家族
遠くから華やかな喧騒を眺めていた時のことだ。令嬢たちの輪の中心から突然イライラしたような声が響いた。
「ああもう鬱陶しいわね!」
パチンッ。
空気が弾けるような鋭い音が鳴り、令嬢たちの輪がモーセの十戒のように真っ二つに割れた。魔力による威圧だ。青ざめて後ずさる貴族たちの中央から、アルシェリナがツカツカと大股で歩いてくる。
その顔は明らかに不機嫌だった。
迷うことなく、真っ直ぐに壁際の俺の元へと向かってくる。
「アリス!」
彼女は俺の目の前で立ち止まると、そのまま勢いよく俺の右手を取った。
「え?」
「勝手に離れないでって言ったでしょ!あんたは私の教え子なんだから!」
周囲の貴族たちが息を呑む音が聞こえた。
格式高い侯爵家の令嬢が身寄りのない孤児の手を、衆人環視の中でしっかりと握りしめているのだ。
「アルシェリナ様……あのような平民上がりの孤児など、放っておけばよろしいのに」
遠巻きに見ていた令嬢の一人が震える声で媚びるように言った。
次の瞬間、アルシェリナの冷ややかな視線がその令嬢を射抜いた。
「口を慎みなさい。この子は我が侯爵家が迎え入れた大切な家族よ」
会場の空気が一気に凍りつく。
「私や兄貴にとって、アリスはこの世の何よりも特別な存在なの。これ以上アリスを侮辱するなら我が侯爵家への宣戦布告と受け取るわよ」
静かだが明確な殺意を帯びた宣言だった。会場にいた全員が青ざめ、誰一人として言葉を発することができなくなった。
アルシェリナはそんな周囲の反応など気にも留めず、俺の方へ向き直る。
「ほら行くわよアリス。こんなつまらない場所で突っ立ってても、意味ないわ」
俺の手を引く彼女の掌は温かかった。
さっきまで胸に渦巻いていた黒いドレスの少女の言葉がスッと溶けて消えていく。
侯爵家が何を隠していようと、実験の過去がどうであろうと関係ない。今俺の手を強く握りしめて怒ってくれている、この不器用な姉の想いは本物だ。
「……ああ。そうだな」
俺は自然と笑みをこぼし、アルシェリナの隣に並んで歩き出した。背後ではペリウルスが「尊すぎますわ……!」と両手で顔を覆いながら悶えているのが見えた。
アルシェリナに手を引かれながら、俺はテラスの出口へと向かっていた。
周囲の貴族たちは道を開け、畏怖と羨望の入り混じった視線を送ってくる。
孤独な泥人形ではない。俺はこの侯爵家の大切な家族なのだ。
胸の奥に温かいものが広がり、歩みも自然と軽くなる。
感動的な空気が会場全体を包み込んでいたその時だった。
ガッシャァァァァン!!
背後で耳をつんざくようなガラスの破砕音が響き渡った。
「なっ!?」
「きゃあああ!!」
令嬢たちの悲鳴が上がる。
俺とアルシェリナが振り返ると、テラスに面した巨大な窓ガラスが粉々に砕け散っていた。
そこから一人の巨体が豪快に飛び込んできたのだ。
「私も混ぜてちょうだい!」
野太い声が華やかなお茶会の会場にこだまする。
俺は自分の目を疑った。
そこに着地したのは、豪華なフリルのついたドレスに身を包んだ大男だった。
その顔には不気味なほど濃いメイクが施されている。そして何より目を引くのは、ドレスの深いスリットから露わになった脚だ。
鍛え抜かれた筋骨隆々な太ももがこれでもかと主張している。
間違いない。
留守番を命じられていたはずの、当主アルフレッドだ。
「あ、兄貴……?あんた何やってるのよ」
アルシェリナが持っていた杖を取り落としそうになるほどドン引きしている。
「アリスとアルシェリナだけがお茶会なんてずるいじゃないか!僕もアルフレディーナとして社交界デビューよ!」
アルフレディーナ。
自分で名前まで考えていたのか。
彼は太い腕をクネクネと動かしながらウインクを飛ばしてきた。
地獄のような光景だ。
先ほどまでの感動的な空気は粉微塵に吹き飛んだ。
「……侯爵家の威厳を自ら地の底に落とす気か?」
俺は頭を抱えた。
周囲の貴族たちは恐怖のあまり、声も出せず抱き合って震えている。
「さあアリス!お姉様と一緒に踊りましょう!」
アルフレッドがドレスの裾を翻し、筋骨隆々の太ももを見せつけながら迫ってくる。
「来るな!近寄るな変態!」
俺が悲鳴を上げると、隣から冷酷な声が聞こえた。
「ペリウルス。殺していいわよ」
「承知いたしました」
アルシェリナの命令にメイドが即座に応じる。
ペリウルスは分厚い辞書ではなく、どこから取り出したのか巨大な斧を構えていた。
「えっ?ちょっと待って、二人とも目がマジ」
アルフレッドの言葉が終わる前に彼の顔面にクリーンヒットした。
ゴシャッ。
鈍い音と共に女装の当主は再び空高く打ち上げられ、青空の彼方へと消えていった。
「帰りましょうかアリス」
「……ああ。そうだな」
俺たちは完全に沈黙した会場を後にして、今度こそ真っ直ぐに馬車へと向かった。
騒ぎの中心となったテラスを抜け出し、いよいよ馬車に乗り込もうとした時。
「待ちなさい」
背後から静かな声が響いた。
振り返るとそこには先ほどバルコニーで会った黒いドレスの少女が立っていた。
漆黒の髪と深淵のような瞳。
周囲の華やかな貴族たちとは明らかに異質な空気を纏っている。
アルシェリナが忌々しそうに舌打ちをした。
「また鬱陶しいのが来たわね。サインなら今度にして頂戴」
適当な言葉であしらって馬車へ向かおうとする。
だが、少女はアルシェリナの言葉を完全に無視した。
彼女の視線は真っ直ぐに俺だけを捉えていた。
「アリス。先ほどの話の続きよ」
少女が一歩近づく。
その瞬間、アルシェリナの堪忍袋の緒が切れた。
「また今度、と言っているのよ」
アルシェリナの周囲の大気が凍りついた。
尋常ではない密度の魔力が膨れ上がり、重圧となって少女に襲い掛かる。
先ほどの公爵夫人すら青ざめさせた本気の威圧だ。
普通の令嬢なら息ができずにその場に崩れ落ちるだろう。
だが。
「……野蛮ですね」
少女は涼しい顔でそう言い放った。
アルシェリナの魔力の暴風をそよ風のように受け流している。
ドレスの裾一つ揺れていない。
一蹴されたのだ。
王都最強と名高い、侯爵家令嬢の圧力を全くの無傷で。
「なっ……あんた何者よ」
アルシェリナが驚愕に目を見開く。
ペリウルスもスッと前に出て、斧を構え直した。
「私はただの傍観者。でもあなたたちが知らない真実を知る者よ」
少女はアルシェリナの殺気を意に介さず、再び俺を見た。
「アリス。あなたの身体の魔法陣。それが起動する前に王都の地下へ来なさい」
それだけを言い残すと、少女は踵を返した。
誰も彼女を引き留めることができなかった。
ただ静かな足音だけを残して黒い影は門の向こうへと消えていった。
馬車に乗り込んだ後も、アルシェリナの機嫌は最悪だった。
彼女は腕を組んだまま窓の外を睨みつけている。
あの黒衣の少女に自分の魔圧を完全に無効化されたことがよほど悔しかったのだろう。
「……信じられないわ」
ポツリと漏らした声には、怒りよりも焦りが滲んでいた。
「私の魔力をそよ風みたいに扱うなんて。あんな奴が王都にいたなんて、聞いたこともない」
プライドをへし折られた姉は苛立ちに身を任せてシートを蹴った。
だが彼女の視線はすぐに俺へと向き直る。
「アリス。あんた、王都の地下へ行く気なんでしょ」
「ああ。俺の身体に刻まれてるらしい魔法陣について何か知っているみたいだから」
俺が答えると、アルシェリナは深くため息をついた。
「一人で行くなんて絶対に許さないからね。あの得体の知れない女の言うことよ。罠かもしれないでしょ」
彼女は俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「私も行くわ。あんたの身に何かあったら兄貴がうるさいし……私だって嫌だから」
最後の方は消え入るような声だったが、その決意は本物だ。
「ありがとう。心強いよ」
俺が微笑むと、彼女は照れ隠しのようにそっぽを向いた。
その時だった。
ヒヒーンという馬のいななきと共に、馬車が急ブレーキをかけた。
激しい揺れに車体が軋む。
「お嬢様。おつかまりください」
御者台にいたペリウルスの鋭い声が響いた。
ただの事故ではない。
何者かが進路を塞いでいるのだ。
俺は窓から身を乗り出して前方の道を確認した。
石畳の道のど真ん中に一人の人物が立っている。
青いインナーに黒いジャケット。
顔の半分を覆うような深いフードを被った女だ。
夢の中で見た毒殺の記憶。
そして俺の命を狙ったあの夜の暗殺者。
「遅いな」
女の口から低く冷たい声が漏れた。
感情の起伏が全く感じられない、機械のような声だ。
「お茶会ごときで、随分と時間を食ったものだ」
青い服の女がゆっくりと腕を上げる。
その手には刃渡りの長い暗殺用の双剣が握られていた。
「アリス。伏せて!」
アルシェリナが叫ぶと同時に、女の姿が掻き消えた。
ドゴォォォォン!!
次の瞬間には馬車の屋根が紙屑のように吹き飛ばされていた。
凄まじい衝撃に俺たちの身体が宙に浮く。
女の双剣が一撃で馬車の装甲を斬り裂いたのだ。
「ちぃっ!」
俺は空中で姿勢を立て直し、ペリウルスから教わった歩法で地面へ着地した。
アルシェリナも魔法で落下を制御し、無傷で降り立つ。
「おのれ!よくも侯爵家の馬車を!」
ペリウルスが怒りの形相で斧を振り回し、女へと突進していく。
「死ね」
青い服の女は寡黙な言葉と共に双剣を交差させた。
夕闇の迫る王都の路上で激しい死闘の火蓋が切って落とされたのだ。
「侯爵家に仇なす輩は万死に値しますわ!!」
ペリウルスの怒声が夕闇の路上に轟いた。
巨大な斧が空気を引き裂きながら、青い服の女へと迫る。
直撃すれば岩すらも粉砕する一撃だ。
だが女は全く表情を変えなかった。
「遅い」
短い呟きと共に女の身体がブレた。
双剣が斧の軌道を正確に弾き返す。
ガガッ。
火花が散り、斧が虚しく宙を舞った。
女はその隙を見逃さず、低く沈み込み、ペリウルスの懐へと潜り込む。
銀閃がメイドのエプロンを掠めた。
「ちぃっ!」
ペリウルスが即座に後退し、再び鉄球を振り回す。
重量級の武器を羽のように操る最強のメイド。
しかし、青い服の女の双剣はその猛攻を全て捌き切っていた。
寡黙な暗殺者は機械のように正確な動きでペリウルスを追い詰めていく。
「アリス。出番よ」
隣でアルシェリナが杖を構えて言った。
「ああ。頼む」
アルシェリナの杖の先から青白い光が放たれた。
それは俺の身体を包み込む薄い魔力の膜となる。
完璧な防御魔法による風の抵抗の無効化。
「いくぞ」
俺は重心を落とし、地面を蹴った。
スッ。
足音も服の擦れる音も一切しない。
完全な無音の弾丸となって戦場を駆ける。
ペリウルスと女の激しい金属音が俺の接近を完全に隠していた。
「シッ!」
ペリウルスが渾身の力で鉄球を振り下ろす。
青い服の女が双剣を交差させてそれを受け止める。
凄まじい衝撃に女の足が石畳にめり込んだ。
「今だ」
ペリウルスが目線で合図を送ってくる。
俺は女の死角となる背後へと滑り込んだ。
前世の剣術の踏み込みと、今生の暗殺歩法が完璧に融合した瞬間だ。
魔力の膜が俺の存在を極限まで薄くしている。
女はペリウルスの怪力を抑え込むのに必死で、俺の接近に全く気づいていない。
俺は女の背中にピタリと張り付き、その首筋に冷たい手刀を突きつけた。
「チェックメイトだ」
俺が低く囁くと、女の肩がビクッと跳ねた。
機械のように冷徹だった女の瞳に初めて驚愕の色が浮かぶ。
「いつの間に……」
女が双剣を引こうとするが、ペリウルスの斧がそれを許さない。
完全に背後を取った。
最強のメイドとの連携プレイが見事に決まったのだ。
俺は手刀に力を込めながら、この寡黙な暗殺者からすべての情報を引き出す決意を固めた。
ゴオォォォォォ!!
女の身体から爆発的な魔力が噴出した。
「なっ!?」
あまりの圧力に、俺は首筋から手を離し後方へ大きく跳躍した。
ペリウルスも斧を弾き返され、地面を滑るように後退する。
凄まじい風圧と、濃密な魔力の渦が路上の空気を震わせる。
女は静かに双剣を下ろすと目を閉じ、短く鋭い詠唱を紡ぎ始めた。
「……深淵の理、万象の限界を破れ」
女の足元から眩い光の紋様が広がり、巨大なドーム状の結界となって周囲一帯を包み込んだ。
「これは……」
アルシェリナが信じられないものを見るように、その目を見開いた。
彼女の顔に浮かんでいるのは明確な驚愕と、そしてギリリと唇を噛み締めるほどの悔しさだった。
王都最強と謳われる姉の自尊心を打ち砕くほどに、その魔法陣の構成と魔力密度は次元が違っていたのだ。
だが、俺の感想は全く別のものだった。
「……すげえ。なんだこれ」
俺は自分の両手を見つめながら、歓喜の声を上げた。
身体が羽のように軽い。
全身の筋肉に無限の活力がみなぎり、感覚が研ぎ澄まされていく。
軽くその場で跳躍してみると、容易く屋根の高さまで届きそうになった。
前世の全盛期ですら味わったことのない万能感だ。
「お嬢様。お気をつけください」
ペリウルスが警戒を解かずに言ったが、その声にも動揺が混じっていた。
「なぜ?一体なぜ強化結界を私たちまでに?」
彼女の言う通りだ。
女が展開した結界はどう見ても、内部の対象の身体能力を底上げする大規模な強化魔法だった。
しかしその恩恵は敵である俺たちにも平等に降り注いでいるのだ。
女はゆっくりと目を開き、無表情のまま俺たちを見据えた。
「……弱すぎる」
冷酷な声が結界内に響き渡る。
「その程度の力で王都の地下へ来るなど自殺行為だ。少しは本気を見せろ」
どうやらこの暗殺者は俺たちを殺すためではなく、あえて戦力を引き上げるためにこの結界を張ったらしい。
寡黙な女の真意は読めない。
だが、俺の脳筋戦士としての血はかつてないほどに沸き立っていた。
「いいぜ。望み通りフルパワーでぶっ潰してやる」
俺は限界まで高まった身体能力を確かめるように低く身を沈める。
俺は地を蹴った。
石畳が爆発するように砕け散る。
強化された筋肉が悲鳴を上げる暇もなく、女の懐へ潜り込んだ。
拳を握りしめ、渾身の右ストレートを放つ。
女が双剣を盾にして防ぐが、その身体は数メートル後方へ吹き飛んだ。
「追撃だペリウルス!」
「承知いたしました!」
ペリウルスの巨大な斧が空気を引き裂き女へ迫る。
俺たちは息の合った連携で肉弾戦を挑み、女を徐々に押し込み始めていた。
だが、俺は戦いの中で違和感を覚えた。
後方からの魔法支援が一切ないのだ。
視線を向けると、アルシェリナは杖を両手で強く握りしめたまま立ち尽くしていた。
杖を持つ手が小刻みに震えている。
彼女の周囲で渦巻く魔力は先ほどまでの数倍に膨れ上がり、大気を歪ませていた。
「どうしたアルシェリナ!」
俺の呼びかけに姉はギリリと唇を噛み締めた。
「強化されたせいで、私が魔法を放てばここにいる全員が道連れになっちゃう!」
アルシェリナの声には屈辱と無力感が混じっていた。
「強化は必ずしもいいことをもたらすとは限らないなんて、こんなのはじめてよ」
彼女の言う通りだ。
高すぎる魔力はこの狭い結界内では全員を消し飛ばす自爆スイッチに等しい。
青い服の女は俺たちを強化したのではない。
王都最強の魔法使いであるアルシェリナの魔法を完全に封じるために、この結界を展開したのだ。
「厄介な罠だな……」
俺は再び女へと向き直り、拳を強く握り直した。
アルシェリナが魔法を封じられたことで戦況は急変した。
青い服の女は最大の脅威であるアルシェリナを標的に定めた。
無音の歩法で迫った女の双剣が銀色の軌跡を描く。
「舐めないで!」
アルシェリナは叫び、愛用の杖を剣のように構えた。
ガギンッ。
硬質な音が響き、女の一撃をなんとか受け止める。
だが、彼女の素顔は王都最強の魔法使いだ。
剣の技量などあるはずがない。
強化結界のおかげで身体能力こそ上がっているが、動きは素人そのものだった。
「くそっ、重い!」
アルシェリナの顔が苦痛に歪む。
二撃目と三撃目と続く女の無慈悲な連撃に体勢を崩される。
このままでは、斬られる。
「アルシェリナ!」
俺は地面を蹴り、女の側面に回り込んで回し蹴りを放った。
女が双剣を盾にして蹴りを受け止める。
「アルシェリナ様!お下がりください!」
ペリウルスが巨大な斧を振り下ろして女との間に割って入った。
「っ……ごめん」
アルシェリナが忌々しそうに舌打ちをして距離を取る。
気がつけば俺とペリウルスがアルシェリナを背後に庇う陣形になっていた。
「アリス!ペリウルス!私に構わないで!とっととあいつをぶっ飛ばしちゃって!」
姉としての意地なのだろう。
アルシェリナは苛立ちを隠せない様子で叫んだ。
だが、魔法を封じられた彼女を放置して攻めに転じるわけにはいかない。
青い服の女の双剣が容赦なくアルシェリナに襲い掛かる。
「くっ……!」
アルシェリナが杖で刃を受け止めるが、その衝撃で彼女の体は大きくよろけた。
剣術の素人である彼女にこの猛攻を凌ぎ切る術はない。
銀色の軌跡が彼女のドレスを切り裂き、白い肌に赤い線が刻まれていく。
「アルシェリナ!」
俺は地を蹴り、女とアルシェリナの間に滑り込んだ。
女の左手の剣が俺の脇腹を浅く抉る。
熱い痛みが走り、視界が僅かに揺れた。
「アリス!あんた何やってんの!」
アルシェリナが腕から血を流しながら叫んだ。
「私を庇わないで!」
意地と焦りがその声には痛いほどに滲んでいた。
「無茶言うな!お前を死なせるわけにはいかない!」
俺は痛みを堪えて拳を振り抜くが、女は軽々とそれを躱す。
「アルシェリナ様!お下がりください!」
ペリウルスが牽制するが、女の動きはさらに加速していた。
強化結界の恩恵は俺たちよりも本来の身体能力が圧倒的に高い暗殺者にこそ強く働いている。
守るべき対象を背負いながらの戦いは、俺とペリウルスの体力を確実に削り取っていた。
女の刃を弾き返すたびに、俺の腕や脚にも無数の切り傷が増えていく。
呼吸が荒くなり、視界が汗と血で滲んだ。
いくら前世の技術があっても、圧倒的な速度差と姉を護るという枷が俺の動きを鈍らせる。
「……無駄な足掻きだ」
女の冷酷な声が頭上から降ってきた。
女が宙を舞い、双剣が処刑人の断頭台のように振り下ろされる。
俺は限界を迎えた筋肉を無理やり動かし、アルシェリナを突き飛ばして凶刃の前に身を晒した。
肉を断たれる激痛を覚悟して、俺は強く目を閉じた。
だがいつまで経っても痛みはこなかった。
空を切る風の音と生々しい肉を裂く音だけが鼓膜を打つ。
俺は恐る恐る閉じていた目を開けた。
視界が真っ赤に染まっていた。
「……え?」
目の前には突き飛ばしたはずのアルシェリナが立っていた。
青い服の女が振り下ろした双剣。
その一本がアルシェリナの肩からお腹の中心くらいにかけて深々と食い込んでいた。
「アルシェリナ……!」
俺の喉からかすれた声が漏れる。
突き飛ばされた直後に、彼女は自ら踏み込み俺の盾となったのだ。
鮮血がドレスを赤く染め上げ、石畳へとポタポタと滴り落ちる。
常人なら即死してもおかしくない重傷だ。
だが、アルシェリナは倒れなかった。
「勘違いしないでちょうだい」
激痛に顔を歪めながらも、彼女は強気な笑みを浮かべた。
「私が……私がアリスを守ると言ったはずよ!」
その声には家族としての矜持と、一切の妥協を許さない強い意志が宿っていた。
「アルシェリナ様!!」
ペリウルスの悲痛な叫びが響く。
「よくもアルシェリナ様を!」
ペリウルスが激昂し、斧を振りかぶる。
青い服の女は無表情のまま、アルシェリナの腕から剣を引き抜いた。
ブシャァッ。
血飛沫が舞いアルシェリナの体が力なく傾く。
「アルシェリナ!」
俺は慌てて彼女の体を抱きとめた。
腕の中で彼女の体温が急速に失われていくのが分かる。
「泣きそうな顔……しないでちょうだい。私は侯爵家の長女……これくらいで死んでたまるもの、か」
彼女は震える手で俺の頬に触れた。
その指先は酷く冷たかった。
俺の頭の中で何かがブツリと千切れる音がした。
前世の戦場で数え切れないほどの仲間を失ってきた。
だが今の俺にとって、この不器用で気高い姉はかけがえのない大切な家族だ。
それを無惨に傷つけられた怒り。それが俺の全身の血液を沸騰させていく。
「ペリウルス。アルシェリナを頼む」
俺は姉の体をそっとメイドに預けて立ち上がった。
青い服の女を真っ直ぐに見据える。
強化結界の魔力とは全く違う、どす黒い怒りが俺の全身から立ち昇り始めていた。




