第19話 人を見るということ
政宗は、織田信長の言葉がずっと引っかかっていた。
百姓から上がってきた男がいる。
それだけなら、珍しい話ではない。
だが、その男は今や信長のすぐそばにいる。兵にも家臣にも顔が利き、どこへ行っても人が集まり、信長自身も当然のように使っている。
「百姓から、そこまで?」
政宗が聞き返すと、信長は面倒そうに視線を向けた。
「そうじゃ」
「何したらそこまで上がれんだよ」
「知らぬ」
「知らねぇの?」
「猿の人生など、いちいち聞いておらぬ」
「猿?」
「秀吉じゃ」
「名前で呼べよ」
「猿で十分じゃ」
政宗は呆れたように息を吐いた。
「会わせろ」
「何を申しておる」
「その秀吉って奴。会ってみたい」
「わしに命じるな」
「だって気になるじゃん。百姓だった奴が、どうやってお前の近くまで来たのか」
信長は政宗をしばらく見たあと、興味を失ったように前へ向き直った。
「そのうち来る」
「いつ?」
「知らぬ」
「適当だな」
「待てぬなら帰れ」
「待つよ」
「なら黙っておれ」
「はいはい」
その日の夕刻。
本当に、その男は現れた。
「信長様、お呼びでしょうか」
広間へ入ってきた男は、政宗が想像していたより若かった。
二十五ほど。
威圧するような大柄な男でもなければ、派手な甲冑を身につけているわけでもない。それなのに、広間へ入った瞬間、周囲の空気が自然とそちらへ向いた。
男の後ろには、二人の若い武将が控えている。
石田三成。
真田幸村。
二人とも政宗と同じくらいの年に見えた。
「猿」
信長が呼ぶ。
「はい」
秀吉は何の抵抗もなく返事をした。
「政宗がおぬしに聞きたいことがあるそうじゃ」
「政宗が?」
秀吉の目が、初めて政宗へ向いた。
柔らかく笑っている。
だが、政宗はその瞬間、自分が見られたのではなく、測られたような気がした。
何を考えているのか。
何を欲しているのか。
何ができるのか。
ほんの一瞬で、それらを見られたような感覚が残った。
「伊達政宗か」
「知ってんの?」
「知らぬ者の方が少なかろう」
秀吉は笑ったまま、政宗の正面へ腰を下ろした。
「それで、何を聞きたい」
「本当に百姓だったの?」
三成の眉が僅かに動いた。
幸村も政宗を見る。
だが、秀吉は気分を害した様子もなく、あっさり頷いた。
「そうじゃ」
「どうやってここまで来た?」
その瞬間。
秀吉の目から、ほんの僅かに笑みが消えた。
広間の空気が静かになる。
「……おぬしは、そこを聞くのか」
「今のお前の立場なんか見りゃ分かる」
政宗は秀吉から目を逸らさなかった。
「俺が知りたいのは、何したら百姓だった奴がそこまで上がれるのかだよ」
秀吉は答えない。
ただ、政宗を見ている。
三成も幸村も口を挟まなかった。
しばらくして、秀吉の口元へ再び笑みが戻った。
「使えるものを、使っただけじゃ」
「使えるもの?」
「己の身体。頭。目。機会」
秀吉は指を一本ずつ折るように数えた。
「そして、人じゃ」
政宗の目が僅かに細くなる。
「人を使ったのか」
「人は使うものでもあり、生かすものでもある」
秀吉は何でもないことのように答えた。
「己一人でできぬなら、できる者を探す。足らぬなら集める。得意な者がおれば任せる。何をしたいのかを聞き、向いている場所があれば、そこへ置く」
「……それで人が動く?」
「動く者もおれば、動かぬ者もおる」
「動かねぇ奴は?」
「無理に動かしても使えぬ」
秀吉は笑った。
「やりたい者を使った方が早い」
政宗は黙った。
「命令した方が楽じゃねぇの?」
「楽じゃろうな」
「じゃあ、なんでそうしない」
「命じられて動く百人と、自らやると決めた百人なら、どちらが強いと思う」
政宗の表情が変わった。
秀吉は答えを待たず、続ける。
「人は、己で選んだことには強い」
軽い口調だった。
だが、その言葉には迷いがない。
政宗は少しだけ前へ身体を寄せた。
「じゃあ、人を斬るのは?」
三成と幸村の空気が僅かに変わった。
それでも、秀吉は笑ったままだった。
「必要なら斬る」
即答だった。
政宗の目が細くなる。
「迷わねぇの?」
「迷っておる間に、こちらが斬られることもある」
秀吉は静かに言った。
「ただし、斬ればそこで終わりじゃ」
「終わり?」
「死人は働かぬ」
政宗は一瞬、言葉を失った。
秀吉は穏やかな笑みのまま続ける。
「生かせる者なら、生かした方がよい。明日も働ける。家族も残る。土地も回る。国も育つ」
「……優しいからじゃねぇんだな」
「優しさだけで国は回らぬ」
秀吉の声は変わらなかった。
「だが、無闇に殺しても国は育たぬ」
政宗は秀吉をじっと見た。
笑っている。
穏やかに話している。
それなのに、何かが怖い。
「お前、怖ぇな」
三成の視線が政宗へ向いた。
幸村も僅かに目を見開く。
秀吉だけが、楽しそうに目を細めた。
「そうかのう?」
「褒めてる」
「ならば受け取っておこう」
秀吉は少し笑った。
政宗もつられて口元を上げる。
「信長が猿って呼んでるから、もっと軽い奴だと思ってた」
「また殿は猿と申しておられるのか」
「気にしてねぇの?」
「何をじゃ」
「猿って呼ばれてんの」
秀吉は一度だけ信長へ目を向けた。
信長は興味なさそうに二人の会話を聞いている。
「別に構わぬ」
「普通、腹立たねぇ?」
「呼び名一つで腹を立てて、何か得るものがあるのか?」
「……ないな」
「なら、それでよいではないか」
政宗は思わず笑った。
「やっぱ変な奴だな」
「おぬしに言われとうないのう」
「俺の何知ってんだよ」
「これから知ればよかろう」
さらりと返され、政宗は一瞬黙った。
秀吉はもう笑っていた。
この男は、人を見る。
ただ顔を見るのではない。
出自でもない。
肩書きでもない。
何を持っているのか。
何ができるのか。
何をしたいのか。
そして、どう使えば人が最も強く動くのか。
政宗は、少しだけ理解した。
百姓だった男が、なぜここまで来られたのか。
だが、まだ足りなかった。
「なぁ、秀吉」
「何じゃ」
「お前が仕事してるところ見せろよ」
三成が政宗を見る。
幸村も興味深そうに顔を向けた。
「仕事?」
「実際に見たい」
政宗は迷わず答えた。
「今の話、口だけなら何とでも言えるだろ」
三成が眉を寄せる。
「政宗、それは秀吉様に対して――」
「三成」
秀吉が静かに止めた。
三成はすぐに黙る。
秀吉は政宗を見つめた。
「疑うておるのか」
「確かめたいだけ」
「同じではないか?」
「違う」
政宗は笑った。
「俺、人がどうやって今のそいつになったのか見るの好きなんだよ」
秀吉の目が、僅かに細くなった。
「……なるほどのう」
「だから、お前がどうやって人を動かしてんのか見たい」
秀吉はしばらく政宗を見ていた。
やがて、口元へ笑みを浮かべる。
「よかろう」
「いいの?」
「見るだけなら好きなだけ見ればよい」
政宗の顔が明るくなった。
「決まりな」
「ただし」
「何?」
「邪魔はするな」
「しねぇよ」
「勝手に兵へ命令するな」
「しねぇって」
「面白そうだからと戦を始めるな」
「俺を何だと思ってんだよ」
その横で、幸村が僅かに笑った。
三成も小さく息を吐く。
「秀吉様。政宗を連れて行かれるのであれば、私も参ります」
「おぬしは元より来るであろう」
「念のためです」
「相変わらず真面目じゃのう」
幸村もすぐに声を上げた。
「俺も参ります!」
「おぬしもか」
「はい!」
政宗が幸村を見る。
「お前、話入ってくんの早くね?」
「面白そうだからな!」
「お前も同じじゃねぇか」
「そうか?」
「そうだよ」
幸村が笑い、政宗も笑った。
三成は二人を見比べて、小さくため息をつく。
「騒がしくなりそうですね」
「三成も来るんだろ?」
「秀吉様の仕事ですから」
「じゃあ一緒じゃん」
「意味が違います」
「細けぇな」
「細かくありません」
秀吉はそんな三人を眺めながら、楽しそうに笑った。
少し離れたところから見ていた信長が、ようやく口を開く。
「猿」
「はい、信長様」
「いつまで話しておる」
「もう終わります」
「先ほどから長い」
「政宗がよう喋るのでな」
「俺のせいかよ」
「半分はそうじゃ」
「半分お前だろ」
「そうかのう?」
「そうだよ」
信長は呆れたように鼻を鳴らした。
「勝手にせよ」
「はい」
秀吉は何でもないことのように答えた。
政宗はその横顔を見た。
笑っている。
人を生かす。
人を選ばせる。
人を動かす。
そして必要なら、斬る。
優しい男ではない。
残酷な男でもない。
何をすれば国が最も強くなるのかを、すでに知っている男だった。
政宗は、もう少しこの男を見てみたいと思った。
百姓から、ここまで。
その答えは、まだ始まったばかりだった。




