疎外感
馬車がマルボロ公爵邸の正門を抜ける。
窓の外には見渡す限りの、見事な庭園が広がっていた。
色とりどりの薔薇が咲き乱れ、噴水が日差しを反射して輝いている。
だが、俺の目にはそれがよく偽装された狩場にしか見えなかった。
あの茂みの裏には伏兵が潜めそうだし、噴水は射線を遮る障害物になる。
そんな戦術的な分析をしているうちに、馬車が停車した。
ペリウルスが滑らかな動作で扉を開ける。
俺はアルシェリナに手を取られながら、優雅に馬車を降りた。
案内されたのは白亜のテラスに設けられた広大な会場だ。
すでに王都の有力貴族の令嬢たちが色鮮やかなドレスに身を包んで談笑している。
俺たちが足を踏み入れた瞬間だった。
ざわめきが波のように引いていき、一斉に視線が突き刺さった。
値踏みするような冷たい眼差しだ。
「あの方が……侯爵家が引き取られたという孤児院出身の……」
「まあ。お顔立ちは綺麗ですけれど、所詮は平民の血よ」
「アルシェリナ様がなぜあのような泥人形をエスコートされているのかしら」
扇子の陰からクスクスという嫌味な笑い声とヒソヒソ話が聞こえてくる。
これが貴族社会の洗礼というやつか。
アルシェリナの機嫌が目に見えて悪くなり、握る手に魔力が集まりかける。
だが、俺は彼女をそっと手で制した。
こんな小鳥の囀りにいちいち腹を立てていたら、戦場では生き残れない。
俺はただ真っ直ぐに彼女たちを見据えて歩き出した。
無音。
ペリウルスと特訓した暗殺の歩法が無意識に発動していた。
足音一つ立てず、重力すら感じさせない滑らかな移動。
そして前世で幾千の敵を斬り伏せてきた戦士としての覇気。
それらが混ざり合い、俺の周囲の温度が数度下がったような錯覚を生み出す。
ピタリ。
令嬢たちの笑い声が凍りついたように止んだ。
俺と目が合った者から次々と顔面を蒼白にして後ずさっていく。
本能的な恐怖を感じ取ったのだろう。
扇子を取り落とし震える手で口元を押さえる者までいた。
誰も何も言えなくなったテラスを俺たちは静かに通り抜ける。
「ご機嫌よう。可愛らしいお嬢さんたち」
不意に重厚で甘ったるい声が上座から響いた。
ふくよかで威厳のある中年の女性。
彼女こそがこの邸宅の主であるマルボロ公爵夫人だった。
豪奢な椅子に深く腰掛け、扇子で口元を隠している。
だがその瞳は笑っていなかった。
蛇が獲物を狙うような冷徹な光を宿して、俺を頭からつま先まで観察している。
「初めまして。あなたがアリスさんね」
「はい。お招きいただき光栄です」
俺は教わった通りの完璧なカーテシーで応じた。
「孤児院から侯爵家に入られたと聞いて、もっと怯えた小動物のような子を想像していたのだけど……随分と肝が据わっているのね」
夫人の言葉には明確な棘があった。
ただの社交辞令ではない。
俺の底を探ろうとする明らかな敵意だ。
「侯爵家で素晴らしい教育を受けておりますので」
俺が平然と返すと夫人の目がさらに細められた。
「そう。素晴らしい教育ね。……でも、王都は華やかなだけではないのよ。不用意に歩き回れば、毒花に触れて怪我をするかもしれないわ」
毒花。
その単語に俺の脳裏で警鐘が鳴った。
夢で見た青い服の女と、毒の入った冷たい水。
この公爵夫人が直接の下手人だとは思わない。
だが彼女は確実に『何か』を知っていて俺を試している。
「ご忠告痛み入ります。ですが、私には優秀な姉とメイドがおりますので」
俺は夫人の目を真っ直ぐに見返して不敵に微笑んだ。
「どんな毒花だろうと、根こそぎ踏み潰してみせますよ」
夫人の扇子がピクリと動いた。
静かなテラスに火花が散るような緊張感が走る。
アルシェリナが俺の隣で臨戦態勢に入り、ペリウルスがいつでも動けるように重心を落とした。
見えざる敵との政治的な探り合いがいよいよ本格的に幕を開けようとしている。
公爵夫人の扇子の奥で細められた目が微かに動いた。
彼女が指をパチンと鳴らす。
控えていたメイドが静かに進み出てきた。
銀色のトレイに乗せられているのは、湯気を立てる三つのティーカップだ。
おそらく最高級の茶葉の香りがテラスに漂う。
メイドは俺たちの前にそれぞれカップを置いていく。
俺の前に置かれたカップの中の赤い液体を見つめる。
毒の有無など見た目では分からない。
だが前世の直感がこの紅茶に触れるなと告げていた。
「さあ冷めないうちにどうぞ。当家自慢の茶葉ですわ」
夫人が口元を歪めて勧めてくる。
俺がどう出ようかと思考を巡らせたその瞬間だった。
バキッ。
硬質な音が鳴り響いた。
俺の目の前にあるティーカップから白い冷気が立ち昇っている。
中に入っていた熱い紅茶が一瞬にして完全に凍りついていたのだ。
カップの表面には霜が張り付き、ソーサーごとテーブルに固定されている。
「……何の真似かしら、アルシェリナ様?」
夫人の声から余裕が消え、低い怒気が混じる。
アルシェリナは杖を持った手を真っ直ぐに夫人へと向けていた。
彼女の周囲で尋常ではない密度の魔力が渦を巻いている。
空気が物理的な重さを持って、テラス全体を押し潰そうとしていた。
周囲の令嬢たちが息を詰まらせて顔を青ざめさせる。
「うちのアリスを試すような真似はやめなさい」
アルシェリナの冷徹な声が響き渡った。
「あんたがどんな腹積もりでアリスを呼んだのかは知らない。でも、これ以上薄汚い真似をするなら、この屋敷ごと氷の彫刻にしてあげるわ」
それは単なる脅しではない。
最強の魔法使いである彼女なら、容易く実行できるという事実が空間を支配していた。
夫人の顔から完全に表情が抜け落ちる。
彼女もまた、目の前の少女が持つ異常な力量を肌で感じ取ったのだろう。
「……ご忠告感謝いたしますわ。どうやら少し悪ふざけが過ぎたようね」
夫人は震える手で扇子を閉じ、不敵な笑みを繕おうと必死だった。
俺は氷漬けになった紅茶を見下ろしながら、隣に立つ姉の横顔を見た。
華奢な背中が今は誰よりも大きく頼もしく見える。
だがこれで敵が大人しく引き下がるとは思えない。
アルシェリナの放った殺気と絶対零度の魔力。
それに当てられた公爵夫人は小さく息を呑んだ。
扇子を持つ手が微かに震えている。
しかしそこは海千山千の王都の貴族だ。
彼女はすぐに表情を取り繕い柔和な笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね。少し試すような真似をしてしまったわ。王都には悪い虫も多いから侯爵家のご令嬢にふさわしいか見極めたかったのよ」
見え透いた言い訳だ。
だがこれ以上の敵対行動は不利だと悟ったのだろう。
彼女はいったん矛を収める姿勢を見せた。
アルシェリナは不満げに鼻を鳴らしたが、杖を下ろす。
「それでアリスさん」
夫人は声のトーンを落とし、親しげな態度で問いかけてきた。
「あなたは侯爵家に引き取られる前は、王都の外れの孤児院にいたのよね?」
出生についての探りだ。
「はい。その通りです」
俺は満面の笑みを浮かべて首を縦に振った。
「ご両親のことは覚えているのかしら?何か特別な血筋だったとか」
夫人の目が微かに光る。
俺の中の過去の記憶。
青い服の女や冷たい水そして恐ろしい魔法陣の夢。
この夫人はあの『実験』について何かを知っていて俺の記憶の有無を確認しているのかもしれない。
「いえ。物心ついた時から孤児院におりましたので」
俺はニコニコと笑いながら答えた。
「両親の顔も名前も全く覚えていないんです。ただ毎日神様にお祈りをして過ごす静かな日々でした」
完璧な令嬢のスマイルだ。
前世で各国の王侯貴族と渡り合ってきた経験がここで生きている。
どんなに腹の中が煮えくり返っていても、表面上は愛想よく振る舞う。
それが戦場以外での戦い方だ。
「そう……何も覚えていないのね」
夫人は少しだけ安堵したような、あるいは落胆したような複雑な表情を見せた。
「でも侯爵家に引き取られて本当に良かったです。お兄様も、アルシェリナ先生も、とても優しくしてくださいますから」
俺は無邪気な子供を演じきりアルシェリナの方を見た。
「先生って……あんたね」
アルシェリナが少しだけ照れたように顔を背ける。
「まあ。素晴らしい姉姉愛ですこと」
夫人は扇子で再び口元を隠し、探るような視線を俺に向け続けた。
彼女の毒牙をのらりくらりと躱しながら俺は反撃の機会を虎視眈々と狙っていた。
しかし公爵夫人のねっとりとした視線から逃れるように、俺は席を立った。
「少し風に当たってきます」
アルシェリナとペリウルスに目配せをして、テラスの端にあるバルコニーへ向かう。
二人は無言で頷き、俺の背中を死角からカバーする位置に移動した。
バルコニーに出ると生温い王都の風が頬を撫でた。
肺に溜まった息苦しい空気を吐き出す。
「……疲れるな」
思わず独り言が漏れた。
前世の戦場とは違う意味で神経をすり減らす空間だ。
「本当にそうね。吐き気がするわ」
不意に背後から声がした。
驚いて振り返るとバルコニーの死角になっていた柱の陰に一人の少女が立っていた。
年は俺と同じか少し上くらいだろうか。
他の令嬢たちのような派手なドレスではなく、喪服のように黒いドレスを着ている。
黒髪に黒い瞳。
その瞳には社交界の令嬢らしからぬ鋭い知性と冷たい光が宿っていた。
「あなたは?」
俺が警戒心を隠さずに問うと、少女はふっと自嘲気味に笑った。
「名乗るほどの者じゃないわ。ただの傍観者よ」
彼女はバルコニーの手すりに寄りかかり、会場で談笑する貴族たちを冷ややかな目で見下ろした。
「あなた侯爵家に引き取られたアリスよね。孤児院から来たっていう」
「ええ。そうですが」
「忠告しておくわ。あそこはただの優しい家族じゃない」
少女の声が一段と低くなった。
俺の心臓がドクンと跳ねる。
「侯爵家がなぜ孤児であるあなたを引き取ったのか。ただの慈善事業だと思っているなら大間違いよ」
彼女は俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「あの孤児院はね。裏で貴族たちの『実験場』になっていたの。そして侯爵家もその事実を……」
そこまで言いかけた時だった。
「アリス。こんなところにいたの」
背後からアルシェリナの声がした。
俺が振り返ると、アルシェリナが怪訝な顔でこちらへ歩いてくる。
再び視線を戻すと、黒いドレスの少女はすでに手すりの上へ飛び乗っていた。
「気をつけて。あなたの身体に刻まれた魔法陣はまだ生きているわ」
少女はそれだけを言い残し、音もなくバルコニーから下の庭園へと飛び降りた。
「おい!」
俺が慌てて身を乗り出すが、彼女の姿はどこにもなかった。
まるで最初から幻だったかのように黒い影は王都の光の中に溶けて消えていた。
「どうしたの?誰かいたの?」
アルシェリナが隣に立ち不思議そうに庭園を見下ろす。
「……いや。気のせいだったみたいだ」
俺はそう誤魔化しながら、少女の言葉を頭の中で反芻していた。
侯爵家が実験の事実を知っている。
そして俺の身体に刻まれた魔法陣はまだ生きている。
バルコニーからテラスの会場に戻ると、公爵夫人の姿はすでに消えていた。
あの重苦しい威圧感がなくなったせいだろう。
会場の空気が目に見えて弛緩していた。
そして公爵夫人という重しが外れたことで、令嬢たちの関心は一人の人物へと集中した。
アルシェリナだ。
「アルシェリナ様。本日のドレスも大変お似合いですわ」
「よろしければ今度我が家のサロンへもお越しくださいませ」
「うちの兄が、ぜひアルシェリナ様に一度お目にかかりたいと申しておりまして」
色とりどりのドレスに身を包んだ令嬢たちが次々とアルシェリナを取り囲む。
あっという間に華やかな人の輪ができあがっていた。
俺はその輪から少し離れた壁際に立ち、ペリウルスと共にその光景を眺めていた。
「大人気だな」
俺が呟くとペリウルスが静かに頷く。
「アルシェリナ様は侯爵家の直系にして、王都でも屈指の魔法使いですから」
確かに言葉はキツいし、性格にも難がある。
だが圧倒的な美貌と地位そして揺るぎない強さを持っている。
貴族社会においてこれほど魅力的な存在はないだろう。
露骨な取り入りや縁談の類も山のように舞い込んでいるはずだ。
「俺みたいな泥人形の相手をしてる暇なんてないのかもな」
ふと先ほどの令嬢の言葉が脳裏をよぎり、自嘲気味な笑いが漏れた。
黒いドレスの少女が言っていた『実験』の言葉も胸に重くのしかかっている。
あの過保護な家族が俺に何かを隠しているのだとしたら。
俺とあの光の中にいる最強の姉との間には決して埋まらない溝があるのかもしれない。
「お嬢様?」
ペリウルスが不思議そうにこちらを覗き込む。
「なんでもない。ただ少し疲れただけだ」
俺は壁に寄りかかり、グラスの冷たい水を喉に流し込んだ。
遠くで令嬢たちに囲まれながらも、時折こちらを気にするように視線を送ってくるアルシェリナの姿がなぜか酷く遠い存在に感じられた。




