英雄
僕達の目の前に並々ならぬ量の水があった。
掃除をする為にしてはちょっと多すぎたかもしれない。
並んでた椅子や小物も、僕のせいで散らかり放題だ。
「…散らかしてごめんなさい…」
「いいよ。それに水が汚れを押し流したから掃除の手間も大分減ったね」
確かに浴槽や床の埃は流されている気がする。
多少は水に混じったり浮いているけど、まだ綺麗に見える。
これを使ってお風呂に入れるなら入りたい。
でもこれ以上エンフェルトを困らせる事を言う訳にはいかない。
「…掃除する?」
「今、作戦を考えてる」
「作戦?」
「どうしたら今日お風呂に入れるかって」
エンフェルトはそう言ってにっこり笑った。
手を引かれるまま、浴室を出て食堂方面に向かって歩く。
そして三度、ステラの部屋の扉を叩いた。
「はーい!また何かお手伝いが必要ですか?」
「風呂の準備だ」
「いいですよ!…は?…今、なんて言いました?」
「優が浴槽いっぱいに水を出してくれた。風呂に入れるぞ」
ステラは何も言わず、浴室方面に走り出した。
その数秒後、絶叫とも取れる甲高い悲鳴が響き渡り、また走って戻ってきた。
「優!いや、優様!信じられない!」
「皆ですぐに準備だ!」
「任せてください!すぐ、ほんとすぐに沸かせます!」
ステラは慌てた様子でその辺の扉を叩きまくった。
何事かと出てきたお姉ちゃん達にエンフェルトが簡潔に説明する。
そのうち何人かはステラ同様、浴室まで走って確認に行った。
「私は優が心配だから部屋で様子を見る。指揮はステラに任せるぞ」
「了解です!!」
「できるだけ掃除も頼んだ」
「任せてください!」
「…一応言っておくが、優が見てる前であの水を飲むなよ?」
「…わかりません!」
ステラの返事にエンフェルトは渋い表情をして、ため息も吐いた。
元気に浴室に向かうステラを見送った後、僕達はエンフェルトの部屋に戻る。
「何処か、身体に違和感はない?」
「平気」
「よく見せて」
エンフェルトは僕の目や口の中を確かめたり、手や足を揉んだりしてくれた。
「脈も正常だし、異常は何処にもないね」
「僕達も手伝いに行こう?」
「いや、少し優の様子を見て安心したい」
しばらくソファーに座って待機した。
その間、身体に異常がないか何度も何度も確認される。
そうしてやっと安心したエンフェルトと共に着替えを用意し、僕達も浴室へ移動した。
浴室はモップを持った人が何人も居て、その中にステラも居た。
ステラは僕に気が付くと近づいて、片膝を付きながら天を仰いだ。
「優!我らが英雄よ!」
「僕が英雄?」
「そう!私達の救世主、優!」
ステラは大げさなポーズで僕を讃えてくれた。
エンフェルトに心配をかけてしまったという後悔が、少し和らぐ。
「ステラ。後どれくらいで風呂に入れる?」
「もう少しで温度もいい感じになりますよ!掃除も浴槽の中以外、完璧です!」
皆、水をあげた時より生き生きとしていた。
そのうち湯気が立ち昇り、お風呂が沸く。
ステラは浴室の奥の扉に向かって声を掛けると、更に何人かが現れる。
その扉の奥がなんなのか気になった。
「あの奥で薪を燃やしてお湯にしてるんだよ」
「見に行ってもいい?」
「いいよ。多分ステラが声を掛けて火は消したけど、見に行こうか」
エンフェルトと共にボイラー室を見学した。
薪が山積みになってるだけで、火が着いてないとあまり面白くない。
「今度、僕がこれを燃やしたい」
「危ないからダメ」
「えーっ!」
「それより、皆が待ってるから戻ってお風呂にしようよ」
「そうだった!」
浴室に戻ると、全員が待機していた。
羨望の眼差しを僕に向けている。
「皆でなにしてるの?お風呂、入らないの?」
「優を待ってたんですよ!やっぱり、最初は優から入らないと!」
ステラの言葉に皆が頷いた。
急ぎ脱衣所に戻ってエンフェルトと一緒に服を脱ぎ、お風呂のお湯を身体に掛けてもらう。
「熱くない?」
「ちょうどいい。もう入っていい?」
「ああ、いいよ」
僕も多分、何年か振りのお風呂。
最初は泳ごうと思っていたけど、気持ち良すぎて動けない。
ただ、浴槽は掃除できてないから、やっぱり埃が浮いてるのが気になる。
エンフェルトの言った通り、掃除をしてからいっぱいにすればよかったと反省した。
「…だ、団長…私達もそろそろ…」
「よし、いいだろう。身体をよく流して汚れを落としてから浸かるんだ」
「もちろんです!さぁ、皆!」
エンフェルトが許可を出すと急にどたばたと騒がしくなった。
皆浴槽の周りに座り、桶を使ってお湯を汲んで、石鹸とタオルで身体を洗い始める。
「エンフェルトはまだ入らないの?」
「こんな汚れた身体じゃ入れないよ。もう少し待っててね」
見れば、全員が何度も執拗なまでに身体を流している。
中には泣いてる子も居て、先に入ってるのがなんだか少し気まずい。
心配になった僕はエンフェルトにヒソヒソ声で話しかけた。
「…ねぇ、先に入らない方がよかった…?」
「どうして?」
「…なんとなく…」
「優が一番に入らなくてどうするの。何も気にしなくていい」
一人、また一人と手を止めた。
身体を洗い終わった人は顔を上げ、辺りを伺っている。
そして全員が顔を上げた後、エンフェルトに視線が集まった。
「さあ、優に感謝しながら浸かろう」
エンフェルトの掛け声で次々に浴槽に飛び込んだ。
お湯が思い切り波打ち、身体が浮き上がる感覚がした。
「あはは、すごいね!」
「…皆冷静さを失ってるね。…ああ、貴重なお湯が…」
エンフェルトはただ一人、静かに浴槽に入ってきた。
僕の隣で、ゆっくり肩まで浸かっている。
「…夢みたいだよ…お風呂に入れるなんて…」
「最後に入ったのいつ?」
「いつだったかな…?身体を拭いたのだって覚えてないよ」
ステラが近づいてきた。
顔はにっこにこで、ご機嫌だ。
「優。本当にありがとう」
「皆お風呂好きなんだね」
「大好きよ。でも二度と入れないってずっと思ってた。
こんなに綺麗な身体に戻れるなんて、誰も想像してなかったもん。ほら、見て…」
ステラの視線を追うように、辺りを見渡した。
全員、本当に全員がもれなく泣いている。
ステラに視線を戻すと、ステラも涙を流していた。
「…ヒックッ…身体を拭くどころか、飲み水すら買えなくなってぇ…。
…もう死んじゃうんだと思ってた…」
「…ステラ…」
「…せめて綺麗な身体で死ねたらなって、ずっと思っててぇ…グスッ…」
「ステラ。暗い話を優にするんじゃない」
「…だって団長ぉ…」
エンフェルトはため息を吐き、ステラを撫でた。
すると、ステラは嗚咽が混じるほど激しく泣いた。
あの明るいステラがこんな風に泣くなんて意外だった。
それをきっかけに、あちこちからすすり泣く声が聞こえ始めた。
…。




