第3話 盗み
悠真は、走れる限り走った。
トイレを飛び出し、酒場を横切り、椅子につまずきかけながら外へ出て、息を切らして通りに立った。
「誰もいない……」
大通りは、ほとんど空っぽだった。
樽の中で寝ている酔っぱらいが一人。
鶏はFランクモンスターに入るのかどうかで言い争っている冒険者が二人。
そして、悠真を軽蔑した目で見ている犬が一匹。
それだけだった。
けれど、あの小さな影は消えていた。
悠真は通りの真ん中で立ち尽くした。
それから、あてもなく歩き始めた。
(何もかもうまくいかない。世界最強スキルで、のんびり暮らすはずだったのに)
腹が鳴った。
悠真は腹を押さえた。
「黙れ。俺もこの状況には不満なんだ」
その時、声が聞こえた。
「おい、そこのお前」
悠真は顔を向けた。
歪んだ家と家の間に、三人の男が寄りかかっていた。
くたびれたフード。
小さなナイフ。
人を脅すことに慣れた笑み。
そのうち一人には、目元に傷まであった。
「おい。こっち来いよ」
悠真は疑わしそうに目を細め、そのまま歩き続けた。
傷の男が彼の前に立ちはだかった。
「あ? 逃げられると思ってんのか? この辺じゃ見ない顔だな」
悠真は止まった。
男を見た。
それから、残りの二人を見た。
そして、ため息をついた。
「ああ」
盗賊は眉をひそめた。
「ああ?」
「今さらチュートリアル盗賊か。遅いぞ、お前ら」
「どういう意味だ?」
悠真は自分を指さした。
「俺はもう全部失った。もう盗まれた。天上簒奪とかいうスキルは役に立たないスプーンをくれた。今日死んだ。メインヒロインには置き去りにされた。しかも、食べてもいない食事代まで借りてる」
声が揺れ始めた。
「倒れる場所すらない」
スプーンを持ち上げた。
「それに、厳密には一回死んで倒れてる」
三人の盗賊は黙った。
傷の男がナイフを下ろした。
「それは……序盤にしてはだいぶ重いな」
「腹も減ってる」
二人目の盗賊が胸に手を当てた。
「親分……」
三人目が鼻をすすった。
「こいつ、アイテム落としそうな顔もしてねえよ」
親分は気まずそうに首の後ろをかいた。
「お前、とりあえずもう一回酒場に入れ。何か食わせてやる。その前に、危険な裏路地がどういうものか説明するくだりだけやらせてくれ」
悠真は顔を上げた。
「本気か?」
「ああ。でもその後、脅されたふりはしてくれ。俺にも評判がある」
十分後、悠真は一番酒場のテーブルに座っていた。
目の前には、痩せたイノシシのシチュー、黒いパン、硬いチーズの一切れ、安いワインの入ったジョッキがあった。
悠真はスプーンで一口すくい、口に運んだ。
「ああ……」
泣きそうになった。
酒場はもうほとんど空だった。チュートリアル盗賊は食事代を払い、危険な裏路地を二、三本説明し、地域経済について謝罪してから、仲間と一緒に去っていった。
悠真は少し酔ったまま、椅子にもたれた。
「俺の人生、異世界で最初の食事をチュートリアル盗賊におごられるくらい終わってるのか」
隣のテーブルから声が返ってきた。
「分かるよ。運の悪さって、本当に呪いだもんね」
悠真は振り向いた。
そこには、緑色の髪をした小柄な少女が一人で座っていた。
短いマントに、高そうなブーツ。
生き生きした目、狐みたいな笑み、そして硬貨をもてあそぶ素早い指。
彼女も、悠真と同じ安いワインを飲んでいた。
悠真はジョッキを指さした。
「それ、飲んでいい年齢なのか?」
(待て。この世界に最低年齢とかあるのか?)
少女は、古い悲劇を背負っているみたいにため息をついた。
「そこまで運が悪いんだよね。成人はしてるの。ただ背が低いだけ」
悠真は彼女をじっと見た。
(なるほど。どのファンタジー世界にも、ロリ枠は必要らしい)
彼女はジョッキを掲げた。
「それで、君はたった今、無能な連中がこの世界を作ったって気づいた人みたいな顔をしてるね」
悠真は自分のジョッキを持った。
「ようやく分かってくれる人間が現れた」
「ルールがひどい?」
「最悪だ」
「経済が不公平?」
「恥ずべき有様だ」
「モンスターの配置が雑?」
「スライムが退職してた」
彼女は口を開けた。
「それでいろいろ納得した」
悠真はさらに一口飲んだ。
「この世界は明らかに、現代的な冒険というものを分かっていない」
「同感。小規模犯罪への支援が足りない」
「小規模冒険者への支援が足りない」
「小規模犯罪冒険者への支援が足りない」
悠真は彼女を指さした。
「その言葉、街の入り口に掲げるべきだ」
少女は笑った。
「それに乾杯」
二人は乾杯した。
安いワインが胸を温め、悠真は数秒だけ、もしかしたら人生は良くなるかもしれないと信じた。
「実は、俺は全財産の入った袋をなくしたんだ」
「あ、私も!」
悠真はジョッキをテーブルに叩きつけた。
「革命を始めよう!」
彼女の目が輝いた。
「ずっとやってみたかった。より尊厳のある人生に!」
悠真はジョッキを掲げた。
「平穏で、働かなくていい人生に!」
彼女は椅子の上に立った。
「盗んでも犯罪じゃない世界に!」
悠真も立とうとした。
片足を椅子にかけたところで止まる。
「ん。待て」
少女が固まった。
「盗む?」
彼女はものすごくゆっくり椅子から下り始めた。
悠真の頭の中で記憶が巻き戻った。
背後を通った小さな影。
消えた袋。
短いマント。
高そうなブーツ。
テーブルの上で、責任転嫁のスプーンが震えた。
一回、回った。
二回。
そして、まっすぐ彼女を指した。
少女はスプーンを見た。
「感じの悪い物体」
悠真は立ち上がり、彼女の肩をつかんだ。
「俺の硬貨を返せ、この泥棒!」
「ちなみに、私にも名前があるよ。ノノア」
「興味ない」
「返せない」
彼は手を離した。
「返せないってどういうことだ?」
「馬鹿みたいな話なんだけど」
「この世界そのものが馬鹿みたいな話だ。要約しろ」
彼女はもう一度座り、腕を組んで視線をそらした。
「君が新人っぽい顔で入ってくるのを見たの。普通、来たばかりの新人って異常な幸運を持ってるんだよ。レアドロップ、初期祝福、いっぱい入った財布、そういう腹立つやつ」
「続けろ」
「だから、君の袋を盗んだ」
「その時点でもう嫌いだ」
「それで、せっかく仕事中だったから、ついでに能力値も盗めるかなって思って。たまたま盗れたのが君の運だった」
悠真は動かなくなった。
「お前、俺の運を盗んだのか?」
「わざとじゃないよ」
「で?」
少女は顔をしかめた。
「君、運がマイナスだったの」
悠真は瞬きをした。
「待て。だからチュートリアル盗賊が晩飯をおごってくれたのか?」
「たぶん」
彼女はだんだん早口になりながら続けた。
「私も反省したんだよ。袋を返すつもりだった。でも滑った。袋が荷車の車輪に引っかかった。荷車が倒れた。焚き火にぶつかった。焚き火が藁を見つけた。藁がもっと藁を見つけた。街はバケツの重要性を学んだ」
悠真は顔を手で覆った。
「俺の硬貨……」
「熱い使命に殉じたよ」
悠真はゆっくり笑った。
「まあいい。少なくとも復讐はできる」
彼女は首を傾げた。
「どうやって?」
「お前が俺のマイナス運を持ってる。俺の人生は改善する。お前は苦しむ。宇宙に均衡が訪れる」
少女は黙った。
それから、指を一本立てた。
「小さな問題がある」
「あるに決まってる」
「私のスキルが能力値を盗めるのは数時間だけ。君のマイナス運は、もうすぐ戻ってくるはず」
悠真は彼女を見た。
笑みが死んだ。
「もうすぐって、どれくらいだ?」
酒場の扉が大きな音を立てて開いた。
制服姿の男が一人、二人の衛兵を連れて入ってきた。
少女の顔が青ざめた。
「街の衛兵?」
男は半分焦げた袋を持ち上げた。
「これの持ち主を探している」
革は端が焼けていた。
留め具はまだ煙を上げている。
側面には、スターターパックの小さな札がついていて、凪原悠真の名前が書かれていた。
「この袋が荷車に引っかかり、かなりの火災を引き起こした。持ち主を知っている者はいるか?」
悠真は固く唾を飲み込んだ。
「いいえ」
責任転嫁のスプーンが、テーブルからひとりでに浮き上がった。
悠真は目を見開いた。
「やめろ。お前はやめろ」
スプーンは、馬鹿みたいに高貴な光を放ちながら空中を漂った。
そして、悠真を指した。
全員が彼を見た。
ノノアはジョッキを口に運び、小さくつぶやいた。
「おかえり、マイナス運」
悠真は目を閉じた。
(俺の運が戻ってきた)




