第13話 名を継ぐということ
初陣を終え、村を見て、取った土地の暮らしまで考えるようになってから、梵天丸の毎日は以前より忙しくなった。
兵法や武芸だけではない。年貢の量を見て、道の状態を聞き、水路の修繕にどれだけ人手が必要かを確認し、商人がどの道を使っているのかまで聞く。家臣たちは最初こそ、跡取りがそこまで細かく見る必要はないと言ったが、梵天丸は気にしなかった。
国ごと強くしろ。
父に言われた言葉が、今では以前よりよく分かる。
兵が強いだけでは足りない。
畑が実り、道が通り、物が動き、人が食べられて、その上で初めて兵を出せる。
戦場で勝つ前から、国は動いている。
そして。
勝った後にも、国は続いていく。
「梵天丸」
ある日の夕方、輝宗に呼ばれた。
梵天丸が部屋へ入ると、父の前には一振りの刀と、整えられた衣が置かれていた。
いつもの勉強でも、戦の話でもない。
それを見ただけで、何の話か分かった。
「……元服?」
「そうだ」
梵天丸は刀を見た。
「もう?」
「もう、と思うか」
「なんとなく」
「初陣も終えた」
「うん」
「人を見ることも覚え始めた」
「まだ全然だけど」
「全て分かってから人の上に立てる者などおらん」
輝宗は静かに言った。
「分からぬことがあると知っている者の方が、まだ信用できる」
梵天丸は少しだけ笑った。
「父上、それ褒めてんの?」
「褒めている」
「分かりにく」
「お前に言われたくない」
親子で少しだけ笑う。
それから輝宗は、刀へ視線を落とした。
「名も変わる」
梵天丸の笑みが消えた。
分かっていた。
いつまでも梵天丸ではない。
幼い頃から呼ばれ続けた名を置き、伊達の跡取りとして新しい名を背負う日が来る。
「決まってんの?」
「ああ」
「何」
輝宗は息子をまっすぐ見た。
「政宗」
梵天丸の目が止まった。
「……は?」
「伊達政宗だ」
「ちょっと待って」
「何だ」
「政宗?」
「ああ」
「伊達政宗?」
「そうだ」
梵天丸はしばらく黙り込んだ。
そして。
「……あいつ」
「誰だ」
「吉法師」
「織田の?」
「そう」
輝宗は怪訝そうに眉を寄せる。
「何かあるのか」
「ずっと俺のこと政宗って呼んでた」
「……」
「まだ梵天丸だっつってんのに」
「……そうか」
「なんであいつ知ってんだよ!」
輝宗は当然、答えられない。
「私に聞くな」
「気持ち悪ぃ!」
「本人に聞け」
「次会ったら絶対聞く」
梵天丸は頭を抱えた。
「何年先の名前で呼んでたんだ、あいつ」
「仲が良いのだな」
「どこを見てそう思った」
「随分楽しそうだ」
「楽しくねぇよ」
そう言いながら。
梵天丸は少し笑っていた。
元服の日が近づくにつれ、城の中の空気も少し変わっていった。
家臣たちはこれまで以上に梵天丸を跡取りとして扱い始め、渡される書類も増えた。相談される内容も、稽古の結果ではなく国のことになっていく。
梵天丸という名が消えるからといって、自分が別人になるわけではない。
昨日まで考えていたことを、明日から急に捨てるわけでもない。
それでも。
名前には重さがある。
梵天丸と呼ばれているうちは、どこかにまだ子どもでいられる場所があった。
政宗と呼ばれるようになれば。
伊達の名を、もっと前へ出して生きることになる。
そんな頃だった。
尾張から使者が来た。
「若君。織田の吉法師殿が、近くまで来られているとのことです」
梵天丸は顔を上げた。
「何しに」
「分かりませぬ」
「また勝手に来たの?」
「そのようで」
「ほんっと自由だな、あいつ」
口では呆れながら。
梵天丸はすぐに立ち上がった。
吉法師は、城から少し離れた丘の上にいた。
以前と同じように、こちらを待っているような顔をしている。
「遅いぞ、政宗」
会った瞬間だった。
「お前やっぱ知ってたな!」
「何がじゃ」
「何がじゃ、じゃねぇ! 俺の名前!」
「政宗であろう」
「まだ梵天丸!」
「もうすぐであろう」
「なんで知ってんだよ!」
吉法師は少しだけ考える顔をした。
「知っておったからじゃ」
「説明になってねぇ!」
「細かい奴じゃのう」
「これは細かくねぇ!」
吉法師は声を上げて笑った。
梵天丸は腹が立った。
腹が立つのに。
なんとなく。
こうして言い合うのも、あと少しなのだと思った。
「お前もだろ」
梵天丸が言うと、吉法師の笑いが止まる。
「何がじゃ」
「名前」
「……ああ」
「もう吉法師じゃなくなるんだろ」
風が吹いた。
丘の下には、畑と道が広がっている。
遠くに人が歩き、荷車がゆっくり動いていた。
吉法師は、その景色を見ながら答える。
「そうじゃ」
「何になる」
「信長」
「織田信長?」
「うむ」
今度は、梵天丸が黙った。
知っている名前だった。
前の人生で、詳しく歴史を学んでいたわけではない。
けれど。
織田信長くらいは知っている。
「……お前、やっぱ信長になるんだ」
「そう申しておる」
「いや、そうじゃなくて」
「何じゃ」
「なんか……変な感じ」
吉法師がこちらを見る。
「お前が織田信長って」
「わしは昔からわしじゃ」
「それは分かってる」
「名が変わるだけじゃ」
「俺もそうだけどさ」
二人とも、以前の人生の記憶を持っている。
けれど。
志乃が織田信長になるわけではない。
麗奈が伊達政宗になるわけでもない。
生まれた時から。
今世を生きてきた。
家族がいて。
父がいて。
家臣がいて。
土地がある。
今の自分を作った時間がある。
前の人生は消えない。
けれど、それだけが自分ではない。
「なあ」
梵天丸が言った。
「何じゃ」
「お前、信長になったら変わんの?」
吉法師は眉を上げた。
「何を申す」
「今より偉そうになるとか」
「わしは今でも偉い」
「そういうとこだよ」
「お前こそ、政宗になれば少しは口を慎め」
「なんでお前相手に」
「わしは天下を取る男じゃぞ」
「まだ取ってねぇだろ」
「取る」
「俺も取る」
「わしが先じゃ」
「まだ決まってねぇ」
「決まっておる」
「決めんな」
また同じ話になった。
初めて会った頃から。
何度も何度も。
どちらが先に天下を取るのか。
その話ばかりしている。
けれど。
少しだけ違うこともあった。
「俺さ」
「何じゃ」
「この前、取った村見に行った」
「聞いた」
「なんで知ってんだよ」
「わしには耳がある」
「怖ぇよ」
「それで?」
梵天丸は丘の下を見た。
「橋壊れてて、水路も壊れてた」
「直したのであろう」
「うん」
「敵だった者まで助けたそうじゃな」
「戦終わったからな」
吉法師は、少しだけ目を細めた。
「相変わらず甘いのう」
「またそれか」
「敵は敵じゃ」
「終わった後まで敵にすんの?」
「逆らうならな」
「やっぱ分かんねぇ」
「わしも、お前が分からぬ」
声は荒れていなかった。
どちらも怒ってはいない。
本当に。
相手の考えが分からないだけだった。
「俺はさ」
梵天丸は言った。
「取ったなら、その後も面倒見る」
「わしは、従わせる」
「従わなかったら?」
「斬る」
「それじゃ人減るじゃん」
「残った者を使えばよい」
「だから、それずっとやんの?」
「必要ならばな」
「めんどくせぇ」
「お前が申すな」
「俺は別のめんどくさいことやってんだよ」
「橋を直し、水路を直し、敵まで食わせてか」
「そう」
「天下が遠のくぞ」
「でも国は残る」
吉法師の目が、梵天丸へ向いた。
「天下を取れねば意味がない」
「取った天下が残らなくても意味ないだろ」
また。
答えは合わなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
夕方の風だけが丘を通る。
吉法師は前を見たまま、小さく言った。
「お前は、本当に変な奴じゃ」
「お前に言われたくねぇ」
「人を残したがる」
「そりゃ残すだろ」
「わしは国を残したい」
「人いなくて国残る?」
「残す」
「どうやって」
「わしのやり方で」
梵天丸は、少しだけ笑った。
「じゃあ俺も、俺のやり方でやる」
「好きにせい」
「言われなくても」
吉法師も、少し笑った。
分かり合えない。
昔からそうだった。
前の人生でも。
今の人生でも。
考え方が違う。
選ぶ道も違う。
それでも。
相手のやり方を、馬鹿だとは思えなかった。
吉法師は速い。
決めれば迷わない。
必要だと思えば、誰より先へ進む。
梵天丸にはできないことも、平然とやる。
だから怖い。
けれど。
強いとも思う。
そして吉法師も。
梵天丸を甘いと言いながら。
弱いとは、一度も言わなかった。
「次に会う時は」
吉法師が言った。
「もう梵天丸ではないのう」
「お前も吉法師じゃないだろ」
「うむ」
「なんか気持ち悪ぃな」
「わしもじゃ」
「お前もなんだ」
「幼い頃より呼ばれた名じゃ。何も思わぬ方がおかしかろう」
梵天丸は少し驚いた。
「お前でも寂しいとか思うんだな」
「斬るぞ」
「すぐそれ」
「余計なことを申すからじゃ」
「でも、そうなんだろ」
「……知らぬ」
「はいはい」
「腹立つのう」
「お互い様」
二人は、少しだけ笑った。
「なあ、吉法師」
梵天丸が呼んだ。
「何じゃ、梵天丸」
たぶん。
互いをこの名前で呼ぶのは。
これが最後だった。
「負けねぇからな」
吉法師は、少しだけ目を細めた。
「何にじゃ」
「天下」
「まだ申しておるのか」
「お前が始めた勝負だろ」
「そうであったな」
吉法師は笑った。
子どもの頃と。
同じ顔だった。
「ならば、追って来い」
「追うんじゃねぇ」
「何?」
「抜くんだよ」
吉法師の笑みが深くなる。
「申しておれ」
「見てろよ」
「楽しみにしておる」
それだけ言って。
二人は別れた。
数日後。
梵天丸は、父の前に座っていた。
整えられた衣。
刀。
家臣たち。
伊達の名を背負う者として、皆がこちらを見ている。
輝宗が、新しい名を告げた。
「今日より、お前は政宗だ」
梵天丸は静かに頭を下げた。
「はい」
その日。
梵天丸という少年は。
伊達政宗になった。
そして。
遠く尾張でも。
吉法師と呼ばれていた少年が。
新しい名を背負った。
織田信長。
梵天丸と。
吉法師。
二人がその名で笑い合う時間は、終わった。
けれど。
二人の勝負は。
ここからが、本番だった。
次に向き合う時。
そこにいるのは。
伊達政宗と。
織田信長だった。




