第12話 海の向こうの男
パンチ一号店が開店してから、貧民街の大通りは以前よりずっと賑やかになった。
仕事帰りに焼きたてのパンを買って帰る者が増え、拳の看板を見上げながら何を買おうか相談する親子もいる。店から漂う小麦とバターの香りは通りの奥まで届き、工場から運ばれてくるパンは朝から途切れることなく棚へ並べられていた。
そんな大通りから少し外れた場所には、鉄ちゃんが作った小さな公園がある。
木のベンチと花壇があり、子どもたちが走り回れる広場もある。以前なら、貧民街に働く場所以外のものを作ろうと考える者などほとんどいなかった。
けれど今は。
働く場所だけではなく、休む場所もある。
パンを買い、誰かと座って食べる場所まである。
「ここで食べよー」
パンチの紙袋を抱えたパードが、空いているベンチを指した。
「天気いいし。女子会じゃん」
「外で女子会ですの?」
レイナが尋ねると、パードは何でもないように肩をすくめる。
「別によくない?」
「楽しそうです!」
スギナはすぐに賛成した。
レイナも二人を見て、穏やかに笑う。
「では、ご一緒いたしますわ」
三人はそのまま並んで公園へ向かった。
少し離れた場所では、リリアーナとミレーヌがその後ろ姿を微笑ましく見送っていた。
リリアーナの横には、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が立っている。
「いつの間にかツレなっとるな」
清司が、三人の背中を見ながら少しだけ目を細めた。
ミレーヌも静かに笑う。
「レイナさん、素直になってよかったです」
「そやな」
リリアーナも口元を緩めた。
以前のレイナなら、誰かと並んで歩いている時でさえ、どこか背筋を張っていた。
言葉を選び、表情を整え、何を言われても平然として見えるようにしていた。
けれど今は、スギナに何か言われて笑い、パードに肩を寄せられても気にすることなく歩いている。
扇もない。
ただの女の子として、二人の間にいた。
三人が公園のベンチへ腰を下ろすと、パードはパンの入った紙袋を置いて、すぐに立ち上がった。
「ちょい待ってて」
「どちらへ?」
「すぐ戻るー」
軽い足取りで去っていき、少しすると紙のカップを三つ抱えて戻ってくる。
「はーい! 買っといたよ」
「何ですの?」
「カフェラテ。三人分」
「わぁ、ありがとうございます!」
スギナが嬉しそうに受け取り、レイナも差し出されたカップを手に取った。
「……お気が利きますのね」
「なにその言い方。パード普通に気ぃ利くよ?」
「失礼いたしましたわ」
「分かればよし」
「偉そうですわね」
「レイナに言われたくないって」
三人で笑った。
レイナは手の中のカフェラテを見て、それからパードへ視線を戻す。
「パードさん」
「ん?」
「この前は……姫様の前で、少しきついことを申し上げてしまって。申し訳ありませんでしたわ」
壇ノ浦のようになった舞踏会が始まる前。
姫様との距離が近いと、随分強い言い方をしてしまった。
今思えば、あれは完全に自分の嫉妬だった。
パードは一瞬だけ目を丸くしたが、次の瞬間には明るく笑っていた。
「えー、全然気にしてないよ!」
「ですが……」
「いいって、いいって。黒王子好き同士じゃん!」
あまりにも軽く受け止められ、レイナは少し驚いた。
パードはカフェラテをひと口飲みながら続ける。
「レイナが黒王子好きなの見てたら分かるし、パードも好きだし。別にそれで仲悪くなる意味なくない?」
「……そうですわね」
「でしょ?」
パードは当たり前のように笑った。
「てかさ、もう友達じゃん?」
その言葉に、レイナは一瞬だけ動きを止めた。
「友達……」
何か特別な約束を交わしたわけではない。
家同士の付き合いがあるわけでもない。
互いに利用する理由もない。
ただ話して。
笑って。
同じ人を好きだと知って。
それでも相手を嫌いにはならず、また話したいと思った。
隣では、スギナがぱっと顔を輝かせている。
「そうです! もう親友です!」
「親友まで行くんだ」
「行きます!」
「早くない?」
「好きな人のことも、怖かったことも、なんでも話せますから!」
スギナは何の迷いもなく言った。
レイナは、二人をゆっくり見た。
「……友達。これが、友達というものなのですね」
パードが少しだけ目を丸くする。
「え、レイナ今まで友達いなかったの?」
「正確には……いたのだと思いますわ」
幼い頃から一緒にいた人たちもいる。
学園でも、話す令嬢はいた。
けれど。
「ここまで心のままに話せる方は、おりませんでした」
何を言えば嫌われるか。
どう見られるのか。
自分に何を求められているのか。
そんなことを考えずに話せる。
好きな人が同じでも、比べなくていい。
誰かに選ばれるために、相手を押しのける必要もない。
嬉しいことも。
恥ずかしいことも。
怖かったことも。
そのまま話していい。
「……素敵ですわね」
「でしょ?」
パードが笑った。
「友達ってラクだよ。変にカッコつけなくていいし」
スギナも大きく頷く。
「そのままでいいんです!」
その言葉に、レイナは自然と笑った。
そのままでいい。
最近、その言葉の意味が少しずつ分かるようになった。
「では……これからも、よろしくお願いいたしますわ」
「かたーい」
「ですが、今のは本心ですわ」
「じゃあ許す」
「なぜパードさんが許すんですか」
「親友だから?」
「そうです! 親友です!」
「スギナさんまで」
三人の笑い声が、公園に重なった。
しばらくは、本当にただの女子会だった。
パンチのパンで何が一番好きか。
拳の看板は本当にあれでいいのか。
クリームパンにはカフェラテが合うのか。
パードがたまごサンドを食べた直後にジャムパンへ手を伸ばし、スギナが妙に感心し、レイナが「味覚が忙しそうですわね」と笑う。
何の意味もない話だった。
だからこそ、楽しかった。
やがてパードがカフェラテを持ったまま、少しだけ声を落とした。
「でもさ」
「はい?」
「この前の舞踏会、普通に死ぬと思わなかった?」
レイナの表情が変わった。
「……思いましたわ」
今なら。
怖くなかったふりをする必要もない。
スギナが心配そうに二人を見る。
「そんなに怖かったんですか?」
「怖かったです」
レイナは素直に答えた。
「何が起きているのか分かりませんでしたもの。急に水が入ってきて、船が流れ着いて、知らない方々が現れて……誰が敵なのかすら、すぐには分かりませんでした」
「黒い船沈むし、平安っぽい船来るし、怨霊いるし、天狗飛ぶし、札飛ぶし。マジで情報量やばかった」
「聞いているだけでも怖いです……」
「しかもパンも流れてた」
「そこはもうよろしいでしょう」
「クリームパンだけ浮いてたよ」
「強かったですわね」
「レイナも覚えてんじゃん」
三人で少し笑った。
けれどレイナは、すぐにカフェラテを両手で包み直した。
「あの時は……姫様の力になることだけを考えておりましたわ」
「ヒールめっちゃ撃ってたもんね」
「あの方が動かなければ、人を助けられませんでしたもの」
「自分も怖かったのに?」
パードの問いに、レイナは少し考えてから頷いた。
「怖かったです。でも、それ以上に姫様の力になりたかったのですわ」
姫様の身体は、あの現場を走り続けられるものではなかった。
それでも姫様は止まらない。
なら、自分が支える。
自分の魔法で、その意思に身体を追いつかせる。
あの時のレイナにとっては、それだけだった。
スギナが柔らかく笑った。
「レイナさんらしいです」
「そうでしょうか」
「はい。前からずっと、誰かが困っていたらちゃんと見ていますもの」
レイナは少しだけ目を伏せ、それから素直に笑った。
「ありがとうございます」
少しして。
レイナは、ずっと気になっていたことを思い出した。
「そういえば、お二人にはお伝えしておいた方がよろしいかもしれません」
「なに?」
「この前、詠女さんから聞いた日本のお話です」
パードとスギナの表情が変わった。
レイナは、聞いたことを順に話していく。
日本は鎖国していること。
それなのに、新選組は海を越えてきたこと。
あの舞踏会へ流れ着いた平安の者たちも、日本から来たこと。
本来なら時代の違う者たちが、同じ日本の中に存在しているらしいこと。
そして。
「皆様、織田信長という方の命令で動かされているそうですわ」
パードの手が止まった。
「……待って」
「はい?」
「信長って、あの信長だよね?」
「私は、その方を存じ上げません」
「織田信長?」
「そう聞いておりますわ」
パードはスギナを見る。
スギナも目を丸くしていた。
「やばくね?」
「そんなにですの?」
レイナが尋ねると、パードは珍しく真面目な顔になった。
「いや、めっちゃ有名だよ。戦国武将の中でもトップクラス」
「戦国武将……」
「パード、戦国武将けっこう好きなんだけど、信長はマジで超有名。尾張ってところから勢力広げて、天下取りかけた人」
「天下を」
「うん。戦が強いだけじゃなくて、政治とか商売とか、新しいもの取り入れるのも早かったってイメージ。古い仕組みぶっ壊したり、今までと違うことガンガンやったり、とにかく時代動かした人」
レイナは黙って聞いていた。
「それだけ伺えば、とても優秀な方ですわね」
「優秀だと思う。めちゃくちゃ」
パードはすぐに頷いた。
「でも、怖い話も多い」
「怖い話?」
「逆らう相手には容赦ないイメージ。比叡山の焼き討ちとか有名だし」
「比叡山?」
「お寺とか僧兵とかがいた山。信長が焼き討ちしたって学校でも習うやつ」
レイナの表情が固まった。
「山を……焼いたのですか?」
「うん。実際にどこまで被害があったかとかは色々説あるけど、『信長怖い』って話になるとよく出てくる事件」
スギナが小さく肩を縮めた。
「信長は人気ありますけど……私はリアルにいたら怖いです」
レイナがスギナを見る。
「人気があるのですか?」
「はい。すごく人気です。でも、歴史やゲームで見るのと、本当に会うのは別です!」
スギナは真剣だった。
「格好いいと思う人が多いのも分かりますけど、実際に目の前にいて、逆らったら殺されるなんて言われたら……私は怖いです」
「それはそう」
パードも頷いた。
「パードも信長はキャラとして好き。でもリアルで上司は絶対イヤ」
「そこまでですの?」
「怒らせたくないもん」
レイナの中で、海の向こうにいる男の姿が少しずつ形になっていく。
ただ残酷なだけの人ではない。
優秀で。
戦に強く。
国を広げ。
新しいものを取り入れ。
時代そのものを動かす力を持っていた。
それなのに。
「詠女さんは……命令に逆らえば殺されると仰っていましたわ」
パードの笑みが消えた。
「それ、マジならかなりヤバいね」
「新選組の方々も、平安の方々も、皆その命令で海を越えてきたそうです」
「時代違うのに?」
「はい」
「……それもう日本全部まとめてんじゃん」
パードが低く呟いた。
スギナも不安そうにカフェラテを握る。
「私は……」
「ん?」
「家康さんが一番優しそうなイメージです……」
突然出てきた名前に、パードが笑った。
「なんで家康出てきた」
「学校で習った戦国武将だと、信長さんと秀吉さんと家康さんが一番覚えているので」
「三英傑だね」
「秀吉さんは、すごく出世した方ですよね?」
「そうそう。百姓からものすごく上まで行った人ってイメージ」
「家康さんは、最後に天下を取った人です」
「うん」
スギナは少し考えてから言った。
「なんとなく……家康さんが一番優しそうです」
パードも少し考えた。
「まあ、信長よりは」
「比べ方が怖いです」
レイナが思わず笑う。
パードも。
スギナも笑った。
けれど、その笑いが消えた後。
レイナの胸の奥には、先ほどまでなかった重さが残っていた。
公園の向こうでは、パンチの店に灯りがついていた。
仕事を終えた者たちが紙袋を抱えて家へ帰り、子どもたちは夕暮れの中をまだ走り回っている。花壇の横では年老いた夫婦がベンチに座り、半分に分けたパンをゆっくり食べていた。
以前なら、貧しいというだけで見過ごされていた街。
今は少しずつ仕事が増え、食べ物が増え、休める場所が増え、人が笑うようになっている。
人が生きるために。
少しずつ変わっていく街。
その灯りを見ながら、レイナは海の向こうを思った。
そこには。
新選組も。
平安の者たちも。
時代の違う人々まで従わせる男がいる。
優秀で。
強く。
時代を変えるほどの力を持ち。
逆らう者には、死を与える。
織田信長。
元の世界でも、歴史に名を残した男。
姫様が。
いつか向き合うことになる相手。
レイナは、手の中のカフェラテをそっと握った。
姿も知らない。
声も知らない。
まだ一度も会ったことすらない。
それでも。
その名を知るほどに。
海の向こうにいる男が。
少しずつ、恐ろしくなっていった。




