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本城玲子は黙ってない ~最強の嫁・本城玲子の半生~  作者: 上板橋喜十郎


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第十八章 玲子最後の戦い 第四節

 ――松元先生は、ここなら力になってくれるって言ってたけど……。

私は新宿三丁目の雑居ビルの前で一度立ち止まり、手元のメモを見直した。

『田所探偵事務所』

古びたビル。

決して綺麗とは言えない外観。

階段の踊り場には少し黄ばんだ案内板。

正直、不安しかなかった。

本当にここで大丈夫なのだろうか。

だが、松元先生がわざわざ紹介してくれたのだ。

それに、今の私には他に頼れる相手もいない。

私は意を決してドアをノックした。

「どうぞ」

落ち着いた女性の声。

 ドアを開けて中へ入る。

室内は意外なほど整理整頓されていた。

狭いながらも清潔感がある。

棚にはファイルがびっしり並び、壁際には観葉植物まで置かれていた。

「佐伯玲子さんですね」

声を掛けてきたのは眼鏡を掛けた長身の女性だった。

細身のスーツ姿で、秘書というよりキャリアウーマンという印象が強い。

「はい」

「こちらへどうぞ」

 女性は応接スペースへ案内してくれた。

革張りのソファーに腰掛ける。

そのタイミングで、奥の部屋から男が出てきた。

……太っている。

しかも、かなり冴えない。

髪は少しぼさっとしているし、スーツも高そうには見えない。

お世辞にも“名探偵”という感じではなかった。

男は私の向かいへ座ると、名刺を差し出してきた。

「所長の田所雄三です」

「佐伯玲子です」

「どうぞお掛け下さい」

既に座っていたが、私は軽く会釈した。

すると、先ほどの女性がコーヒーを運んできてくれる。

「秘書の夏野です」

「あ、どうも……」

 ーヒーを置いた彼女は静かに一礼し、また奥へ戻っていった。

(この人、大丈夫かな……)

私は目の前の田所を見る。

冴えない。

頼りない。

どう見てもその辺の中年男性だ。

むしろ、さっきの夏野という女性の方が有能そうに見える。

(どう見てもあの秘書の人の方が仕事できそうなんだけど……)

そんなことを考えていると、ふと田所の前のコーヒーへ目が行った。

スティックシュガー三本。

ミルクポーション二つ。

田所はそれを躊躇なく全部コーヒーへ投入する。

しかも、慣れた手付きで。

ぐるぐるとスプーンで混ぜながら、田所が口を開いた。

「佐伯さん」

「あ、もうその姓で呼ばれたくないので玲子でお願いできますか?」

「分かりました。玲子さん。松元先生からお話は聞いてますよ」

「はい。主人が浮気の尻尾を掴ませてくれないので、お力を貸して頂きたいんです」

「分かりました」

返事は短い。

私は少し不安になりながらも、前の興信所での経緯を説明した。

尾行を巻かれたこと。

ホテルへ一人で入ること。

盗聴器を見つけられたこと。

田所は一切メモを取らない。

ただ静かにコーヒーを飲みながら聞いている。

「ご主人はだいぶ巧妙に立ち回っているようですね。一筋縄じゃないでしょうね」

「そうなんです。何とかなりませんか?」

田所は少し考えるように目を閉じた。

そして。

「ではお母様に倒れて頂きましょう」

田所がさらりと言った。

「先生! 何言ってるんですか?」

書類を整理していた夏野が思わず顔を上げる。

だが私は、その瞬間に田所の意図を察した。

「なるほど、そう言う事ですね」

田所がこちらを見る。

「そう言う事です」

夏野だけが置いていかれていた。

「え?」

夏野が目を瞬かせる。

「あ、なるほど。でもそれなら出張とか旅行とかでも良いんじゃないですか?」

すると田所は首を横に振った。

「それじゃダメだ」

田所はスティックシュガーを大量投入した甘ったるいコーヒーを一口飲み、静かに続ける。

「おそらくご主人は“出張”と噓をついて浮気をしてる。そういう人間は、自分がつく嘘を他人もつくと思っている」

「……」

「つまり、ご主人は奥さんの出張も疑う」

私は小さく頷いた。

確かに尚哉ならそう考える。

“出張”や“旅行”程度では、完全に警戒を解かないだろう。

「だからこそ、ご両親の協力と迫真の演技で、“しばらくは絶対に帰ってこない”“自宅は安全”と思わせる必要がある」

「そうすれば、ご主人は必ず自宅へ相手を連れ込む」

夏野はそこでようやく納得したようだった。

「なるほど……そういう意味ですか」

「自宅でそんな行為がされるのはお嫌でしょうが、外部で尻尾を出さないのなら、自宅で罠を張って自宅におびき寄せるしかないです」

私はゆっくり息を吐いた。

「……そうですね。分かりました。どうすればいいですか?」

「夏野君。例の三人、呼んで」

「分かりました」

夏野が奥へ消える。

その間にも田所は次々と指示を出した。

「では玲子さんはまずご両親に事情を説明して協力を取り付けて下さい」

「はい」

「そうしたら、ご主人が自宅にいる時にお父様から電話をしてもらって下さい。その時に必ずご主人に代わってもらい、お父様から直接説明してもらう」

「なるほど……」

「これで真実味が一気に跳ね上がります」

確かに。

父から直接説明されたら、尚哉も疑いにくい。

「玲子さん、お仕事はご自宅でDTPをされてるんですよね?」

「はい」

「では仕事用のパソコンも持ち出してください。これでご主人はますます“自宅は安全”と思います」

「分かりました」

 そこへ、三人の男が入ってきた。

「失礼しまーす」

「おう。来たか」

田所が軽く手を上げる。

「こちら依頼人の佐伯玲子さん。玲子さんと呼んでやってくれ」

「よろしくお願いします」

「平井でーす」

「各務です」

「棚田です」

 三人とも雰囲気はバラバラだった。

だが、全員どこか普通ではない空気を持っている。

「今回は浮気調査だ。だが対象者は狡猾に立ち回っている。手ごわい相手だから油断するなよ」

「分かりました」

「まず平井。近所と職場関係者への聞き込みと根回し。誰が対象者とつながってるか分からないから慎重にな」

「了解です」

「棚田は自宅周辺の地理の調査。地図にはない、人一人が通れるような道や、マンション等の敷地内の通り抜けができる場所を調査して、尾行になった時に見失わない様にしてくれ」

「了解しました」

「今回の相手は異常に警戒心が強い。一度失敗したら二度目は無いだろう。頼むぞ」

「はい」

「そして各務。玲子さんのご自宅に盗聴器を仕掛けたい」

「分かりました」

「ただ、相手は盗聴器を見つける機器を持ってるようだ」

「それじゃ仕掛けてもすぐバレますね」

「そこでだ。ICレコーダーを改造してくれ」

「どんな風にですか?」

「本体は壁の中。電源はコンセントから。録音スイッチは線を延ばして屋外から操作できるように」

一瞬、各務の目が輝いた。

「なるほど。対象者が屋内にいるのを確認したら屋外から誰かがこっそり録音スイッチを押すんですね。ICレコーダーなら電波を飛ばさないから盗聴器の発見機じゃ見つけられないですね」

「まぁ、リアルタイムで内容を聞けないというデメリットもあるが今回は仕方ない」

田所は更に続ける。

「それから同じ方法でカメラも仕掛けて欲しい。どちらも場所は対象者の寝室とリビング。出来るか?」

「任せて下さい」

「夏野君、作業服用意して各務に渡して」

「分かりました」

「あ、それから通常の盗聴器も一つ仕掛けておいてくれ」

「どうしてです?」

「それが見つかれば対象者は安心するだろ。そこに油断が生じる」

「なるほど。流石所長」

「盗聴器はどうせ壊されるから一番安い奴で良いぞ」

平然とそんな事を言う。

「ICレコーダーの改造が終わって準備が出来たら連絡してくれ」

「了解しました」

 三人が出て行った後。

私は呆然と田所を見つめていた。

(冴えない感じの人だと思ってたけど……)

田所は砂糖まみれのコーヒーを飲みながら、静かに言った。

「まぁ、ご主人もかなり頭は回る方なんでしょう。でも」

そこで初めて、田所が少しだけ笑った。

「人間、安心すると必ず油断しますから」

(この人、凄い……)

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