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婚約破棄された悪役令嬢は、有能すぎました  作者: 夜嶋朔


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第29話 憧れるということ

 御命萌呼は、物心ついた頃から病院にいた。


 白い天井。


 白い壁。


 消毒液の匂い。


 朝になれば看護師が来て、薬を飲み、検査を受ける。


 体調が良ければ少しだけ廊下を歩き、悪ければ一日中ベッドの上。


 季節が変わっても。


 病室の景色は、ほとんど変わらなかった。



「お母さん、今日来るって言ってたのに……」


 窓の外が暗くなっても。


 誰も来なかった。


 翌日。


 母親から電話があった。


『ごめんね。妹の用事があったのよ』


「……うん」


『こっちだって忙しいんだから。今度の再検査の日は行くから』


「うん」


『入院の更新手続きもあるし』


「……分かった」


 電話が切れる。


 萌呼はしばらく携帯電話を見つめていた。


 父親も似たようなものだった。


 来るのは手続きがある日。


 医師から説明を受ける日。


 何かに署名しなければならない日。


 それ以外は、ほとんど来ない。


「お父さんも、お母さんも……」


 ぽつりと呟く。


「妹ばっかり……」


 妹が嫌いだったわけではない。


 ただ。


 どうして自分には、誰も時間を使ってくれないのだろうと思った。


 病気だから仕方ない。


 入院しているから仕方ない。


 家族にも生活がある。


 何度もそう言われた。


 そのたびに。


 萌呼は少しずつ思うようになった。


 なら。


 自分は、何のために生まれてきたのだろう。



 薬の副作用で吐いた夜も。


 熱で眠れなかった夜も。


 身体中が痛くて泣いた夜も。


 両親はいなかった。


 看護師は優しい。


 医師も懸命に治療してくれる。


 けれど。


 それは仕事だった。


「……生まれてこなかったら、よかったのに」


 誰にも聞こえない声で。


 何度も呟いた。


 死ぬことは怖くなかった。


 むしろ。


 早く終わればいいと思っていた。



 そんな萌呼へ、初めて戦国時代の本を渡したのは、同じ病棟に入院していた老人だった。


 かつて大学で日本史を教え、長年戦国史を研究していたという。


 定年後も本を書いていたが、癌が見つかり、今は治療のために入院していた。


「また一人か」


 老人が声をかけてきた。


 萌呼はベッドの上で顔を上げる。


「……はい」


「暇じゃろ」


「まあ……」


「なら、これでも読むか」


 老人が差し出したのは、一冊の本だった。


「戦国時代?」


「嫌いか?」


「分かりません」


「なら読んでみればよい」


 それが始まりだった。



 最初は暇つぶしだった。


 けれど。


 萌呼は、すぐに夢中になった。


 織田信長。


 豊臣秀吉。


 徳川家康。


 武田信玄。


 上杉謙信。


 真田幸村。


 石田三成。


 伊達政宗。


 老人は萌呼が一冊読み終えるたびに、次の本を渡してくれた。


「どうじゃった」


「面白かったです」


「なら次はこれじゃ」


「また分厚い……」


「読めるじゃろ」


「読めますけど」


 老人は笑った。



 彼は、ただ英雄の話をする人ではなかった。


「歴史に善人も悪人もおらん」


「でも、たくさん人を殺してる人もいますよね」


「おる」


「悪い人じゃないんですか?」


「その一面だけを見れば、そう言えることもある」


 老人は本を閉じる。


「じゃが、人間は一つの行動だけでは決まらん」


 萌呼は黙って聞いていた。


「信長にも信長の事情があり、光秀にも光秀の事情がある。政宗にも、秀吉にも、家康にもな」


「……難しいですね」


「だから面白いんじゃ」


 老人は笑った。


「人が、どう生きたかを見るんじゃよ」



 萌呼は多くの武将の人生を読んだ。


 けれど。


 何度も読み返したのは、二人だけだった。


 織田信長。


 伊達政宗。



 信長は、自分で道を切り開いた。


 理解されなくても。


 恐れられても。


 立ち止まらなかった。


 政宗もまた。


 幼い頃から重いものを背負い。


 片目を失い。


 父を失い。


 それでも、自分の名で生き続けた。



「……いいな」


 萌呼は病室で本を抱えながら呟いた。


 羨ましかった。


 自分で決める人生。


 自分で進む人生。


 苦しくても。


 最後まで、自分のものだった人生。



 そして。


 武将たちの死に様も、萌呼には美しく見えた。


 討死。


 自刃。


 燃える城。


 最後まで刀を手放さずに死んだ者。


 主君へ忠義を尽くして死んだ者。


 自分で終わりを選んだ者。


 怖いとは思わなかった。



「……綺麗」


 初めて戦国武将の最期を読んだ時から。


 萌呼は、そう感じていた。


 死ぬことは。


 苦しみが終わることだった。


 何も選べない自分の人生より。


 燃え尽きるように終わる彼らの人生の方が、ずっと美しく見えた。



 老人が亡くなったのは、それからしばらく後だった。


 癌は少しずつ身体を蝕み。


 最後の頃には、話すことすら難しくなっていた。


 萌呼は何度も彼の病室へ行った。


「先生」


 老人はゆっくり目を開ける。


「今日、信長の本もう一回読みました」


 小さく頷く。


「やっぱり、すごい人ですね」


 老人の口元が僅かに笑った。


「政宗も好きですけど」


 また頷いた。


「信長様と政宗様が同じ時代に生きていたら、どちらが天下人になれたんでしょう」


 老人は、もう答えられなかった。


 萌呼はそれでも笑った。


「先生だったら、両方ちゃんと調べろって言いますよね」


 数日後。


 老人は静かに息を引き取った。



「先生……?」


 返事はない。


 いつも苦しそうに上下していた胸が、動いていない。


 看護師がそっと老人の目を閉じた。


 誰かが静かに泣いていた。


 萌呼も。


 泣くのだと思った。


 この病院で。


 自分が好きなものを覚えてくれた人。


 自分の話を聞いてくれた人。


 次に読む本を選んでくれた人。


 大好きだった。



 けれど。


 涙は、一滴も出なかった。



 苦痛に歪んでいた顔が。


 嘘のように穏やかだった。


「……きれい」


 萌呼は、小さく呟いた。


 悲しくないわけではない。


 ただ。


 ずっと苦しんでいた老人が。


 ようやく何にも苦しまなくてよくなった。


 その姿が。


 萌呼には、とても美しく見えた。



 老人が残した本は、萌呼へ譲られた。


 信長。


 政宗。


 その他にも。


 何冊もの戦国武将の伝記。


 それが萌呼の宝物になった。



 病状は、少しずつ悪化した。


 起きていられる時間が短くなる。


 本を持つ手にも力が入らない。


 文字がぼやける日も増えた。



「信長様……」


 ベッドの上。


 萌呼は何度目か分からない本を開いていた。


 本能寺。


 炎の中。


 そこで信長の人生は終わる。



「明智光秀さえいなければ……」


 指先で、ページをなぞる。


「信長様が天下を取ってたのに……」


 その隣には、政宗の伝記も置いてあった。


 萌呼は少しだけ笑う。


「でも……」


 もし。


 この二人が。


 同じ時代に生きていたら。



「信長様と政宗様……」


 どちらが天下を取ったのだろう。


 どちらが強かったのだろう。


 どちらのそばにいたら。


 自分は幸せだったのだろう。



「……会ってみたかったな」


 目を閉じる。



 その日。


 萌呼の意識は戻らなかった。



     *



「家康はどうした?」


 政宗が、馬上から尋ねた。


 晴れた山道。


 少し前を、鷹を連れた信長が進んでいる。


 その横には秀吉。


 本来なら、家康も来る予定だった。


「行かぬと言うておった」


 信長が答える。


「珍しいな」


 政宗が笑う。


「いつも嫌がっても無理やり連れてくるだろ」


「今日はよい」


「何でだよ」


 信長は政宗をちらりと見る。


「おぬしがおるからじゃ」


「……は?」


「久しぶりにゆっくり話せる」


 信長は平然と言う。


「今日は家康はええわ」


「お前、家康の扱い雑だな」


「爪ばかり噛んでおる」


 秀吉が声を上げて笑った。


「はっはっは! 今日は家康も運が良かったのう」


「俺と話すために一人減らすなよ」


「うるさい」


「何で俺が怒られてんだよ」



 その頃。


 城に残った家康は。


 珍しく誰にも引きずられていかなかったことに、心底安堵していた。


「……今日は何も起こらぬな」


 爪を噛みながら呟く。


「行かなくて正解だ」


 起こった。



     *



「止まれ」


 信長が手を上げた。


 三頭の馬が止まる。


「どうした?」


 政宗が前を見る。


 少し先。


 草の上に。


 誰かが倒れていた。



「……女か?」


 秀吉が馬から降りる。


 政宗も続いた。


「何だ、その服」


 白い病院着。


 裸足。


 長い黒髪が草の上へ広がっている。


「見たことねぇな」


 政宗がしゃがむ。


「おい」


 肩へ触れる。


「生きてるか?」


 少女の瞼が、ゆっくり開いた。



 青い空。


 木々。


 鳥の声。


 土と草の匂い。


 白い天井ではない。



「……ここ……」


 声が掠れる。


 萌呼はゆっくり顔を動かした。



 最初に見えたのは。


 片目の男だった。



「……」


 息が止まる。


 何度も。


 何度も。


 本で見た。


 絵で見た。


 肖像で見た。



「……伊達……」


 政宗の眉が上がる。



「政宗……様……?」



「……何で俺を知ってる?」


 萌呼の目が大きく開く。


 夢だと思った。


 死ぬ前に見る。


 最後の夢。


 そう思った。



「おぬし」


 別の声がした。


 萌呼がゆっくり振り向く。



 黒い装束。


 鋭い目。


 ただ立っているだけで。


 周囲の空気まで変えるような男。



 萌呼の唇が震える。



「……織田……」


 信長が少女を見下ろす。



「信長……様……」



 涙が。


 初めてこぼれた。



 老人が死んだ時にも出なかった涙が。


 次々と頬を伝っていく。



 信長は眉を寄せた。


「何故、わしを知っておる」


「信長様……」


「答えよ」


 だが。


 萌呼は答えられない。


 目の前に。


 本の中にしかいなかった人がいる。



 そして。


 その隣には。



「おぬし」


 秀吉が自分を指差した。


「もしや、儂も知っておるのか?」


 萌呼が顔を向ける。


 少しだけ間があった。



「……豊臣、秀吉……」


「おお!」


 秀吉の顔が明るくなる。


「儂も知っておるではないか!」


 政宗が呆れたように言う。


「喜ぶとこか?」


「仲間外れでは寂しいではないか」


「そういう話じゃねぇだろ」


 信長は、二人を無視して萌呼を見ている。


「名は」


「……萌呼」


「姓は」


「御命……萌呼です」


「御命萌呼」


 信長が、その名を繰り返した。



 萌呼は。


 信長を見る。


 次に。


 政宗を見る。



 信じられなかった。



 ずっと考えていた。


 もし二人が同じ時代に生きていたら。


 どちらが天下人になったのだろう。


 どちらが強かったのだろう。



 その二人が。



 今。



 自分の目の前にいる。



「……夢……?」


 政宗が首を傾げる。


「何が?」


「だって……」


 萌呼の目から、また涙が落ちる。



「ずっと……会いたかった……」



 信長と政宗が、僅かに目を見合わせた。



 萌呼にとって。


 それは。


 生まれて初めて。



 本当に願いが叶った瞬間だった。

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