第17話 進むということ
伊達政宗は、止まらなかった。
父を失っても。
戦が終わっても。
織田信長が、自分よりずっと先を走っていても。
朝になれば、書類が積まれる。
どこで米が足りない。
どこの橋が壊れた。
どの村で水が減った。
どこから商人を呼びたい。
どこで兵を動かす必要がある。
戦だけ見ていればよかった頃など、最初からなかった。
「政宗様」
家臣が一枚の書類を差し出す。
「先日、降った村から願いが出ております」
「何」
「畑を戻すため、人手を貸してほしいと」
「出せばいいじゃん」
「ですが、つい先月まで敵方でございました」
「だから?」
家臣が少し黙った。
政宗は書類から顔を上げる。
「降ったんだろ?」
「はい」
「じゃあ、もう敵じゃねぇじゃん」
「……」
「取った土地で人が食えなかったら、結局こっちが困るだろ」
「承知しました」
「あと種も見ろ。畑だけ直して種なかったら意味ねぇから」
「はい」
次の書類。
「こちらは街道です」
「また?」
「荷車が通りにくいとのことで」
「前直しただろ」
「別の道でございます」
「道、多すぎ」
「国でございますので」
「知ってるよ」
政宗は額へ手を当てた。
「どれくらいかかる?」
「人足と木材を合わせますと――」
「商人止まる損と比べて」
「……少々お待ちを」
「そこ計算してから持ってきてよ」
「申し訳ございません」
「怒ってねぇよ。次からでいい」
家臣は深く頭を下げた。
以前なら。
父に聞いていたかもしれない。
これは直すべきか。
金を使いすぎていないか。
兵を優先するべきではないか。
けれど。
もう聞く相手はいない。
だから。
自分で考える。
必要なら直す。
今でなくていいなら待たせる。
全部を救えるわけではない。
全部へ同じだけ金を使えるわけでもない。
選ぶしかない。
父の言葉を思い出す。
選んだことと。
正しかったことは同じではない。
あれ以来。
政宗は何かを決めるたびに、その言葉を少しだけ考えるようになっていた。
正しいかは分からない。
でも。
自分が決めたなら。
最後まで見る。
それだけは決めていた。
「政宗様」
「今度は何」
「戦です」
政宗の顔つきが変わった。
領地を広げようとすれば。
当然。
拒む者もいる。
話だけですべてが終わるほど。
この時代は優しくない。
「向こうの兵は」
「およそ――」
「村は?」
「三つございます」
「街道は」
「一本」
「逃げ道は?」
家臣が地図を広げた。
政宗はすぐに身を乗り出す。
「ここ塞ぐな」
「ですが、敵兵が逃げる可能性が」
「村人も逃げられなくなる」
「では」
「兵が使う道だけ抑える。村側は開けとけ」
「承知しました」
政宗は。
戦わなくなったわけではない。
むしろ。
以前より強くなった。
迷っているだけでは。
守れないことも知った。
攻めるべき時は攻める。
退けば味方が危ないなら追う。
敵将を残せば再び戦になるなら、討つ。
けれど。
何でも壊せばいいとは思わなかった。
「火は使うな」
出陣前。
政宗は短く告げた。
「畑も家も残せるだけ残せ」
「はい」
「勝った後、俺らが使う」
家臣が少し笑った。
「実用的な理由でございますな」
「それ以外に何があんの」
「いえ」
「人も同じだからな」
家臣が顔を上げる。
「死んだ奴は働けねぇし、飯も作れねぇ」
「はい」
「無駄に殺すな」
「承知しました」
戦は。
勝った。
政宗は。
勝ったその日のうちに。
村へ入った。
「政宗様!」
「殿自ら行かれるのですか?!」
「見るって言っただろ」
「ですが、まだ危険が」
「だから兵いるじゃん」
村人たちは。
当然。
怯えていた。
昨日まで敵だった男が。
今日から自分たちの領主になる。
安心できるはずがない。
政宗は。
村の中央へ立った。
「家、どれくらい壊れた?」
誰も答えない。
「畑は?」
沈黙。
「井戸は使える?」
まだ。
誰も口を開かなかった。
政宗は少し考えた。
「まあ、怖いよな」
村人たちの顔が上がる。
「昨日まで敵だった奴に、いきなり何困ってるって聞かれても答えねぇか」
年老いた男が。
恐る恐る口を開いた。
「……殺さぬのですか」
「誰を?」
「我々を」
「なんで」
「我々は、あなた様に逆らった側で」
「戦った兵は?」
「ほとんどが逃げるか、降りました」
「じゃあ終わりじゃん」
「……」
「俺が今知りたいのは、明日からここでどうやって暮らすか」
政宗は周囲を見る。
「水出る?」
「……出ます」
「畑は?」
「一部が荒れております」
「家は?」
「二軒、焼けました」
「火使うなって言ったのに」
家臣が慌てる。
「戦の前から燃えていたものかと」
「ならいい」
「良いのですか」
「俺らが焼いたんじゃないなら怒っても仕方ねぇだろ」
政宗は村人を見る。
「直すぞ」
「……え?」
「家」
「我々の?」
「他に誰の家直すんだよ」
村人たちは顔を見合わせた。
政宗にとって。
それは。
特別なことではなかった。
取ったなら。
自分の土地。
そこに住むなら。
自分の民。
ただ。
それだけだった。
数日後。
橋を直す兵の横で。
政宗はまた地図を見ていた。
「ここ、商人通せそうじゃん」
「戦の直後でございます」
「だから今見るんだよ」
「休まれてはいかがですか」
「寝た」
「三刻ほどです」
「寝てんじゃん」
「そういう意味ではございません」
「大丈夫だって」
家臣は少し呆れたように笑った。
「輝宗様も、よく似たことを仰っておられました」
政宗の手が止まる。
「……父上が?」
「はい。ご自分は休まれぬのに、周囲には休めと」
「最悪じゃん」
「政宗様も同じでございます」
「俺はちゃんと寝てる」
「三刻」
「しつこいな」
政宗は。
地図へ目を戻した。
父に。
似たかったわけではない。
父と。
同じになりたかったわけでもない。
ただ。
気づけば。
もらったものが。
自分の中に残っている。
それでいいと思った。
そして。
織田信長は。
相変わらず。
速かった。
新しい土地を取った。
古い仕組みを壊した。
商いの形を変えた。
使える者を上げた。
政宗のところへ届く話は。
どれも。
腹が立つほど面白かった。
「また信長か」
政宗が書状を机へ放る。
「はい」
「進むの早すぎだろ」
「かなりの勢いでございます」
「知ってるよ」
政宗は椅子へ深く座った。
「……天下、先越されるな」
家臣が黙る。
「政宗様」
「何」
「焦っておられますか」
「焦るだろ」
即答だった。
「俺だって天下取りてぇよ」
「はい」
「あいつに負けたくねぇ」
「はい」
「でも」
政宗は机の上の地図を見る。
村。
畑。
道。
川。
城。
自分が。
今まで見てきたもの。
「焦って全部雑にしたら、父上に殴られそう」
「輝宗様は殴られるでしょうか」
「分かんねぇ。でも顔は怒る」
「それは想像できます」
「だろ?」
政宗は笑った。
「だから、やることやる」
信長より遅くても。
自分は。
自分の道で行く。
それは。
負けを認めることではない。
むしろ。
同じことをして追いかける方が。
負けた気がした。
そんなある日。
信長と政宗は。
再び顔を合わせた。
「まだ天下取ってねぇの?」
政宗が言う。
「会うたび腹立つのう、お前は」
「取ったって聞いてねぇから」
「時間の問題じゃ」
「じゃあその前に俺が取る」
「遠いのう」
「うるせぇ」
信長は楽しそうに笑った。
「相変わらず国を拾うて歩いておるそうじゃな」
「拾ってねぇよ」
「橋を直し、道を直し、畑を直し」
「必要だからやってんの」
「何でも自分で見に行くとも聞いたぞ」
「誰から聞いてんだよ」
「耳は多い」
「気持ち悪」
「斬るぞ」
「すぐそれ」
政宗は。
昔と変わらない調子で信長を見る。
「お前は?」
「何がじゃ」
「取った後」
「使う」
「雑」
「必要な者は残す。商人も職人も使う。能力があるなら身分などどうでもよい」
「そこは好き」
「であろう」
「でも切るの早い」
「お前は残しすぎじゃ」
「まだ言ってんの?」
「まだ思うておる」
「俺もまだお前やりすぎだと思ってる」
「知っておる」
二人は。
やっぱり。
分かり合わない。
でも。
もう。
それでいい。
昔は。
自分の方が正しいと思わせたかった。
今は違う。
信長は信長。
政宗は政宗。
互いに。
自分の国を作ればいい。
「そうじゃ」
信長がふと思い出したように言った。
「最近、おもろい男を拾うた」
「お前が?」
「うむ」
「珍しいじゃん」
「わしは人を見る目がある」
「自分で言う?」
「事実じゃ」
「どんな奴」
信長は。
少し笑った。
「百姓上がりじゃ」
政宗の眉が動いた。
「百姓?」
「うむ」
「それが何してんの」
「よう働く。よう喋る。よう人を見る」
「へぇ」
「頭も回る」
「百姓から?」
「そうじゃ」
「名前は?」
信長は。
何でもないことのように答えた。
「秀吉じゃ」
「……秀吉」
政宗は。
その名を口の中で転がした。
「百姓の男が、お前んとこまで上がってきたの?」
「そうじゃ」
「すげぇじゃん」
信長が政宗を見る。
「そこに食いつくか」
「食いつくだろ」
政宗の目が。
明らかに輝いていた。
「何したら百姓からそこまで来れんの?」
「本人に聞け」
「会わせろよ」
「なぜわしが」
「お前が拾ったって言ったんだろ」
「犬ではない」
「分かってるよ」
信長は。
少し呆れたように政宗を見た。
「ほんにお前は、人そのものに興味を持つのう」
「だって面白いじゃん」
生まれがどうとか。
身分がどうとか。
そんなものより。
どうやって。
そこまで来たのか。
何を見て。
何を選んで。
何を背負って。
その人になったのか。
政宗は。
そういう話が好きだった。
「会いてぇ」
「勝手にせい」
「ほんと?」
「わしは止めぬ」
「じゃあ会う」
「好きにせい」
政宗は笑った。
信長に追いつきたい。
天下も欲しい。
国も広げたい。
それでも。
急ぐだけでは。
見えないものがある。
土地には。
人がいる。
人には。
それぞれ。
そこまで生きてきた物語がある。
政宗は。
それを見ることを。
いつの間にか。
何より面白いと思うようになっていた。
そして。
百姓から。
信長の横まで上がってきた男。
秀吉。
伊達政宗は。
その男に。
少しだけ。
興味を持った。




