第15話 選ぶということ
伊達政宗と呼ばれるようになってから、変わったことは多かった。
着るもの。
呼ばれ方。
家臣たちの目。
渡される書類。
そして何より。
誰かに答えを聞く前に、自分で決めなければならないことが増えた。
梵天丸だった頃。
分からなければ父に聞けた。
道をどうする。
兵をどう動かす。
商人をどう呼ぶ。
村の水路をどう直す。
答えを教えてもらうというより、自分で考えたものを父へ持っていき、足りないところを指摘してもらっていた。
けれど今は違う。
「政宗様。北側の村より、水路修繕の願いが届いております」
「どれくらい壊れてる」
「春までに直さなければ、田へ水を引けぬ可能性がございます」
「人足は」
「足りません」
「戦の訓練、一日減らして回せ」
家臣が顔を上げる。
「兵を、でございますか」
「水なかったら米できねぇだろ」
「ですが、兵の鍛錬が」
「一日減らしたくらいで弱くなるなら、元から弱ぇよ」
政宗は書類へ視線を戻した。
「米なきゃ兵も食えない。先に水」
「承知しました」
別の日には商人が来た。
「山を越える道が悪く、このままでは荷を運ぶ者が減ります」
「どこが一番ひどい」
「東の峠でございます」
「直せ」
「費用が」
「道止まって商人来なくなる方が損だろ」
さらに別の日。
「兵を増やしてはいかがでしょう」
「食わせられんの?」
「……」
「先に畑。次に道。商人増やして金回して、それから兵」
政宗はそうやって、一つずつ国を見ていった。
子どもの頃に父から言われた。
人を見ろ。
国ごと強くしろ。
その意味が、今は以前より分かる。
戦だけではない。
食べること。
働くこと。
道を通ること。
水を使うこと。
物を売ること。
それら全部が揃って初めて、国は戦える。
「随分、細かいところまで見るようになったな」
ある夜。
輝宗が書類を覗き込みながら言った。
「父上が見ろって言ったんだろ」
「ここまで見ろとは言っていない」
「じゃあ見すぎ?」
「いや」
輝宗は少しだけ笑った。
「良い」
政宗は書類から顔を上げた。
「珍しく素直に褒めるじゃん」
「褒めるべき時は褒める」
「もっと早くやってよ」
「調子に乗るだろう」
「乗らねぇよ」
「乗る」
「父上、俺のこと信用してなくね?」
「信用しているから任せている」
政宗は少し黙った。
輝宗は、何でも教えてくれる父ではなくなっていた。
少しずつ。
自分へ渡している。
判断を。
責任を。
伊達という家そのものを。
「政宗」
「何」
「これから先、お前が間違うこともある」
「縁起悪」
「聞け」
「はいはい」
「正しいと思って選んでも、誰かが傷つくことはある。守るつもりで動いても、守れぬこともある」
政宗の表情が少し変わった。
「その時、自分を神だと思うな」
「思わねぇよ」
「なら良い」
輝宗は静かに続けた。
「人の上に立つ者は、自分の判断を正しいことにしたくなる」
「……」
「だが、選んだことと、正しかったことは同じではない」
政宗は父を見る。
「じゃあ、どうすんの」
「選んだ責任を負う」
「正しくなくても?」
「正しくなかったなら、なおさらだ」
政宗はその言葉を覚えた。
それからしばらくして。
父は死んだ。
あまりにも突然だった。
敵方の者に捕らえられ。
追撃の中で。
戦場の混乱の中で。
政宗の目の前から。
父は消えた。
話を聞いた時。
最初は意味が分からなかった。
「……父上は?」
誰も答えなかった。
「だから、父上は」
家臣の一人が膝をついた。
「輝宗様は……」
その先を聞く必要はなかった。
政宗は動かなかった。
子どもの頃から。
何度も言われた。
人を見ろ。
国を見ろ。
勝つだけでは足りない。
取ったなら守れ。
自分だけ強くなるな。
その声が。
もう聞けない。
「政宗様」
誰かが呼ぶ。
政宗は返事をしなかった。
怒りがなかったわけではない。
あった。
今すぐ全部壊したいくらい。
父を奪った者を。
それに関わった者を。
全部。
でも。
頭の奥で。
父の声がした。
選んだことと。
正しかったことは同じではない。
政宗は目を閉じた。
深く息を吸う。
そして。
目を開けた。
「状況、全部出せ」
家臣たちが顔を上げる。
「関わった奴。兵の数。土地。逃げ道。村。全部」
「政宗様」
「怒ってる」
低い声だった。
「だから今、勢いで決めたくねぇ」
誰も何も言わなかった。
「父上殺されたからって、関係ない村まで焼く気はない」
政宗は立ち上がった。
「やった奴は追う。でも、そこに住んでる奴まで敵にすんな」
家臣たちが頭を下げる。
その日から。
政宗は、本当の意味で一人になった。
父がいない。
答え合わせをしてくれる人もいない。
最後に止めてくれる人もいない。
だから。
自分で決めるしかない。
戦う。
取る。
守る。
直す。
食わせる。
国を広げる。
失ったから止まるのではなく。
失ったものまで背負って。
前へ進む。
政宗は、少しずつ領地を広げた。
戦では以前より迷いがなくなった。
必要なら攻める。
逃がせば味方が危ない相手なら追う。
けれど。
勝った後は、必ず土地を見る。
井戸を見る。
畑を見る。
商人の道を見る。
住んでいる人間を見る。
「また橋直してんのか」
家臣の一人が笑うと、政宗は顔をしかめた。
「またって何だよ」
「戦の後は、いつも直しておられますので」
「壊したままにしとく方が気持ち悪いだろ」
「政宗様らしいです」
「褒めてんの?」
「もちろん」
「ならいい」
そうやって。
伊達政宗という男は。
少しずつ出来上がっていった。
そんな頃。
噂が入った。
織田信長が。
比叡山を焼いた。
「……は?」
政宗は聞き返した。
「比叡山を、焼き討ちしたとのことです」
「山を?」
「はい」
「人もいたんだろ」
「おります」
「……あいつ」
政宗は、しばらく黙った。
吉法師だった頃から。
信長は速かった。
迷わない。
邪魔なら除く。
使えるなら使う。
従わなければ斬る。
分かっていた。
そういう奴だと。
でも。
「そこまでやるかよ」
数か月後。
政宗は信長と再会した。
もう。
吉法師ではない。
織田信長。
以前より背が伸び。
顔つきも変わり。
人の上に立つことに慣れた男の目をしている。
政宗が近づくと、信長は口元を上げた。
「久しいのう、政宗」
「お前」
「挨拶もなしか」
「比叡山、焼いたのか」
信長は少しだけ眉を上げた。
「会うて第一声がそれか」
「答えろよ」
「焼いた」
あまりにも簡単に答えた。
「なんで」
政宗は聞いた。
信長は、少しだけ黙った。
「奴らはただの坊主ではない」
「知ってる」
「兵を持ち、力を持ち、敵対する者を匿い、こちらが進めば背後から噛みつく」
「……」
「何度退けと申しても退かぬ。こちらが動けば止める。あれを残したまま天下へ進めば、何度でも同じところで足を取られる」
信長の声は淡々としていた。
「ゆえに焼いた」
政宗の眉が寄る。
「だから、正しかったって?」
信長はすぐには答えなかった。
「正しかったとは申さぬ」
政宗の目が動く。
「必要じゃった」
信長は続けた。
「少なくとも、あの時のわしはそう判断した」
「戦わない奴もいただろ」
「おったであろうな」
「子どもも」
「おったやもしれぬ」
「それでも止めなかった」
「止めなんだ」
信長は、政宗から目を逸らさなかった。
「じゃあ後悔してんのか」
「後悔という言葉で済ませる気はない」
政宗は黙った。
「わしが命じた」
信長の声が、少しだけ低くなる。
「ならば、あそこで死んだ者も、焼けたものも、すべてわしの選択じゃ」
「……」
「必要だったから、死んだ者が軽くなるわけでもない」
政宗は信長を見た。
昔。
吉法師だった頃。
こいつはもっと簡単に言っていた。
邪魔なら斬る。
従わないなら捨てる。
今も。
根っこは変わっていない。
でも。
選んだことの重さを知らないわけではない。
「同じ状況になったら」
政宗が聞いた。
「またやる?」
信長は少しだけ目を細めた。
「やるやもしれぬ」
政宗は長く息を吐いた。
「やっぱ分かんねぇわ、お前」
「昔からであろう」
「事情は分かった」
「ほう」
「でも俺はやらねぇ」
信長の口元がわずかに上がる。
「人ごと焼いて進むのは、俺は選ばない」
「なぜじゃ」
「取った後に残すもんが減るから」
「相変わらずじゃのう」
「父上に言われたんだよ」
政宗の声が少しだけ変わった。
「選んだことと、正しかったことは同じじゃないって」
信長は何も言わなかった。
「俺もこれから間違うと思う」
政宗は続けた。
「守るつもりで失敗することもある。戦って、誰か死なせることもある」
「そうであろうな」
「でも」
政宗は信長を見る。
「だからって、最初から人ごと切るやり方は選ばねぇ」
信長はしばらく政宗を見ていた。
「お前は」
「何」
「昔より面倒になったのう」
「お前に言われたくねぇ」
「以前は甘いだけじゃった」
「今も甘いって言う?」
「いや」
信長は少しだけ笑った。
「今は、お前がそう選ぶ男なのだと分かっておる」
政宗の目が少し細くなる。
「珍しく認めんじゃん」
「前から認めておる」
「聞いたことねぇよ」
「一々申す必要があるか」
「あるだろ」
「ない」
「ほんと可愛くねぇな」
「斬るぞ」
「ほらすぐそれ」
少しだけ。
昔の空気が戻った。
梵天丸と吉法師だった頃。
何度も。
同じ天下について話した。
どちらが先に取るか。
でも。
今は。
もう少し違っていた。
「なあ、信長」
「何じゃ」
「天下取った後、どうすんの」
信長の目が少し動いた。
「国を変える」
「どうやって」
「古いものを壊す。道を開く。金を回す。使える者を使う。くだらぬ身分に縛られず、力のある者を上げる」
政宗は少しだけ笑った。
「そこは俺も嫌いじゃねぇ」
「であろう」
「でも、人切りすぎ」
「お前は拾いすぎじゃ」
「それで国回ってんだからいいだろ」
「わしの国も回る」
「じゃあ勝負だな」
「何がじゃ」
「どっちの国が最後まで残るか」
信長が笑った。
「天下を取る勝負ではなかったのか」
「それもやる」
「欲張りじゃのう」
「お前に言われたくねぇ」
二人は。
やっぱり。
分かり合えなかった。
信長には、信長の志がある。
政宗には、政宗の志がある。
同じ国を見ても。
同じ戦を見ても。
選ぶ答えは違う。
それでも。
互いに。
相手が何を背負って選んでいるのかだけは。
少しずつ分かるようになっていた。
信長は政宗を見る。
「好きにせい」
「言われなくても」
「お前だけは昔から変わらぬな」
「お前もな」
「わしは変わった」
「悪化した?」
「斬るぞ」
「それそれ」
政宗は笑った。
父を失った。
国を背負った。
戦を知った。
人を守る難しさも。
選ぶ怖さも。
少しずつ知った。
だからこそ。
他人の選択を。
事情も知らずに否定するつもりはなかった。
けれど。
理解することと。
同じ道を選ぶことは。
別だった。
伊達政宗は。
織田信長とは違う道を選ぶ。
それでいい。
二人は。
同じ天下を見ながら。
違う国を作ろうとしていた。




