第3話 もう一人の物語
その頃。
レイナの知らない場所で、もう一人の物語が始まっていた。
――奥州。
まだ、伊達政宗が「政宗」と名乗るより前。
伊達家の嫡男・梵天丸は、朝から庭で木刀を振っていた。
「もう一度」
相手をしていた指南役が、困ったように眉を下げる。
「若君。本日はもう十分でございます」
「まだできる」
「しかし、お身体も――」
「できるっつってんだろ」
小さな身体から返ってきた言葉に、指南役は口を閉じた。
梵天丸は木刀を握り直す。
片方の目が思うように見えなくなってから、周囲の態度は少し変わった。
無理をさせるな。休ませろ。まだ幼いのだから。
気遣われていることくらい、梵天丸にも分かっている。だからといって、できることまでやめる理由にはならなかった。
見えないなら、見える方で見る。弱いところができたなら、それ以外を強くすればいい。
できないことを数えている暇があるなら、できることを増やした方が早い。
「来い」
梵天丸が木刀を構える。
指南役は小さく息を吐くと、再び向かい合った。
伊達家の跡取り。
それが、生まれた時から決められていた梵天丸の立場だった。
学問、兵法、武芸。
人の上に立つために必要だと言われたものは、幼い頃から片っ端から叩き込まれた。
本人も嫌がらなかった。
むしろ、覚えるほど面白かった。
国がどう動くのか。人はなぜ従うのか。兵は何を見て戦うのか。米はどこから集まり、金はどこへ流れるのか。
戦に勝つだけでは、国は続かない。
幼い梵天丸は、まだ言葉にはできなくとも、それを少しずつ理解していた。
ある日。
学問の時間に広げられた地図を眺めながら、梵天丸はふと口を開いた。
「天下って、どこまでだ?」
傅役が目を瞬く。
「……天下、でございますか」
「ああ」
「なぜ、そのようなことを?」
「気になっただけだ」
梵天丸は地図の上へ指を置いた。
奥州。
その外。
さらに、その向こう。
「ここだけ守って、一生終わるのか?」
「若君」
「今すぐどうこうするって話じゃねぇよ」
梵天丸は何でもないように言って、また地図へ目を落とした。
だが、その片目だけは、ずっと遠くを見ていた。
そんな梵天丸が、織田家の嫡男・吉法師と初めて顔を合わせたのは、それからしばらく後のことだった。
父に連れられた先で、梵天丸は妙に目立つ少年を見つけた。
派手な着物。
偉そうな態度。
まだ子供のくせに、周囲の大人が何を言おうと気にした様子もなく、自分が一番偉いとでも言いたげな顔をしている。
梵天丸は足を止めた。
「…………」
向こうも、こちらを見る。
「なんじゃ」
「…………」
「人の顔をじろじろ見るでない」
その言い方。
人を見る時の目。
偉そうに顎を上げる癖。
何より、腹が立つほど堂々としたその態度。
梵天丸の眉が、ゆっくり寄った。
「……志乃?」
吉法師の表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、梵天丸は見逃さない。
「…………」
「お前、志乃だろ」
今度は吉法師が梵天丸を凝視した。
「……お主」
その反応だけで十分だった。
梵天丸は一歩近づく。
「清司は?」
吉法師は少し黙った。
そして、重々しく口を開く。
「死んだ」
「死んだのは知ってんだよ!」
梵天丸の声が響いた。
「お前、本当に信長か!? あ!? 今うつけ時代か!」
「誰がうつけじゃ!!」
「清司がどうなったか聞いてんだよ!」
「最初からそう言わぬか!」
「普通分かるだろ!!」
「分かるか!!」
少し離れた場所にいた双方の付き人が、一斉にこちらを見た。
つい先ほど出会ったばかりのはずの二人が、なぜか昔から知っているような勢いで怒鳴り合っている。
誰一人、話についていけなかった。
「……で」
梵天丸は吉法師を睨む。
「清司は、どうなった」
今度こそ、吉法師の顔からふざけた色が消えた。
「オヤジが病に伏した隙を狙って、身内が裏切った」
梵天丸の目が細くなる。
「本家を襲われたのか」
「ああ」
「志乃、お前もいたんだろ」
「おった」
「なら、なんで清司を置いてきた」
「置いてきたんではない」
吉法師は不機嫌そうに返した。
「車へ押し込まれた」
「……清司に?」
「ああ」
梵天丸は黙った。
それだけで、光景が目に浮かんだ。
逃げろと言っても聞かない。
自分だけ残る。
相手が何を言おうが、力ずくでも安全な場所へ押し込む。
「……あいつならやるな」
「やった」
「オヤジと姐さんは」
「逃げ切った」
「清司は」
「一人で本家へ戻った」
梵天丸の顔から、完全に笑いが消えた。
「何人残ってた」
「大勢じゃ」
「一人で?」
「一人でじゃ」
「刀は」
「持っておった」
「……斬ったのか」
「斬っておらぬ」
梵天丸の眉が動く。
「一人も?」
「一人もじゃ」
「…………」
吉法師は淡々と続けた。
「全員を倒して、誰一人奥へ通さなんだ」
梵天丸はしばらく何も言わなかった。
やがて、短く息を吐く。
「……最後まで、あいつだったんだな」
吉法師は答えなかった。
「それで」
梵天丸が顔を上げる。
「最後は?」
「向かいの建物から撃たれた」
「どこを」
「額じゃ」
空気が止まった。
梵天丸は目を伏せた。
「……そうか」
それ以上は、何も言わなかった。
吉法師も黙っている。
子供二人の間に流れる沈黙を、周囲の大人たちは不思議そうに見ていた。
何を話しているのか。
清司とは誰なのか。
オヤジとは誰なのか。
なぜ、この二人がそんなことを知っているのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
だが、誰も聞けなかった。
少しして。
先に沈黙を破ったのは、吉法師だった。
「お主は、いつからここにおる」
「生まれた時から」
「記憶は」
「最初からある」
「わしもじゃ」
梵天丸が吉法師を見る。
「じゃあ、お前も最初から信長だったのか」
「当然じゃ」
「志乃のまま信長やってるわけじゃねぇんだな」
「当たり前じゃろ。わしは織田信長じゃ」
「まだ吉法師だろ」
「いずれ信長じゃ」
「そこは認めんのかよ」
「当然じゃ」
「何が当然なんだよ」
少し離れた場所で、大人たちがまた顔を見合わせた。
先ほどの重い空気は、どこへ行ったのか。
梵天丸は改めて吉法師を眺めた。
「お前、今いくつだ?」
「数えておらぬ」
「は?」
「数えておらぬ」
「なんでだよ!」
「どうでもよい!」
「どうでもよくねぇだろ!」
「生きておれば増えるだけじゃ!」
「雑すぎんだろ!」
梵天丸は思わず頭を抱えた。
「お前、本当に大丈夫か?」
「何がじゃ」
「全部だよ」
「余計なお世話じゃ」
吉法師は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「そういうお主はいくつじゃ」
「知らねぇよ。子供だよ!」
「わしも子供じゃ」
「見れば分かる!」
「なら聞くでない」
「俺は聞いてねぇよ!!」
また付き人たちが黙った。
やはり、意味が分からなかった。
吉法師はそんな周囲など気にもせず、ふと梵天丸の近くに置かれていた地図を見る。
「お主」
「なんだよ」
「天下に興味があるそうじゃな」
梵天丸の目が変わった。
「……誰から聞いた」
「耳に入った」
「早ぇな」
「わしを誰じゃと思うておる」
「吉法師」
「信長じゃ!」
「今は吉法師だろ!」
「細かいのう!」
「細かくねぇよ!」
吉法師は梵天丸の言葉を無視して、地図へ近づいた。
小さな指で、その上をなぞる。
「わしは取るぞ」
梵天丸が横を見る。
「何を」
「天下じゃ」
迷いなど、一つもなかった。
子供の口から出たとは思えないほど、吉法師は当然のことのように言った。
梵天丸は数秒だけ黙る。
そして。
「俺も取る」
吉法師が振り返った。
「ほう」
「何笑ってんだ」
「面白い」
「俺は本気だ」
「わしも本気じゃ」
二人は睨み合った。
吉法師の口元が、ゆっくり上がる。
「ならば決めた」
「何を」
吉法師は梵天丸へ指を向けた。
「どちらが先に天下を取るか、勝負じゃ! 伊達政宗!」
「…………」
梵天丸は自分を指差した。
「誰?」
「お主じゃ」
「俺、梵天丸だけど」
「いずれ政宗になる」
「なんで知ってんだよ」
「わしは信長じゃ」
「説明になってねぇよ!」
「細かいことを気にするでない!」
「気にするだろ普通!」
梵天丸は盛大に眉を寄せた。
だが。
少しして、その口元も上がった。
「……まあ、いい」
吉法師を見る。
「その勝負、乗った」
「言うたな?」
「ああ」
「後悔するでないぞ」
「お前こそ」
梵天丸は小さな拳を差し出した。
「俺が先に取っても泣くなよ」
「誰が泣くか!」
吉法師も拳を出す。
二つの小さな拳がぶつかった。
この時。
二人はまだ子供だった。
天下がどれほど遠いのか。
そこへ至るまでに、何を失い、何を背負い、何を選ばなければならないのか。
まだ知らない。
それでも。
この日交わした勝負だけは、長い年月を経ても二人の中から消えることはなかった。
そして。
遠いリュミエールで暮らすレイナは、まだ知らない。
この少年が。
いつか自分の人生に、深く関わることになるなど。




