死に堪えた。
夢の中にしかなかった景色が。
今。
本当に、目の前にある。
その時だった。
「失礼いたします」
襖の向こうから、落ち着いた声がした。
「入れ」
信長が答える。
静かに襖が開いた。
一人の男が、座敷へ入ってくる。
整えられた身なり。
穏やかな立ち居振る舞い。
どこか品のある佇まい。
「光秀か」
信長が何気なく名を呼んだ。
萌呼の身体が止まった。
明智光秀。
その名を聞いた瞬間。
胸の奥にあった温かいものが、すっと消えた。
萌呼は光秀を見た。
じっと。
ただ、見た。
さっきまで信長と政宗へ向けていた目とは、まるで違う。
冷たく。
暗く。
ひどく、憎しみに満ちた目だった。
光秀が足を止める。
「……信長様」
静かな声だった。
「私は、この娘に何かいたしましたかな」
萌呼は答えない。
ただ見ていた。
こいつだ。
こいつが。
こいつが燃やさなければ。
信長様は。
前の世界でも。
天下を取っていたかもしれないのに。
萌呼の指先が、膝の上で強く握られる。
光秀は僅かに眉を寄せた。
「ずいぶんと、厳しい目で見られておりますな」
政宗が萌呼を見る。
秀吉もまた、その横顔を見ていた。
さっきまでとは違う。
明らかに。
この男だけを見る目が違う。
信長が怪訝そうに萌呼を見る。
「おぬし、光秀を知っておるのか?」
萌呼は、ゆっくりと瞬きをした。
そして。
「……いいえ」
静かに答えた。
その声だけは。
いつもと同じだった。




