2話 悪役令嬢というレッテル
――麗奈?
初めて顔を合わせた時、姫様は私を見るなり、そう言った。
「お前も死んだんか?」
何のことかは分からなかった。けれど、その隣に立つ男を見た瞬間、そんな疑問はどうでもよくなった。
黒いスーツに、日本刀。鋭い目をしているのに、誰かを威圧するために立っているわけではない。ただそこにいるだけで、不思議と空気が引き締まる。
魔力の流れを見れば、すぐに分かった。
別人ではない。
あの男は、姫様の魂そのものだった。身体とはまるで違う、本来の姿なのだ。
そして、目が合った。
「……なんて」
胸が、大きく鳴った。
「なんて凛々しいお方……」
その日、私は姫様に一目で恋をした。
正確には。
姫様の中にいる、清司という人に。
以前の姫様は、苦手だった。
けれど今、同じ身体にいる姫様は何もかもが違った。
恋愛イベントより仕事。肩書より、その人が何をできるのかを見る。誰にも注目されていなかった者が働いていれば、その手を見つける。
できる者には任せ、無理な者には無理をさせない。
身体が思うように動かなければ本気で腹を立て、恋をしろと言われれば女神相手に刀を抜く。仕事のできる者が背景のように扱われていれば、当然のように前へ出す。
最初は、黒いスーツも、日本刀も、鋭い目も、何もかもが好みだった。
けれど姫様を知れば知るほど、好きになる理由は増えていった。
初めて会った、その日のこと。
「お前は悪役令嬢なんかやない」
姫様は、私にそう言った。
「ちゃんと情もっとる」
たった一日だった。
それなのに、ずっと誰にも分かってもらえなかった私を、姫様は誰よりも早く見抜いた。
その後も、姫様は変わらなかった。
学園の大階段は、恋愛イベントのための場所から、誰でも安全に通れる道へ変わった。今まで誰にも見られていなかった者たちは、仕事と持ち場を与えられた。
ロイヤル・フラグメントの皆様も、自分にできることを考え、それぞれの場所へ立つようになった。
そして私にも、姫様は当然のように学園を任せた。
特別扱いでも、同情でもない。
できると思ったから、任せる。
ただ、それだけ。
それが、嬉しかった。
苦手だった姫様が、清司という人になって。
私を見抜き。
私を肯定してくれた。
気づけば、ミレーヌさんも、バルドさんも、ロイヤル・フラグメントの皆様も、以前とは違う距離で私のそばにいた。
必要なことを言っても、悪役だと決めつけられない。
仕事をして。
困っている人を見て。
腹が立つことには腹を立てて。
そのままの私でいていい。
そう思える場所が、少しずつできていた。
私は、少しずつ幸せを感じるようになっていた。
そんなある日の午後。
王宮の庭園で、私たちは小さなお茶会を開いていた。
春の日差しは柔らかく、テーブルには紅茶と焼き菓子が並んでいる。姫様の隣には、いつものように黒スーツ姿の清司が立ち、向かいにはミレーヌさん。少し離れたところには、バルドさんが静かに控えていた。
「交流会終わったら、一旦落ち着いたな」
姫様が紅茶を飲みながら言った。
「今だけですわ。次の行事もございますもの」
「またあるんか」
「学園ですので」
「学園、行事多すぎひん?」
「以前の姫様は、楽しみにしておられましたわ」
「……恋愛イベントあるから?」
「ほとんどは」
「やっぱりかい」
姫様は心底うんざりしたような顔をした。
私は思わず笑う。
「何や」
「いいえ。以前の姫様とは、本当に違うと思っただけですわ」
「そういや、ちゃんと聞いたことなかったな」
姫様はカップを置いた。
「前のふわ姫って、実際どんなんやったん?」
何気ない問いだった。
私は少しだけ考え、それからゆっくり口を開いた。
「……高校へ上がるまでは、今よりずっと平和でしたわ」
私は続けて話した。
「わたくしとロイヤル・フラグメントの皆様は、幼い頃からずっと一緒でした。喧嘩もしましたし、言いたいことも言いましたけれど、仲は良かったのです」
今の皆様を見れば、それは不思議でも何でもない。
エリオット様が笑えば皆が笑い、ノエル様が騒げば誰かが止める。セシル様がふざけ、レオン様が真面目に返し、エミール様が全員の予定を把握する。
アレクシス様とルシアン様は好きなことを言い、それでも最後には全員で同じ場所へ戻ってくる。
昔も、そんな関係だった。
「それが変わったんは、ふわ姫が来てから?」
「……はい」
高校へ上がり、姫様が現れてから。
少しずつ、皆様は変わっていった。
「エリオット様は、皆が求める王子様であろうとなさいました」
「キラキラ王子?」
「ええ。いつも笑って、優しくて、誰にでも完璧で。今よりずっと背伸びをしておられましたわ」
「しんどいやろ、それ」
「しんどかったと思います」
それでも、エリオット様はやめなかった。
姫様が喜ぶから。
周囲が、そういう王子を求めるから。
「レオン様は、姫様を守るためなら命を捧げると」
「また命かい」
「毎日のように無理な鍛錬をしておられました。休むよう申し上げても、もっと強くならなければ姫様を守れないと」
姫様の眉間に皺が寄る。
「命捧げる前に身体壊しとるやんけ」
「わたくしも、そう申し上げました」
「その通りやな」
即座に返ってきた言葉に、私は少しだけ笑った。
「ノエル様は、以前から甘えん坊ではございましたけれど」
「それは今もやな」
「ええ。ただ、姫様が来られてからは、もっと僕だけを見て、と何度もおっしゃるようになりました」
「重なっとるな」
「かなり」
「今のチワワくらいでちょうどええわ」
「チワワ?」
「忘れろ」
ミレーヌさんが静かに黒革手帖を開いた。
「旧ノエル様。承認欲求、姫様へ集中」
「そこ記録するん?」
「過去比較ですので」
「それは要るな」
姫様が頷く。
「エミール様は、姫様の予定や好みをすべて記録するようになりました」
「管理貴族な」
「好感度表も作っておられました」
「出た」
「爆弾表も」
「なんやねんな、あれ」
「一定期間、相手を放置した場合に関係が悪化する可能性を――」
「恋愛を事故物件みたいに管理すな」
「わたくしも理解できませんでしたわ」
ミレーヌさんが手帖へ書き足す。
『旧エミール様。
姫様への好感度管理に能力を全投入。
現在――人員配置へ転用』
「転用できたんは救いやな」
「はい」
今のエミール様は、誰が何をできるかを見るようになった。
以前は姫様一人へ向いていた細やかな観察が、今では全体を見る力になっている。
「セシルは?」
姫様が聞いた。
「セシル様は、少し違いましたわ」
「違う?」
「元々、誰とでも仲よくしたい方ですもの。姫様だけを特別扱いするような空気には、あまり馴染んでおられませんでした」
「ほな、ふわ姫とは?」
「適度に合わせておられましたわ。姫様が喜ぶことは言う。誘われれば参加する。けれど、ご自身から深く関わろうとはなさらない」
「距離取ってたんやな」
「ええ。嫌っていたわけではないと思います。ただ、姫様一人だけを中心にしたい方ではなかったのでしょう」
私は少しだけ笑った。
「今のセシル様を見れば分かりますわ。あの方は、一人だけを見ていたいのではなく、皆様と笑っていたいのです」
「それは分かるわ」
姫様も少し笑う。
「笑顔、配りすぎやけどな」
「ええ。少々、声量もございますけれど」
「少々ちゃうやろ」
話しているうちに、昔の皆様の顔が次々と浮かんできた。
「アレクシス様とルシアン様は、また少し違いましたわ」
「ふわ姫のこと嫌いやった?」
「少なくとも、よくは思っておられませんでした」
「やっぱり」
「アレクシス様は、ご自分の価値観や美意識を姫様に合わせることを嫌がっておられましたし、ルシアン様は、姫様を中心に皆様が動いていくことそのものを好んでおられなかったように思います」
「まともやん」
「ただ、その結果として皆様の間も少しずつ悪くなっていきました」
私はそこで一度、紅茶へ口をつけた。
昔は、本当に仲が良かった。
幼い頃からずっと一緒だった。
それが高校へ上がり、姫様が現れてから少しずつ崩れていった。
姫様を好きになる人。
守ろうとする人。
気を引こうとする人。
管理しようとする人。
適当に合わせる人。
距離を取る人。
反発する人。
同じ方向を見ていたはずの皆様が、いつの間にか別々の方向へ引っ張られていった。
「レイナとも?」
「はい」
私は小さく頷いた。
「わたくしも、皆様と少しずつ仲が悪くなっていきました」
「何で?」
「姫様へ注意するからですわ」
体調が悪いのなら休むべきだ。
課題があるなら、先に終わらせるべきだ。
恋愛の予定より、今やらなければならないことがある。
無理をして倒れれば誰かが運び、誰かが看病し、誰かが代わりに仕事をする。
その負担まで考えるべきだ。
私は、そう言い続けた。
「ほんで、ふわ姫は?」
「泣かれました」
姫様の表情が一気に曇った。
「……うわ、しんどいやつや」
「そこまでですの?」
「泣けばええって思っとる女が一番無理や」
黒スーツ姿の清司も、心底嫌そうな顔をしている。
「俺、ふわ姫みたいなタイプとは仲良くできんし、たぶん喋りもせんと思うわ」
「同じ身体ですけれど」
「身体だけやんけ」
「それは、そうですわね」
ミレーヌさんが黒革手帖へ淡々と記す。
『旧リリアーナ姫。
注意を受けた際、感情的反応によって話し合いが終了する傾向あり。
旧ロイヤル・フラグメント。
姫様を中心として関係性が変化。
個々の本来の性格・役割より、恋愛感情や姫様への対応を優先する傾向あり』
「ほんで、レイナが悪役扱い?」
「ええ」
「筋通っとること言うただけやん」
「わたくしも、そう思っておりました」
だからこそ、余計に周囲とは噛み合わなかった。
「わたくしが姫様を嫌っていると思い、わざわざ悪口を言いに来る令嬢もおりましたわ」
「ふわ姫の?」
「はい」
「一緒に言うた?」
「言うわけないでしょう」
思わず強い声が出た。
「わたくしと姫様の関係と、本人のいないところで好き勝手に悪口を言うことは別です」
「せやな」
「ご本人へ直接言えないことを、わたくしの前でだけ言うのはおやめなさいと注意しました」
姫様は少し考え、それから頷いた。
「筋通ってるやん」
「……ありがとうございます」
「いや、普通やろ」
その普通が。
昔は、普通ではなかった。
「姫様が提出できていない書類も、必要なものは整えておりました」
「そこまでやってたん?」
「放置すれば、姫様だけの問題では済みませんもの」
教師が待つ。
班分けが止まる。
他の令嬢たちの予定も決められない。
だから必要なものはやった。
別に、姫様に感謝されたかったわけではない。
好きになってほしかったわけでもない。
ただ。
誰かが困ると分かっていたから、やっただけだった。
「それでも、周りから見れば、わたくしは悪役だったのでしょうね」
そう言って笑った。
もう昔の話だ。
そう思っていたはずなのに、話し始めれば思った以上に色々と覚えていた。
何を言っても聞いてもらえなかったこと。
姫様が泣けば、そこで話が終わったこと。
幼い頃から仲の良かった皆様と、少しずつ話さなくなっていったこと。
最後には、説明することさえ諦めた。
「聞く気のない方には、何を申し上げても届きませんもの」
それだけ言って、私はカップへ視線を落とした。
誰も、すぐには言葉を挟まなかった。
姫様も。
ミレーヌさんも。
バルドさんも。
ただ、最後まで聞いていた。
しばらくして、姫様が静かに口を開いた。
「……大変やったな」
私は顔を上げた。
その声には、同情も哀れみもなかった。
ただ本当に、大変だったのだろうと。
そう受け止めた声だった。
「悪い事してへん奴が損することって、普通に生きとったらあることやねん」
姫様はそう言って、少しだけ眉を寄せた。
「ちゃんとやっとる奴ほど黙って背負ってたりする。見た目とか表面ばっかり見る奴は、雑にレッテル貼ったりする」
「……」
「悪役令嬢って言うたら楽やろ。こいつ悪い奴です、で終わらせられるから」
誰が何をしたのか。
なぜ、そうしたのか。
そこまで見なくても済む。
「でも俺は、レイナを信用しとる。やから仕事も任せられる」
姫様が私を見る。
「ミレーヌもそうやろ?」
「はい」
ミレーヌさんは迷わず頷いた。
「レイナさんは、完全にこちら側です」
「言い方」
「事実ですので」
少しだけ笑いが起きる。
それから姫様は、何でもないことのように続けた。
「レイナ」
「はい」
「俺とミレーヌは、お前側や」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「もう大事な仲間やと思っとる。なんかあったら、遠慮せず言ってくれ」
「……姫様」
「そうですよ、レイナさん」
ミレーヌさんが柔らかく笑った。
「今さら一人で抱え込まなくていいんです」
少し離れた場所にいたバルドさんも、静かに口を開く。
「私も、レイナ様は悪くないと思います」
私はバルドさんを見る。
「必要なことを、必要な時におっしゃっていたのでしょう。言葉が強いことと、悪意があることは別でございます」
何も言えなかった。
姫様が、少し笑う。
「俺らがおる」
それだけだった。
昔のことが消えるわけではない。
悪役令嬢と呼ばれたことも。
婚約を破棄されたことも。
幼い頃から仲の良かった人たちと、少しずつ離れていった時間も。
全部残っている。
けれど今は。
話を最後まで聞いてくれる人がいる。
私の言葉を、最初から疑わない人がいる。
大事な仲間だと。
何かあれば言えと。
自分たちがいると。
そう言ってくれる人がいる。
「……ずるいですわ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「何が?」
「何でもございません」
「なんやそれ」
姫様は首を傾げたけれど、それ以上は聞かなかった。
無理に踏み込まない。
必要なら待つ。
けれど、離れない。
そういうところも、やはり好きだった。
ミレーヌさんが何も言わず、私のカップへ紅茶を注ぎ足す。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
バルドさんも静かに一礼した。
「何かございましたら、いつでもお声がけください」
「……はい」
私は小さく頷いた。
庭園の向こうから、ロイヤル・フラグメントの笑い声が聞こえてくる。
昔は。
あの皆様と、こんな関係に戻れるとは思っていなかった。
姫様を中心に少しずつ壊れていった皆様と、今は同じ現場に立ち、言いたいことを言い合い、笑っている。
姫様が変わったから。
皆様もより良い方向へ変わった。
そして私も、いつの間にかちゃんと居場所を持っていた。
私は姫様の隣に立つ黒スーツ姿へ目を向けた。
初めて会った時と同じ姿だった。
黒いスーツ。
肩に担いだ刀。
鋭い目。
あの日は、それだけで胸が鳴った。
今も、もちろん格好いい。
どうしようもないほど素敵だ。
けれど今、胸の中にある気持ちは、あの日よりずっと大きい。
苦手だった姫様が、清司という人になった。
私を信じてくれた。
仕事を任せてくれた。
仲間だと言ってくれた。
そして。
居場所までくれた。
衝撃的な一目惚れから始まった恋は、いつの間にか、どうしようもないほど本気になっていた。
「姫様」
「なんや?」
私は少しだけ笑った。
「……何でもございませんわ」
今は。
この時間が、とても幸せだった。




