第20話 断るということ
午後のテルリッチ公園は、今日も賑やかだった。
中央の広場では子どもたちが走り回り、公共スクリーンには天気予報が流れている。野外舞台では次の催しの準備が進み、その周囲には『パンチ』『七七七』『氷の翼』の売店が並んでいた。
東屋の下では、パード、スギナ、キルナ、レイナの四人が、いつものようにテーブルを囲んでいる。
「これ、おいしー!」
パードが『氷の翼』で買ったフローズンを一口飲み、ぱっと顔を輝かせた。
「ルシアン、普通に店までやってんの面白すぎない?」
「公爵様ですのに、しれっと商売までなさっているのですものね」
レイナが笑うと、スギナも嬉しそうに頷いた。
「黒き守護者様のお仲間のお店なのですね! とても美味しいです!」
「いや、黒き守護者様の店ではねぇけどな」
キルナが『七七七』の肉まんを半分に割りながら呆れたように言う。
「でも、うめぇ」
「でしょー?」
「何でお前が得意げなんだよ」
「黒王子の国のお店だから!」
「括りがデカすぎんだろ」
レイナは思わず声を立てて笑った。
こうして友人たちと食べて、話して、笑う時間が、今ではすっかり当たり前になっていた。
誰かの好感度を気にする必要もない。
攻略対象の予定を追いかける必要もない。
悪役令嬢らしく振る舞う必要もない。
ただ、自分の好きなように話して、好きなものを食べて、笑っていればいい。
それだけでよかった。
「そういえば」
パードがフローズンのカップを置き、レイナを見る。
「レイナって、家では何してんの?」
「家で、ですか?」
「うん。仕事の話はよくするけど、家の話ってあんまり聞かないなって」
「確かに、そうですわね」
スギナも首を傾げる。
「ご家族とは、お変わりありませんか?」
レイナの笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
その変化に気づいたキルナが、肉まんを置く。
「言いにくいなら、無理に言わなくていいぞ」
「……いえ」
レイナは三人の顔を見た。
少し迷い、それから静かに息を吐く。
「実は、最近また縁談のお話をいただいておりますの」
「え?」
パードの目が丸くなった。
「また?」
スギナも驚いたように身を乗り出す。
「お断りになったのですか?」
「もちろんですわ」
レイナは迷いなく答えた。
「婚約するつもりはございませんもの」
「じゃあ終わりじゃん」
「それが、終わりませんの」
「え?」
「お断りしても、また次のお話を持ってこられますの。こちらの方はどうか、あちらの方ならどうかと」
「ずっと?」
「はい」
「しつこっ」
パードが露骨に顔をしかめる。
キルナの目つきも少し鋭くなった。
「親が持ってくるのか?」
「ええ」
「何でそこまで」
レイナは苦笑した。
「グランヴェール国王陛下にも断られたのだから、今度こそ婚約しなければならない、と」
「いや、それレイナが申し込んだわけじゃないじゃん」
パードがすぐに言う。
「そうなのですけれど」
「何でレイナが悪いことになってんだよ」
キルナの声が低くなる。
「家に恥をかかせた、と」
レイナは少しだけ視線を落とした。
「それから……やはり悪役令嬢だから、こうなるのだと」
三人の表情が変わった。
「……そんなことまで言われているのですか?」
スギナの声が、いつもより静かになる。
「はい」
「いつから?」
パードが尋ねる。
「前からですわ。最近は、縁談のお話が増えましたので、特に」
「毎日?」
レイナは少し考えた。
「……ほとんど毎日ですわね」
「毎日じゃん!」
パードが思わず声を上げる。
レイナは小さく笑った。
「ですが、大丈夫ですわ」
「大丈夫って」
「私は婚約いたしませんから」
その言葉には、迷いがなかった。
スギナがレイナを見つめる。
「黒き守護者様のお傍にいたいからですか?」
「それもございますけれど」
レイナは少しだけ頬を緩め、それから三人を見る。
「今は、私自身がそうしたくないのです」
パードが、ゆっくり笑った。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、それでいいじゃん」
「私もそう思っておりますわ」
キルナも頷く。
「若頭に言うか?」
「いえ」
レイナはすぐに首を振った。
「姫様には、まだ」
「何で?」
「今のところ、私自身でお断りできておりますもの」
「でも、毎日なんだろ」
「はい」
少しだけ間を置き、レイナは公園を見渡した。
子どもたちの笑い声。
売店から漂うパンや点心の匂い。
公共スクリーンの前に集まる人々。
少し離れた東屋では、商人たちが笑いながら話している。
「ここでは、本当に楽しいのです」
三人が黙る。
「皆さまと過ごしている時間まで、家の話ばかりにしたくありませんの」
スギナがそっとレイナの手へ自分の手を重ねた。
「ですが、話したくなった時は、いつでもお話しください」
「もちろん!」
パードもすぐに手を重ねる。
「うちら、別に外で言いふらしたりしないし」
「俺も言わねぇ」
キルナも少し照れくさそうに手を重ねた。
「ありがとうございます」
レイナは三人の手を見つめ、柔らかく笑った。
誰かに話しただけで、何かが解決したわけではない。
家へ帰れば、また同じ話が待っている。
それでも。
少しだけ、胸の奥が軽くなっていた。
その日の夜。
フォンテーヌ家の応接室には、重たい空気が満ちていた。
「また断ったの?」
母親の声が、部屋へ響く。
レイナは向かいのソファへ背筋を伸ばして座っていた。机の上には、新しい縁談の封書が置かれている。
「はい」
「はい、ではありません!」
母親が封書を指で叩いた。
「今度のお相手は伯爵家のご子息ですよ。家柄にも問題はありません。何が不満なの!」
「不満があるのではございません」
「なら受けなさい!」
「婚約するつもりがございませんので」
「またそれ!」
父親が深くため息を吐いた。
「セレスティア。いつまでそんな我儘を言っている」
「我儘ではございませんわ」
「婚約は家同士のものだ」
「ですが、結婚するのは私です」
「女がそんな理屈を言うものではない!」
ぴしゃりと声が飛ぶ。
レイナの青い瞳が、僅かに揺れた。
「家が決めた相手へ嫁ぐ。それが普通だ」
「今は、そういう時代では――」
「関係ない!」
父親が机を叩く。
「お前はフォンテーヌ家の娘だ。家のために何をすべきか考えろ!」
レイナは膝の上で手を握った。
「私は仕事もしております」
「仕事?」
母親が呆れたように笑う。
「リュミエールで姫様のお手伝いをしていることでしょう?」
「お手伝いではございません」
「同じようなものです」
「違いますわ」
「何が違うの?」
母親の声が鋭くなる。
「あなた一人がいなくなって、何が困るというの?」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「リュミエールなんて、姫様一人じゃないの!」
レイナは何も言えなかった。
違う。
そんなことはない。
自分にしかできない仕事もある。
必要としてくれる人もいる。
友人もいる。
大切に思う人たちもいる。
けれど。
この家では、何を言っても届かない。
「それより婚約です」
母親は新しい封書をレイナの前へ押し出した。
「グランヴェール国王にも断られて、どれだけ恥をかいたと思っているの」
「私はあの方へ婚約を申し込んだ覚えはございません」
「そういう問題ではありません!」
「では、どういう問題ですの?」
「あなたが悪役令嬢だからよ!」
レイナの表情が止まった。
「昔からそう!」
母親は止まらない。
「気が強くて、可愛げがなくて、男を立てることもできない。だからあんな噂を立てられたのよ!」
「……」
「今度こそ、ちゃんとした方と婚約なさい!」
「しませんわ」
「セレスティア!」
「しません」
レイナは、ゆっくり立ち上がった。
「何度申し上げても、答えは変わりませんわ」
「お前は本当に――!」
「私は婚約いたしません」
母親が息を呑む。
父親も険しい顔で睨んでいる。
それでも、レイナは目を逸らさなかった。
「失礼いたします」
一礼し、部屋を出る。
廊下を歩いている間も、背後から母親の声が聞こえていた。
「本当に可愛げのない子!」
「だから悪役令嬢なんて呼ばれるのよ!」
レイナは足を止めなかった。
自室へ戻り、扉を閉める。
そこでようやく、深く息を吐いた。
窓辺へ歩き、カーテンを開く。
遠くに、テルリッチ公園の明かりが見えた。
昼間は、あそこで笑っていた。
パードも。
スギナも。
キルナも。
誰も「婚約しろ」とは言わなかった。
誰も「悪役令嬢だから」とは言わなかった。
ただ、自分がどうしたいのかを聞いてくれた。
それだけだった。
「……婚約など、いたしませんわ」
誰もいない部屋で、もう一度呟いた。
声は小さかった。
けれど、迷いはなかった。
数日後。
タケリオ公爵家では、大規模な舞踏会が開かれていた。
リリアーナたちも招待を受け、華やかな会場には王族や貴族たちが集まっている。
リリアーナの横には、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、いつものように静かに立っていた。
レイナも、パード、スギナ、キルナと共に会場へ来ている。
「リリアーナ姫」
その声を聞いた瞬間、リリアーナが露骨に嫌そうな顔をした。
「また来た」
タケリオが笑顔で近づいてくる。
「今夜こそ、僕と踊っていただけませんか?」
「踊らん」
「一曲くらいいいでしょう?」
「嫌や」
「そんなに意地を張らなくても」
「何で俺が意地張っとることになんねん」
少し離れた場所で見ていたパードが、小声で言う。
「すごいね。何回断られても来る」
「本当に諦めませんね」
スギナが感心したように言う。
「そこ感心するとこじゃねぇだろ」
キルナが即座に突っ込んだ。
レイナも苦笑した。
「相変わらずですわね」
「僕ほどあなたに相応しい男はいないと思いますけどね」
タケリオが胸を張る。
「家柄も、容姿も、将来性も」
「性格抜けとるぞ」
周囲から笑いが漏れた。
タケリオの笑顔が、僅かに引きつる。
「あなたは、もう少し男を見る目を養った方がいい」
「お前にだけは言われたない」
「僕を断るくらいですから」
「断ったら見る目ない判定なん?」
また笑いが起きた。
その時。
タケリオの視線が、ふとレイナへ向いた。
「まあ」
軽い調子で笑う。
「セレスティア嬢も、人のことは言えませんけどね」
レイナの表情が止まった。
「……私?」
「ええ」
タケリオは、何でもない話をするように続けた。
「最近、随分と縁談を断っているそうじゃないですか」
リリアーナの眉が動いた。
パードが目を見開く。
スギナも、キルナも黙った。
レイナの指先が、ドレスの布を強く掴む。
「ご両親もかなり困っていると聞いていますよ」
「タケリオ様」
レイナの声が少し低くなる。
だが、タケリオは止まらなかった。
「グランヴェール国王との件もあったのですし、そろそろ現実を見た方がいいんじゃないですか?」
リリアーナから笑みが消えた。
「……どういう意味や」
「そのままですよ」
タケリオは肩をすくめる。
「悪役令嬢などと呼ばれていたのですから、あまり選り好みをしている場合でもないでしょう?」
レイナの顔から、血の気が引いた。
パードがタケリオを睨む。
キルナの目つきが一気に変わる。
スギナも、もう笑っていなかった。
そして。
「レイナ」
リリアーナが呼んだ。
レイナは、ゆっくり顔を上げる。
リリアーナの横には、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、静かにこちらを見ていた。
「……それ、ほんまなん?」
レイナは答えられなかった。
昼間、友人たちには自分から話せた。
けれど。
姫様には、まだ言っていなかった。
少しの沈黙のあと。
レイナは、ほんの僅かに目を伏せた。




