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8/11

お兄様...

 肺が破裂しそうだ。

 血の味がする。

 何周走ったか、もう覚えていない。

 背後からは定期的にビシッ!という鞭の音が聞こえてくる。

 鬼だ。

 このメイドは正真正銘の悪魔だ。


「足音が大きいですわ、お嬢様!それでは百メートル先からでも敵に気づかれます!重心を落とし、地面を蹴るのではなく、滑るように移動するのです!」


 ペリウルスのスパルタ指導が飛ぶ。

 滑るように移動する。

 言うのは簡単だが、この疲弊した身体じゃ足が上がらないんだ。

 だが前世の戦士としての本能が、彼女の言葉を咀嚼し始めた。

 体力を温存しつつ、最速で移動する。

 それは俺がかつて戦場で極めようとしていた『縮地』の歩法に似ていた。

 ただ走るんじゃない。

 膝のクッションを使い、上下のブレを完全に無くす。

 かかとからではなく、足の外側から着地し音を殺す。

 ペリウルスの助言と、俺の前世の技術が脳内でバチリとリンクした。


 スッ。


 突然俺の足音が消えた。

 ザッザッと鳴っていた芝生を踏む音が、完全に無音になったのだ。

 自分でも驚いた。

 身体が羽のように軽い。

 風の抵抗すら感じない。

 俺は無意識のうちに暗殺者特有の無音の歩法を実践していた。

 まるで影そのものになったような、そんな感覚だ。

 これなら疲労も最小限で済む。

 俺が気分良く裏庭を滑空していると、背後から奇声が上がった。


「おおおおおお!!」


 ビクッとして立ち止まると、ペリウルスが鞭を放り出して天を仰いでいた。


「見ましたか!今の無音の移動!あの完璧な重心移動!天賦の才!いや、もはや神の領域ですわ!」


 彼女は顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、俺に駆け寄ってきた。


「アリスお嬢様はやはり暗殺の天才!このペリウルスの教えをわずか数十分で体得するとは!明日からは毒の調合と首の刎ね方を教えますわ!」


 物騒すぎる。

 侯爵家の令嬢に教えるカリキュラムじゃない。

 俺は息を整えながらも、自分の身体に刻まれた新たな感覚に少しだけ満足していた。

 これならいけるかもしれない。

 魔法が使えなくてもこの技術を極めれば自分の身くらいは守れるはずだ。

 そんな俺が無音の歩法を掴んでペリウルスと歓喜に沸いていた時。


「ちょっと待ちなさいよ」


 氷のように冷たい声が裏庭に響いた。

 声の主は当然アルシェリナだ。

 彼女は腕を組んでツカツカとこちらへ歩いてくる。

 その顔は明らかに不機嫌だった。

 魔法の特訓ではあんなに楽しそうに俺をいじめていたのに、今は口をへの字に曲げている。


「お嬢様は暗殺術の天才ですわ!」


 ペリウルスが空気を読まずに、自慢げに胸を張る。

 それがアルシェリナの逆鱗に触れたらしい。


「はあ?ただ足音を消して歩けただけで天才?馬鹿じゃないの」


 彼女は鼻で笑うと、俺をキツく睨みつけた。


「だいたいあんたは私の弟子でしょ。魔法がちょっと駄目だったからって、すぐに野蛮な体術に逃げるなんて根性なしもいいところね」


 どうやら先生の座をペリウルスに奪われたのが悔しいらしい。


「逃げたわけじゃない。俺には魔法の才能が絶望的になかっただけだ」


 俺が反論すると、アルシェリナは顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。


「うるさい!私の教え方が悪いみたいに言わないでよ!あんたの物覚えが悪いのがいけないんでしょ!」


 いや、そんなこと言ってない。完全な八つ当たりだ。

 天才特有の理不尽な論理展開に、俺は返す言葉を失った。


「アルシェリナ様。才能のなさを認めるのもまた、強さへの第一歩ですわ。お嬢様は物理の道で花開く運命なのです」


 ペリウルスが諭すように言うと、アルシェリナの周囲で魔力がバチバチと弾け始めた。


「……私の教え子を横取りしておいて、随分と偉そうね」


 アルシェリナの目が本気の殺意を帯びる。

 ペリウルスもスッと目を細めて臨戦態勢に入った。

 おい嘘だろ。

 またこの屋敷で怪獣大決戦が始まるのか。

 俺は慌てて二人の間に割って入ろうとしたが、その前にアルシェリナが俺の腕を強く引っ張った。


「あんたは私が教えるの!魔法が駄目なら、魔法防御の基礎を叩き込んでやるわ!」


 彼女は俺を引きずって再び魔法特訓の場所へ向かおうとする。


「お嬢様の手を離してください!今は歩法の反復練習の時間です!」


 ペリウルスが俺のもう片方の腕を掴んだ。

 両腕を左右から引っ張られる。


「痛い!痛いって!身体が千切れる!」


 俺の悲鳴も虚しく、最強の妹と狂信的なメイドによる綱引きが始まってしまった。

 右腕を最強の妹に引っ張られる。

 左腕を最強のメイドに引っ張られる。

 俺の身体は今にも千切れそうだった。


「離しなさいよ!アリスは私の教え子よ!」

「アルシェリナ様こそお離しください!やはりお嬢様には物理の才能があるのです!」


 二人の間に挟まれた俺は、完全にゴム扱いだ。

 関節がメキメキと嫌な音を立てている。

 このままじゃ魔法を覚える前に、物理的に八つ裂きにされて死ぬ。

 俺が白目を剥きかけたその時だった。


「やめたまえ、君たち!!」


 芝生を蹴立てて、一人の男が駆けつけてきた。

 眩しいほどのイケメンスマイルを浮かべた家長。

 アルフレッドだ。

 彼は俺の窮地を見かねてついに立ち上がったらしい。


「僕の愛らしい天使を両側から引っ張るなんて、野蛮だ!アリスが痛がっているじゃないか!」


 彼はビシッと二人を指差して声を張り上げた。

 お兄様。

 この時ばかりは彼が本物の英雄に見えた。

 これで助かる。

 そう思った俺が甘かった。


「あ?」

「は?」


 アルシェリナとペリウルスの動きがピタリと止まった。

 二人の冷え切った視線がアルフレッドに向けられる。

 空気が凍りついた。


「ちょっと兄貴。私が教育的指導をしてる最中なんだけど。邪魔しないでくれる?」

「伯爵様。これはアリスお嬢様の将来を見据えた神聖な儀式です。口出しは無用に願います」


 二人の瞳に宿っていたのは明確な殺意だった。

 喧嘩の最中に水を差された猛獣のそれだ。


「い、いや。でもアリスが苦しそうで……」


 アルフレッドがたじろぎ一歩後ずさる。

 だが遅かった。


「邪魔」

「消えろ」


 二人の声が見事にハモった。

 次の瞬間、アルシェリナの掌から巨大な爆風魔法が放たれた。

 同時にペリウルスが目にも留まらぬ速さで暗器のような回し蹴りを放った。

 魔法と物理の完璧な同時攻撃。


 ドゴォォォォォン!!


 裏庭に本日二度目となる爆音が響き渡った。


「アリスぅぅぅぅぅ!!」


 アルフレッドは断末魔と共に文字通り空の彼方へ吹き飛んでいった。

 彼は綺麗な放物線を描き屋敷の屋根を越えて見えなくなった。

 ポイッ。

 俺の両腕が解放され芝生の上にドサリと落ちる。

 助かった。

 だがその代償はあまりにも大きかった。

 俺は遥か遠くの空を見上げながら犠牲となった兄の冥福を祈った。

 この屋敷のヒエラルキーは今日も完全に狂っている。


 ガシャァァァァン!!


 屋敷の方から凄まじい破壊音が響き渡った。

 見上げると立派な洋館の屋根にぽっかりと大穴が空いている。

 その穴から瓦礫と一緒に何かが降ってきた。

 先ほど空の彼方へ消えていった当主のアルフレッドである。

 彼は白目を剥いたまま、芝生の上に激突した。

 ドスンという鈍い音がしてピクピクと痙攣している。

 完全に気絶していた。

 だが誰も彼に駆け寄ろうとはしなかった。


「さて、邪魔な虫も落ちたことだし」


 アルシェリナが冷酷な声で言った。


「ええ、教育の続きを始めましょうか」


 ペリウルスも同意して俺の腕を再び掴み直す。

 この女たちには血も涙もないのか。

 いや他人の心配をしている余裕は俺にはない。

 このままでは俺の身体が物理的に真っ二つに引き裂かれてしまう。


「ま、待て!争う必要はない!」


 俺は必死に声を張り上げた。


「俺はどっちもやる!二人の教えを両方とも取り入れる!」


 俺の言葉に二人はピタリと動きを止めた。


「両方?どういうことよ。あんた魔法の才能、絶望的じゃない」


 アルシェリナが訝しげに眉をひそめる。


「攻撃魔法は無理でも、防御魔法ならなんとかなるかもしれないだろ」


 俺は頭の中で必死に組み立てた理論を口にした。


「アルシェリナから『魔法防御』の基礎を徹底的に教わる。そしてそれを身体に纏った状態でペリウルスの『暗殺歩法』を使うんだ。魔法で守りを固めながら超高速で接近する、新しい戦闘スタイルだ!」


 これならどうだ。

 魔法と物理の完全なる折衷案である。

 二人の顔を交互に見ると、アルシェリナは腕を組んで考え込んだ。


「……なるほどね。魔力の膜を張って、空気抵抗や足音をさらに殺すこともできるかもしれないわ」


 ペリウルスも目を輝かせた。


「鉄壁の防御を持った暗殺者!被弾のリスクを恐れず、最短距離で敵の死角に飛び込めるということですね!それはまさに最強の暗殺術!」


 どうやら納得してくれたらしい。

 俺の腕を掴んでいた二人の手がパッと離された。

 助かった。


「じゃあさっそくやってみるわよ。私が魔力の膜を張ってあげるから、その状態で動いてみなさい」


 アルシェリナが杖を振るうと俺の身体を薄い光の膜が包み込んだ。

 温かくて羽衣のように軽い。


「よし、いくぞ」


 俺はペリウルスから教わった重心移動を思い出し芝生を蹴った。


 スッ。


 自分でも驚くほどのスピードが出た。

 アルシェリナの張った魔力の膜が、風の抵抗を完全に受け流しているのだ。

 足音はおろか、服が擦れる音すら全くしない。

 まさに無音の弾丸だった。

 これならいける。

 前世の剣の技術と、今生で得た暗殺の歩法。

 そして最強の妹による魔法防御。

 すべてがカチリと噛み合った瞬間だった。

 俺は気絶して放置されているアルフレッドの横を無音で通り抜けながら、この新しい力に確かな手応えを感じていた。


「よし。それじゃあ実践だ」


 俺はアルシェリナに向き直って宣言した。


「本気の鬼ごっこをやろう。俺が一度でもお前の背後を取れたら俺の勝ちだ」


 アルシェリナは目を丸くしたあと、腹を抱えて笑い出した。


「あはははは!あんたが私に?いくら新しい歩法を覚えたからって、調子に乗りすぎよ」

「やってみなきゃ分からないだろ」

「いいわ。その生意気な鼻っ柱をへし折ってあげる」


 アルシェリナが杖を構える。

 周囲の大気がビリビリと震え始めた。

 先ほどの特訓とは比べ物にならない密度の魔力が渦巻く。


「開始!」

 ペリウルスの合図とともに、無数の光弾が空を埋め尽くした。

 容赦のない魔法の雨だ。

 俺は低く身を沈め、芝生を蹴った。


 スッ。


 アルシェリナが張ってくれた魔力の膜が風の抵抗を無効化する。

 無音。

 そして最速。

 視界の端で光弾が弾けるが、俺の身体には届かない。

 魔法の軌道を予測し、最小限の動きで死角へ滑り込む。


「そこよ!」


 アルシェリナが杖を振り下ろす。

 俺の足元から巨大な氷の柱が突き出してきた。

 だが遅い。

 俺はすでにその場にはいない。

 氷柱を足場にしてさらに跳躍する。


「なっ!?」


 アルシェリナの驚愕の声が聞こえた。

 俺は空中で身体を捻り、彼女の背後へと無音で着地した。

 そのまま彼女の背中にそっと手を伸ばす。


「捕まえた。俺の勝ちだ」


 勝利を確信した瞬間だった。

 俺の手が触れたアルシェリナの身体がガラスのように砕け散った。

 パリンッ。


「え?」


 魔力の残滓だけがキラキラと宙を舞う。

 分身魔法だ。

 きっとこれは、本物そっくりに作られた虚像だったのだ。


「ふふっ。甘いわね」


 頭上から声が降ってきた。

 見上げると、本物のアルシェリナが優雅に宙に浮いている。

 彼女は杖の先を俺の眉間に突きつけていた。


「魔法使いが素直に本体を晒しているとでも思った?まだまだひよっこね」


 完全に読まれていた。

 前世の戦闘経験が、魔法という未知の力の前で空回りしたのだ。

 俺は悔しさに唇を噛み締めた。


「私の勝ち。文句ないわよね?」


 アルシェリナはふわりと芝生に降り立つと、勝ち誇ったように胸を張った。


「ああ。俺の負けだ」


 潔く負けを認めると、彼女はニヤリと笑った。


「よろしい。じゃあ約束通り、私を敬いなさい」

「約束なんてしてないぞ」

「今作ったのよ。さあ私のことを『先生』と呼びなさい」


 彼女は俺を見下ろして尊大に言い放った。

 完全に主導権を握られている。

 屈辱だが、実力で負けた以上は従うしかない。


「……分かりました。アルシェリナ先生」


 俺が渋々そう口にすると、彼女は満面の笑みを浮かべた。

 その横でペリウルスが「くっ……お嬢様の初めての先生の座を奪われるなんて……」とハンカチを噛み締めて悔しがっていた。


 俺が渋々そう先生と口にした直後だった。

 背後の芝生から「うむむ」というくぐもった呻き声が聞こえた。

 すっかり存在を忘れていたが、空から降ってきた当主様だ。

 アルフレッドが頭をさすりながら、のろのろと起き上がってきた。


「あいたた……僕は一体、どうしてあんな空高く飛んで……」


 寝ぼけ眼で周囲を見回すアルフレッド。

 彼の視線が俺とアルシェリナでピタリと止まった。


「アリス?今アルシェリナのことをなんて呼んだんだい?」


 地獄耳かよ。

 気絶から覚めたばかりなのに、そこだけは聞き逃さなかったらしい。


「先生、だけど……」


 俺が事実をそのまま伝えるとアルフレッドの顔色が変わった。

 蒼白になり、ワナワナと震えだす。


「せ……先生……?僕の可愛い天使が、アルシェリナなんぞを先生と……?」

「なんぞとは何よ、馬鹿兄貴」


 アルシェリナが不機嫌そうに杖を構え直す。

 だがアルフレッドはもう妹の脅しなど、気にも留めていなかった。

 彼は地面を這うような猛スピードで、俺の足元にすがりついてきた。


「ずるい!僕だってアリスに先生と呼ばれたい!教えを乞われたい!」


 イケメン伯爵が芝生に顔を擦りつけて駄々をこねている。

 威厳の欠片もない。


「は、離れて。はしたないし、その、気持ち悪い」


 俺が足を引こうとするが、彼は恐ろしい腕力でしがみついて離さない。


「そうだ!僕がアリスに貴族の礼儀作法を教えよう!だから僕のことは『お兄ちゃん先生』と呼んでくれ!」


 お兄ちゃん先生。

 なんという破壊力のある響きだろう。

 鳥肌が立った。


「絶対に嫌だ」


 俺が即答すると、アルフレッドは「なぜだ!」と絶望の叫びを上げた。


「僕ほどアリスを愛している人間はこの世にいないのに!なぜアルシェリナが先生で僕がお兄ちゃん先生じゃないんだ!」


 論理が完全に破綻している。


「やかましいわね。あんたは引っ込んでなさいよ」


 アルシェリナが容赦なく杖で兄の頭を小突く。

 だが暴走状態のシスコン兄貴は止まらない。


「アリス!さあ呼んでごらん!お・に・い・ちゃ・ん・せ・ん・せ・い!と!」


 彼は目を血走らせて俺に顔を近づけてきた。

 狂気だ。

 この屋敷で一番危険なのは暗殺者でも魔鳥でもなく、この男かもしれない。

 俺が助けを求めてペリウルスを見ると、彼女は無言で分厚い辞書のようなものをどこからか取り出していた。

 そして一切の躊躇なくアルフレッドの後頭部にそれをフルスイングした。

 ゴガッ。

 鈍い音が響き渡る。


「あべっ」


 アルフレッドは短い悲鳴を上げて再び芝生の上に突っ伏した。

 白目を剥いて完全に沈黙する。


「お嬢様。ゴミが騒がしくて申し訳ございません」


 ペリウルスは辞書をエプロンにしまいながら優雅にお辞儀をした。

 最強のメイドの物理攻撃には流石の当主様も敵わないらしい。

 俺は再び平和(?)を取り戻した裏庭で深くため息をつくしかなかった。



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