第十八章 玲子最後の戦い 第五節
「田所さん」
「どうしました?」
私はバッグを抱えたまま、少しだけ言い淀んだ。
「あの……費用の方は……」
探偵事務所というからには、法外な金額を請求されると思っていた。
前の興信所では、結局何の成果も無いまま三十万円が消えたのだ。
だからこそ、逆に怖かった。
ここまで具体的に動いてくれて、一体いくら請求されるのだろうと。
すると田所は、いつもの調子でコーヒーを啜りながら答えた。
「成功報酬で三十万円。あ、慰謝料もらってからでいいですよ」
「え……?」
「成功の定義は慰謝料をもらう事。それが出来なければ成功報酬は無しで良いです」
思わず目を瞬かせた。
「そ、そんなんで良いんですか?前のところは何の手がかりもなく終わったのに三十万円取られましたけど……」
「まぁ、お世話になってる松元先生の紹介でもあるし」
田所は椅子にもたれながら口元を緩めた。
「それに、手ごたえのある面白い仕事を持って来てくれましたから」
「先生!面白いとか失礼ですよ!」
すかさず夏野が突っ込む。
だが私は思わず吹き出してしまった。
「全然良いですよ。田所さんにお願いできて良かったです」
田所は少しだけ肩を竦めた。
「まだまだ、これからが本番ですよ。レコーダーの準備が出来たら連絡しますので、打ち合わせに来てください」
「分かりました。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げた時だった。
ふと気付く。
この人、ふざけた空気を出しているのに、話の中身だけは一切ブレていない。
夏野が呆れながらも田所を信頼している理由が、少しだけ分かった気がした。
三日後。
私は再び田所探偵事務所を訪れていた。
相変わらず雑居ビルの一室とは思えないほど静かな事務所だ。
「失礼します」
「いらっしゃい」
夏野が微笑みながら応接スペースへ案内してくれる。
「どうぞお掛け下さい」
席に着くと、田所は既にコーヒーを準備して待っていた。
もちろん、スティックシュガー三本とミルクポーション二個付きである。
「幾つか分かったことがあります」
さっきまでの柔らかい雰囲気が少しだけ消える。
仕事の顔だった。
「先ず、浮気相手との接触方法ですが、どうやら待ち合わせ場所と時間を決めているようですね。ただ、そこで接触はしていません」
「接触してない?」
「はい。ご主人の姿を見つけた浮気相手が距離を取って後をつけ、ご主人が先にホテルへ入る。そして時間を空けてから浮気相手が入っているようです。おそらくご主人があとから来る浮気相手に部屋番号を伝える様にフロントに頼んでいるのかと」
「そんな……」
「なので、一緒にホテルへ入るところを押さえるのは難しいでしょう。部屋の中まで侵入できれば別ですが、現実的じゃありません」
私は小さく息を吐いた。
やっぱり尚哉は徹底していた。
「しかし、相手は分かりました」
「本当ですか!?」
思わず身を乗り出す。
「誰なんですか?」
「同じ会社の大塚優樹菜さん。二十七歳、独身です」
その瞬間、胸の奥が冷たくなる。
実在する名前を聞かされると、疑惑が一気に現実味を帯びた。
「ただ、不思議なんです」
「不思議?」
「連絡を取っている素振りがほとんど無い」
「え?」
「電話もメールも目立ったものはありません。ですが、間違いなく会っている」
田所は指先で机を軽く叩いた。
「おそらくLINEです。ただし普通のやり取りではない」
「普通じゃない?」
「同僚がチラっと見た時には、業務連絡のような内容しか無かったそうです」
「じゃあ、待ち合わせとかは……」
「暗号でしょうね」
田所は即答した。
「暗号?」
「例えば、“会議室”“印刷室”“受付”みたいな単語を、実際は別の意味で使う。時間もズラしている可能性が高い」
私は思わず唸った。
「じゃあ、連絡方法は分からないんですね」
「いや、おそらく業務連絡に見せかけた暗号です。もし見る機会があったら内容を私に送って下さい。解読しますから」
「分かりました」
「それで、ICレコーダーの準備が出来ました」
田所は横にいた各務を見る。
「この後、作業員に扮した各務をご自宅へ向かわせます。ICレコーダーを仕掛けてもらって下さい」
「分かりました」
「各務。それから玲子さん。おそらく対象者は自宅に盗聴器を隠してる。ICレコーダーを仕掛けているのがバレるとまずい。各務は五分くらいで一旦、工事が終わって帰る振りをしろ。」
「了解です。その後はどうすんです?」
「各務は音を立てない様に慎重に設置作業、玲子さんは各務がいないものとして普段通りの生活そうぃて下さい」
「分かりました」
「各務は作業が終わったら玄関に行ってドアを開けて入ってきたふりをする。『工具無くしちゃったんですけど、ここに忘れてませんでしたか?』とか言って。その後はそのまま帰れば、工事に時間がかかっても盗聴器で音を聞いているだけの対象者からすれば“工事時間は五分ほど。そんな時間で入念にレコーダーやカメラを仕掛けられる訳がない”と思って盗聴や盗撮を疑わないだろう」
「なるほど」
「それから玲子さん。前に話した通り、ご主人が家にいる時にお父様から電話してもらって下さい。それが出来たらこちらに連絡を」
「その後、ご主人の動向を見て、こちらも本格的に動きます」
私は深く頷いた。
「よろしくお願いします」
田所は静かに笑った。
「任せて下さい」
――そして現在。
「……あれだけ念入りに行動してたのに、全部お見通しだったなんて……」
尚哉は青ざめた顔で呟いた。
「貴方の負けよ。もう観念しなさい」
尚哉は膝から崩れ落ち、そのまま項垂れた。
後日。
松元弁護士に間へ入ってもらい、離婚は無事成立した。
尚哉から慰謝料四百万円。
大塚優樹菜から慰謝料二百万円。
多めに取った代わりに、会社には内緒にしてやった。
そして私は、約束の成功報酬を持って田所探偵事務所を訪れた。
扉を開けると、いつものように夏野が出迎えてくれる。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
応接スペースへ通される。
しばらくして田所がやって来た。
「田所さん。この度は有難う御座いました。こちら、成功報酬の三十万円です」
「無事、離婚成立して慰謝料も頂けたようで何よりです」
「これも田所さんのお陰です」
「いやいや。楽しく仕事させてもらいましたから」
田所はいつもの調子で笑った。
「こちらこそありがとうございます」
私は少しだけ迷った後、口を開く。
「ところで、田所さんは独身ですか?」
「ええ、まあ」
「年上で子持ちのバツ三の女とか興味ありませんか?」
「え?」
田所の目が泳いだ。
本当に一瞬だけ。
だけど私は見逃さなかった。
私はそっと夏野の方を見る。
(私じゃ勝ち目ないか)
「いえ、何でも無いです。忘れて下さい」
「はあ……」
妙に気まずい空気が流れる。
私は慌てて立ち上がった。
「それじゃ、私はこれで」
「今、コーヒー淹れますから、もう少しゆっくりしていきませんか?」
「いえ、松元先生の方にもお礼に行かないといけないので」
「そうですか」
田所は軽く頷いた。
「また何かあればご連絡ください」
「分かりました。ありがとうございます。それでは失礼します」
事務所を出て、雑居ビルの階段を降りながら私は小さく笑った。
人生、本当に色んな男がいる。
でも。
少なくとも、あの甘ったるいコーヒーを飲む探偵は――信用できる男だった。




