第2話
「着きましたよ。此処が私の家です。」
アキト達を乗せた車がある大きな門の前に止まると、自動的にその門が開く。そして、その中へと車はゆっくりと進んで行くと、広い庭と大きな家が見えた。庭は学園長の屋敷程では無いもののかなり広く、家は荘厳で資産家が所有している様な印象を与える程に立派であった。
「え…この家ってコウガ先生の家だったんですか?」
「ええ、そうですよ。その口振りだと、アキト君はこの家を見た事が有るんですね?」
「はい。実は、僕はこの近所にアルバイトの関係で来ていたんです。その時に少しだけですね。」
アキトは人懐っこそうな少年と、その母親の優しそうな笑顔を思い出す。実は、アキトが家庭教師として頻繁に訪れていた家、短い期間ながらも教え子として接したマコトと、その母ヒョウカが住むその家が、この家の近くにあったのだ。
「周囲の家と比べると、一軒だけ凄く大きくて目立ちますからね。どんなお金持ちの方が住んでいるんだろうと、近くに来る度に思っていたんです。表札は見ていなかったので、誰の家なのかまでは知らなかったんですが、まさかコウガ先生の家だったとは。」
アキトは感心しながら、窓から見える外の広い庭を見回す。其処には沢山の手入れされた木々が綺麗に植えられており、綺麗な光景だとアキトは感じた。
「気に入りましたか?この庭、実はヤクモさんが手入れして下さっているんですよ。」
「ああ、道理で。」
「ヤクモさんは、趣味兼副業として庭師もしているんです。その界隈ではそれなりに名が知れていて、色んな有名所から直々にオファーが来る位なんですよ。そんな方に手入れして貰っているんですから、私なんかには勿体無い事ですよ。」
聞けば、ヤクモの善意によって無料で手入れして貰っているとの事であった。アキトは、きっと普通に頼めば何十万もするんだろうなと思って溜息を吐いた。そのまま車は、コウガの家族が住んでいるであろう邸宅の前に着く。
「庭も広いですけれど、お屋敷も本当に大きいですね。近くで見るとより実感します。」
「実は、この家は私がシアと結婚する時に餞別として頂いた物なんです。鳥型導族であるシアや将来産まれるであろう子供達が窮屈しない様にと、大きめに造ってくれたんですよ。」
「これが餞別って…太っ腹としても凄まじい…。やはり、土導術で?」
「ええ、そうですね。ある程度不自由無く飛び回れる様にと各部屋の間取りは相当に広く、またちょっと暴れても壊れない様にかなり頑丈に、学園長先生や義父手ずから造って頂きました。本当に、義父達には感謝していますよ。」
コウガの義父であるミノリ・サンガは土導術使いとして優秀である。故に屋敷を建てる際にはサンガ自ら建築に携わり、ロウガ他数名の学園の協力者と共に僅か一週間で造り上げていた。土地は資産家であるサンガが元々所有している物で、材料も導術で大体は調達し、人件費も殆ど無いに等しい為、実は豪邸の割に一般の民家よりも入手費用がかなり安かったりする。
「さあ、中に入りますよ。」
コウガに促されてアキト達が玄関のドアを開けると、非常に広いエントランスホールが見えた。最上階までが吹き抜けとなっており、また壁や天井の所々に長く太い手すりが有る。普通の人間には使えないそれは、鳥型導族用に特別に誂えた物であった。
「お帰りー!」
アキトが高そうな備品の値段を推測しながら周囲を見回していると、少女の声がホール中に響き渡った。その声のする方向ーー真上を向くと、一人の紅い翼を持つ小学生位の少女が、普通に落ちるよりも更に速い勢いで、今まさにコウガの真上から突撃を仕掛けて来ていた。
「おわっと!」
コウガは一瞬驚いた顔をしたものの、足を広げて腰を落とした格好で少女を冷静に抱き留め、強い衝撃を逃しながら床を転がり、まるで何事も無かったかの様に少女を抱えて立ち上がる。コウガにしっかりと抱き締められたその少女は、子供らしい甲高い声で元気にはしゃいでいた。
「あははは!お父さーん!」
「ふう、危なかった…。ジア、鉛直下方投射を利用した真上からの突撃で抱き付いて来るのは止めてねって、いつも言っているでしょう…?」
「えー、何で?風を切るの楽しいんだよ?」
「貴女はまだ小さいのでちゃんと受け止められましたが、もう少し大きくなったら受け止め切れなくなるかも知れないからですよ。貴女の可愛い顔に傷を付けたくないんです。わかって下さいね。」
「えへへ、はーい!」
「さあ、お客様に御挨拶をなさい。それに、この方達は電話で話した、お母さんを助けてくれた恩人です。ちゃんと御礼も言うのですよ。」
コウガの言葉に大きく頷いた少女は、コウガの手から離れて床の上に立ち、そしてアキト達に向き直る。身に纏う雰囲気はまだ幼いものの、父親に似てその目付きは鋭く、顔立ちも可愛いと言うよりも寧ろ凛々しいと言うのが合っていた。
「初めまして!私、ミノリ・テネジアって言います!お母さんを助けてくれて有難う!」
テネジアと名乗った少女は、母譲りの紅く綺麗な長い髪を振り乱す様に、勢い良く頭を下げる。その振る舞いは、年相応の活発な子供と言った印象を与えた。その性格は非常に明るく、少しアイビシアに似ているなとアキトは思った。
「どう致しましてです。此方こそ初めまして、僕はアラカミ・アキトって言います。いつも先生にはお世話になっています。」
「私はシルバーナ・フェルミです。コウガ様やアイビシア様には、大変お世話になりました。あと、この子は地竜のディアです。宜しくお願い致します。」
「キュイッキュン!」
アキト達が順々に挨拶をし終えると、テネジアはアキトの名前に反応する。
「ねえねえ、お父さん。お姉ちゃんの言っていたアキトお兄ちゃんってこの人の事?」
「ええ、そうですよ。」
「ふぅ〜ん…なるほど。この人が…。」
コウガの言葉を聞いたテネジアは、ゆっくり羽撃いて少し浮き上がり、アキトの周囲を旋回しながら、その鋭い眼差しでまるで品定めをするかの様にアキトを隈なく観察する。その様子に、アキトは困惑する。
「あ、あの…何か僕に付いています?」
「ジア。失礼となりますから、余りお客様をジロジロと見るものでは有りませんよ。」
コウガに諭され、テネジアは渋々と言った様子で地面に着地する。髪の毛に何か付いていたのかなと、アキトが自身の長い黒髪を弄っていると、其処に徒歩でテネジアが近寄って来た。アキトは腰を屈めて彼女の視線に合わせる。
「ねえねえ、アキトお兄ちゃん。」
「何ですか?テネジアちゃん。」
「お兄ちゃんって、リアお姉ちゃんの彼氏?」
「「はいい⁉︎」」
アキトのみならず、コウガもまた大きな声で驚いた。しかし、教え子を信じると決めていたコウガは昨日の病院での経験が活きたのだろう。すぐに冷静さを取り戻し、テネジアを優しく諭す。
「ジア、何を急に言い出すのですか?そんな事ある訳無いでしょう…。」
「え、そうかな?」
「そうですよ。大体、リアは人族で例えればまだ小学校の高学年程度なんです。なのに彼氏だなんて、そんなの五十年以上早いですからね。例えお天道様が許しても、お父さんは絶対に許しません。」
「五十年も経ったら、リア“お姉ちゃん”がリア“お婆ちゃん”になっちゃうよ…。それに、そんな事言ったらお母さんはどうなの?確かお母さんがお父さんの事を好きになったのは、丁度今のお姉ちゃん位の時だって、前にお母さんが言ってたよ?お母さんは良くて、お姉ちゃんは駄目なの?」
「ぐ…そ、それは…。」
テネジアの、素朴な疑問と言う名の正論に、コウガの旗色は悪くなる。事実である為にそれを否定する事が出来ず、仕方無いのでコウガは咳払いして論点をずらす。
「オッホン!そ、それは兎も角として…アキト君とリアは昨日会ったばかりなんですよ?幾ら何でも、そうなる為の過程も充分に踏んでいないのに、いきなりそう言う仲になる筈が有りません。」
「んー…でもね?お姉ちゃん、昨日から少し様子がおかしいの。今日も、アキトお兄ちゃんが家に来るって聞いたら途端にそわそわし出したし。私が思うに、あれは恋する乙女の反応ね。」
「え…それは本当ですか?」
「絶対にそうよ!だからね?行く行くは私の義兄となるであろう、その相手の人となりや甲斐性、あと浮気性かどうかを見極めるのが、将来の小姑としての私の務め…」
「ジィィィイイイイアァァァアアアアアアアアアア!!!!」
その時、再びホールに大きな声が響いた。それは非常に怒っているかの様な聞き覚えの有る声で、テネジアの愛称を叫んでいた。そして次の瞬間、一陣の風が吹いたと感じたその直後、アキトの目の前を黒い何かが猛スピードで回転しながら過ぎ去りつつ、テネジアを攫って行った。そして、アキト達から少し離れた位置の床に仰向けに着地した。
「あんたアキトさんの前で何て事言ってんのよ!恥ずかしいじゃないの!」
黒い物体、それはクロウリアであった。クロウリアは攫ったテネジアの背後から、両脚で彼女の腕ごと胴締めしながら、その口を手で塞いでいた。その所為でテネジアは身動き出来ず、また喋れなくなっているものの、何かを訴えようともがきながら、懸命に口を動かす。
「モガモガモモンガ!」
「ち…違うわよ!これは照れ隠しなんかじゃ無いわよ!大体、私がそわそわしてたのだって、アビス王国貴族でいらっしゃるシルバーナ様が我が家にいらっしゃるからであって、た…他意は無いんだから!勘違いしないで!」
クロウリアはその類稀な聴力を活かす事で、口が塞がれたまま放たれた言葉もしっかりと聴き取る事が可能である。しかし、余りに気が動転していた為に、その場では彼女以外に聴き取る事が出来ないそれを、他ならぬ彼女自身が翻訳してしまっている事には気付いて居なかった。
「モグモグマグマッグ!」
「ちょっと!お母さんのお化粧品を少し借りたのは、お父さんには内緒にしておいてって言ったでしょう⁉︎良いじゃないの!アキ…お、お客様がお見えになられるんだから、おめかしして失礼の無い様にしたかっただけよ!」
クロウリアの言葉を聞いたアキトが彼女の顔をよく見ると、クロウリアの唇には薄い赤の口紅が、頬には黄色系の頬紅が塗られており、少しだけ大人びて見えた。大人になろうと背伸びする少女は傍目にも非常に可愛らしかったが、如何にせんその可愛いとはかけ離れた言動が、それを台無しにしてしまっていたのは否めない。
「モモガムムギンガム!」
「何よ!仕上がりをしつこく尋ねたって別に良いでしょ⁉︎自分じゃ見えないんだもん!変かどうか良くわかんないんだもん!誰かに訊かなきゃ不安じゃない!口紅曲がってないかとか!」
「ムグモグメグガミマン!」
「だ!か!らぁ‼︎恋愛感情とかそんなんじゃ無いから!良い加減そっち方面に持って行くの止めなさいよ!なんでお母さんみたいな発想しか出来ないのよォオオオオ!」
盲目であるクロウリアは、化粧した自分の姿を鏡で見る事が出来ない為、その仕上がりを自身で判断する事が叶わない。故に妹のテネジアにその判断を仰いだ訳なのだが、アイビシアに性格が良く似ているテネジアはそれを『恋故に』と捉え、余計なお節介を焼いてしまったと言う訳である。
「リア、取り敢えず落ち着きなさい。皆が見ていますよ。」
「え…あ、あれ…?」
「お母さんの化粧品を無断で使った事は、もうこの際咎めませんよ。ただ、そろそろ止めないと化粧では無く赤っ恥を顔に塗ってしまいますよ?……まあ、少し手遅れかも知れませんが。」
コウガの言葉にようやく冷静になったクロウリアは、自身がアキトに対して酷い有様を晒している事にやっと気付く。そしてクロウリアは恥ずかしさの余り、大きな悲鳴を上げた。
「う…うわあああああ⁉︎」
クロウリアは、横に勢い良く転がりながらテネジアを離すと、四つん這いの姿勢から前方斜め上方に華麗に飛び上がりつつ綺麗な伸身の後方宙返りを決め、頭からアキト達の近くに向かって急降下すると、そのまま土下座体勢に移行する。アイビシア直伝の必殺謝罪術『アクロバティック墜落式土下座』である。
「ごめんなさぁああアアアアアイィイ!」
クロウリアは曲げた両膝の硬い部分で床に激突、その勢いで頭が床にぶつかりそうになる所を、両腕で支えてそれを防ぐと、その体勢は綺麗な土下座を作る。その際に衝撃を上手く逃す様に、全身の関節を柔らかく動かして、身体へのダメージを最小限に留めていた。それは、インパクトの有る謝罪と訓練とを同時に行う高等(?)技術であった。
(ああ…恥ずかし過ぎてどうにかなりそう…。どうしよう…きっと変な子って思われたよね…。嫌われちゃったかな…関わり合いになりたくないって思われちゃったかな…そんなの嫌だよぅ…。)
深々と頭を下げながら、クロウリアは強く握り拳を作る。顔は羞恥に真っ赤に染まり、強く閉じた目の端には小さく涙が滲む。先程の自身の軽率な行動(彼女の家での普段通りの行動)をとってしまった事を深く後悔し、自分を責め続けていた。
「リアちゃん。頭を上げて下さい。」
そこに、アキトの声が掛かる。クロウリアが恐る恐る顔を上げると、そのすぐ近くにアキトの顔が在るのを感じ取った。クロウリアはすぐに弁明をしなければと思ったものの、緊張と恥ずかしさで上手く口が回らない。
「うあ…あ、あの…。」
「リアちゃん…今の凄いですね!」
「……え?」
必死に口を動かそうとしていたクロウリアは、思わぬアキトの反応に呆気に取られた。あれほどの醜態を晒したのだから、てっきり引かれると思っていたのだが、アキトは全くそんな素振りは見せず、寧ろ褒めて来たのだ。クロウリアはその理由がわからず、困惑した表情を見せる。
「回転しながらの背面着地や、急降下から着地した際の身のこなし、そのどれもが素晴らしかったです。あれだけの動きをしながらも、体の何処にも強い負担が掛かっていませんでした。先生達から、衝撃を逃す技術を教えて貰っていたんですか?」
「え?え、えっと…お母さん達の動きを良く聴いて…。それで、同じ音が出る様に真似したら…出来たと言うか…。」
「音でわかるのですか⁉︎それであの動きを再現出来るのは凄い!ルビィの護身術訓練の為の指導にもきっと役に立ちますよ!貴女にお手伝いを頼んで本当に良かったです!」
「は、はい…あ、ありが…とう…ございます?」
アキトは感性が少々おかしいので、クロウリアの醜態よりも、寧ろその身のこなしの方に目が行っていた。勿論、クロウリアが醜態を晒した事はわかっていたが、彼女が子供であるが為に、寧ろ微笑ましいと言う程度にしか思っていなかったのだ。
(ま、まさかそんな所に目を付けて来るとは…。やっぱりこの人、ちょっと変わっているわね。だけどどうしよう…なんか、とても…嬉しい…!で、でも…それはそれとして、ちゃんとした謝罪は必要よね…?)
クロウリアは、アキトが自分に対して嫌いになっていない事に安堵したが、ちゃんと謝る事はそれとは別に必要だろうと考えた。このまま有耶無耶にも出来たが、そんな卑怯な事をすれば今度こそ嫌われるかも知れない、それだけは絶対に嫌だとクロウリアは思い直し、辿々しくも謝罪の言葉を述べ出す。
「あ、あの…この度は、アキトさんには大変な御無礼を…。」
「えっと…何が無礼なんですか?リアちゃんは別に、僕に対して無礼な事なんてしていないでしょう?」
「え?いえ、私はあんな…恥ずべき…。」
「リアちゃんは、テネジアちゃんの勘違いを正そうとしていただけですよね?ただそれだけの事なのに、それを無礼だなんて言えません。少なくとも、僕はそう思います。だから、どうか元気を出して下さい。」
「あ…ああ…。」
アキトの優しい言葉が、クロウリアの硬直した心を巧みに解きほぐす。そこには嘘も偽りも無く、変に気を遣っている素振りも無く、ただ純粋にクロウリアを思い遣るアキトの気持ちがあった。クロウリアの心は、次第にその暖かさに惹かれて行く。
「少し、顔を此方に向けてくれませんか?」
「…え?は、はい…どうぞ…。」
クロウリアはアキトの言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに頭を前に出して顔を無防備に晒す。緊張に高鳴る彼女の胸には、少しだけ何かを期待する気持ちが芽生えていた。そこにアキトが彼女の顎を優しく触れて上に向けたものだから、その心拍数は飛躍的に上昇した。
(い、一体何を…?ああ!ま、まさかこの流れって…。え?う、嘘でしょ⁉︎いやいや無い無い!でも、もしかしたら…もしかするのかしら。外国式の挨拶とか…そんな感じ?ええ⁉︎だとしてもちょっと待って‼︎まだ心の準備が…。)
止めて欲しいと叫ぶ心は、しかし身体を動かす程の力を持っていなかった。アキトの息遣いを間近で聞いて、まるで金縛りにあったかの様に身体は動かない。仕方が無いので、そのまま為すがままになろうと心に言い訳をしたクロウリアは、僅かに唇を上に向けてその時を待った。すると、柔らかな物が彼女の顔に触れた。
「動かないで、そのままジッとしていて下さい。涙を拭き取りますから。ついでに、崩れてしまったお化粧も落としますね。」
「え…?あ、ああ!は、はい…。」
それは、アキトが召喚した上質なタオル、そして化粧水の感触であった。一連の行動が、クロウリアの涙と化粧を拭き取る為の物だった事に気付いた彼女は、再び顔を真っ赤にする。変な想像をしたり、変な期待を抱いたりした、そんな自分の心を彼女はまたも糾弾する。
(な、何考えてんのよ私ったら!アキトさんがそんな事する訳無いじゃないの!これじゃあ、まるで発想がお母さんじゃない!それに、シルバーナ様のお気持ちも…考えず…ああ、もう…恥ずかしい‼︎)
クロウリアの拳が再び強く握られ、口元は悔しさに強く引き結ばれる。再び、彼女の目元には涙が滲んだ。すると、彼女の涙を拭きつつ化粧を落としていたアキトがその様子を見て、心配そうに話掛ける。
「大丈夫ですか?やっぱりさっきので何処か痛めたのですか?」
「あ…す、すみません!だ、大丈夫です…。」
「そうですか?なら良いのですが。くれぐれも無理はしないで下さいね。」
アキトに顔を拭われながら、クロウリアの心は再び絆されて行く。アキトの拭き方はとても丁寧で気持ち良く、そのまま身を委ねてしまいたくなる欲求に駆られていた。クロウリアの顔は火照っていた為にアキトの手が冷たく感じられたが、それが存外に心地良い。そして、それを通して伝わるアキトの心音に、クロウリアは不思議な安心感を得ていた。
「はい、これで終わりです。」
「……あ、は…はい、ありがとう…ございました…。」
その為、アキトがクロウリアの顔を拭き終えると、その至福の時が終わってしまった事に彼女は少し名残惜しそうにした。最低限の礼は言えたが、未だその余韻は抜けず、若干夢見心地になっていた。
「うん、やっぱりリアちゃんはこっちの方が可愛いですね。とっても素敵ですよ。」
「ひゃいい⁉︎」
そんな隙だらけな状態になっていた物だから、急に放たれたアキトの言葉に、クロウリアが上手く対応する事が出来無かった。思わず変な声が出てしまった彼女は正気に戻り、大いに狼狽える。
「え、え?え…ええ⁉︎そ、それってどう言う…。」
「そのままの意味ですよ。リアちゃんは、化粧する必要が無いって事です。素のままのリアちゃんの方が、化粧しているリアちゃんよりも魅力的だなと思ったので。」
「あ…えっと…それじゃあ、最初からお化粧しない方が良かったのでしょうか…。」
「いえいえ、化粧している姿もかなり素敵でしたよ?相手に失礼の無いように気を付けるのは大事な事ですし、大人に少し近付いた貴女はとても綺麗でしたから。」
その言葉を聞いた途端、クロウリアの心は一気に舞い上がる。生まれて初めての化粧に挑戦し、テネジアを頑張って説得して仕上がりの評価をさせた事は無駄では無かったと、顔には出さないものの非常に喜んだ。とは言っても、口元が如何しても少し緩んでしまうのを防げてはいなかった。
「ただ、その姿を見て、僕は少し寂しいと感じました。」
「え…。寂しい…ですか…?」
「ええ。昨日のリアちゃんは、とても元気そうな女の子と言う印象だったんですが、今のリアちゃんは何処か余所余所しくて、口調も最初に会った時の様に変に丁寧ですし、遠慮している様に見えるんです。なんか、無理して自分を装っているんじゃないのかなって、そう思えるんです。」
「そ、そんなつもりは…。」
そこまで言って、クロウリアは言葉に詰まる。テネジアを捕まえた所からの一連のはしたない行動は、正に普段通りの素のクロウリアのそれであった。それを化粧よろしく隠そうとしているのだから、『自分』を隠していると言うアキトの指摘は、的を得ていたのだ。
「無理をしていないのなら構いません。ただ、無理をしてまで自分を取り繕うのは止めた方が良いと思います。僕の親友の受け売りになりますが、貴女は『貴女』なんです。他の誰でも無いんです。無理して『他人』になると、心に負担を掛けてしまいますし…何よりそんな貴女を、僕は見たくありません。」
「し、しかし…。私の…その…。本当の私…は…。」
クロウリアは返答に困ってしまった。アキトの言いたい事は理解出来る。アキトの事は信用していたし、またかなり気に入ってもいた。だからこそ、綺麗な自分を見せたいと言う強い欲求が出て来てしまう。そしてそんな自分に気付いて、クロウリアは更に自己嫌悪した。
(ど、どうしよう…。こんな卑怯な事を考えてしまう私なんて、アキトさんに見せたくないよぅ…。で、でも…此処で隠して、見せないのも…卑怯よね…。う、ううぅ…く、苦しい…。)
どうしようも無く心が苦しくなったクロウリアは、胸を手で抑えて苦しそうに呻く。すると、そんな彼女を暖かい何かが包んだ。そして、聞いた事のある柔らかなリズムが彼女の心に響き、彼女に安寧をもたらす。それは正しく、アキトの心音であった。アキトがクロウリアを抱き締めたのだ。
「あ…ああ…。アキト…さん…?」
「いきなり断りも入れずに抱き締めてしまってすみません。ただ、リアちゃんを見ていたら、こうしてあげたいなって思ったので、つい…。嫌ならすぐにでも止めて謝ります。」
「い、いえ…大丈夫…です…。」
「そうですか。それは良かった。」
アキトの優しい声が、クロウリアの耳元で囁かれる。クロウリアは思わず、アキトのそのソフトな声、息遣いに聞き惚れてしまう。恥ずかしいと言う思いもあったが、それ以上にその音をずっと聴いていたいと言う欲望に、恥ずかしいと言う気持ちは呆気なく敗北した。
「さっきも言った様に、僕は貴女に無理をして欲しくありません。それは、無理に自分を偽る事もそうですが、無理に自分を曝け出す事もまた然りです。何方もして欲しく無いんですよ。」
「で、ですが…。」
「誰にだって、曝け出したく無い部分位ありますよ。斯く言う僕だってそうなんです。なのに、貴女にだけそれを強要するのはおかしい話ですからね。そんな事は絶対に求めません。」
クロウリアは、アキトの言葉に思わず自身を恥じた。自身の汚い部分を見せなくて良いと言う言葉に、不覚にも安心してしまった為だ。それは狡い事とわかっていて、それでもアキトの言葉を言い訳にしてクロウリアは逃げた。そしてそれに安堵してしまった自分が、とても恥ずかしかった。
「やはり…私は…。」
「貴女は、やはり凄い方ですね。」
「そ、そんな事はありません!現に今だって…。」
「貴女は今、自分と必死に戦っています。隠したい部分を曝け出そうと、頑張っているんですよね?」
「は、はい。……あ!いえ、えっと…これは…その…。」
クロウリアは答えた後に、すぐに失敗してしまったと感じた。隠したい部分を曝け出すのが怖いと言う、その本音が彼女の答えに出てしまっていたのだ。しかしアキトは、クロウリアが言い訳を言い出すに、一息に畳み掛ける。
「自分と戦う事は、本当に難しい事です。甘えようと思えば、何処までも甘える事が出来ますからね。だけど、貴女はそれに必死に抗い、孤独でもそれに負けまいと頑張っています。これを凄いと言えない筈が有りません。大丈夫、貴女は本当に素敵な方です。例え貴女がそう思わなくても、僕はそう思います。」
アキトの言葉が、クロウリアの心を鷲掴みにする。彼女は激しい動悸に見舞われ、呼吸が浅く速くなる。まるで風邪でも引いてしまったかの様に頭の中心が熱く、思考が上手く働かない。ただ、アキトの言葉を聴いていたいと言う欲だけが、彼女の体を支配する。
「そんな素敵な方なのですから、もしも別な所に嫌な部分が有ったって、寧ろバランスが取れて丁度良い…なんて思っちゃったりしています。まあ、それは冗談だとしても、貴女がもしも自分の嫌な所を曝け出したって、それで僕は貴女を嫌ったりしないと言う事だけは確実です。それは冗談でも何でも無い、僕の本心です。」
鷲掴まれたクロウリアの心が、アキトの言葉に優しく撫でられて気持ち良さそうに溜息を吐く。上手く働かない思考は、最早思考の体を成してはおらず、唯々アキトの言葉を反芻するだけの、良く飼い慣らされた九官鳥の様になっていた。
「今すぐにとは言いません。ほんの少しずつでも良いです。見せられる…見せても良いかなと、そう思える貴女の素顔を見せて下さい。僕達も、少しずつ素顔を見せて行きますから。互いが互いに同じ様に歩み寄れば、きっと今よりもっと、仲良くなれると思うんです。」
「あ……あう……。」
「僕は、貴女の素顔が何であろうと受け止めます。本当の貴女を知り、理解し、そしてその上で貴女と末長く仲良くして行きたい。これが僕の今の気持ちです。貴女は如何でしょうか?もしも、ほんの少しでも僕の気持ちに共感してくれるのなら、僕はそれをとても嬉しく思います。」
『何であろうと受け止める』と言う言葉がクロウリアの心の壁を突き崩す。『仲良くして行きたい』と言う言葉が、未だに壁の奥で燻る彼女の本心に手を差し伸べる。『アキトが嬉しく思う』と言う言葉が、彼女の淡い想いの背中を優しく押す。そしてクロウリアは、ついに一歩を踏み出した。
「う…うん…。わ、私…も…。」
「そうですか?それは嬉しいです。だけど、絶対に無理はしない事。これだけは約束して下さいね。途中で潰れてしまわない様に、そしてより良く付き合える様に、ちょっとずつでも仲良くなって行きましょう。これから宜しくね。リアちゃん。」
「……うん!アキお兄ちゃん!」
クロウリアは目元に嬉し涙を浮かべながら子供らしい元気な声で頷き、そのままアキトに自分からしっかりと抱き付いた。本当の自分、自分の見せたくない部分、今はそれを出せないけれど、せめて自然体で居ようと彼女は心に決めた。すると、まるで今まで自分を縛っていた枷が外れたかの様に、心が羽根の様に一気に軽くなった。勇気を出して踏み出して良かったと、心からそう思えたのだ。
(良し!少しだけですが、リアちゃんの遠慮した所が無くなりました!これは大きな進歩です。これで多少はルビィと仲良くし易くなったでしょうかね?無理強いは出来ませんが、もしもリアちゃんがルビィの良き友人となってくれたら、僕としてはこれ以上無く嬉しいですからね。)
一方のアキトは、クロウリアの反応に手応えを覚えた。彼は、遠慮し勝ちなクロウリアがシルバーナに対して心を開いて友人となれる様にと、自身を橋渡し役として利用しようと考えたのだ。その狙いはある程度の成功を見ていたが、それに付随して得られた別の結果に対しては、やはり鈍感な彼が気付く筈も無かった。
(この反応…絶対リアお姉ちゃん、アキトお兄ちゃんに撃ち落とされたよね…。それにしても、この人…あんな恥ずかしい台詞を堂々と言えるなんて…恐ろしい!絶対、女誑しの才能がある!此処は将来の小姑として、しっかりアキトお兄ちゃんを監視しないと!)
(アキト様は、元気な方がお好きなのでしょうか?それとも頑張る方?いえ、ここは元気に頑張りましょう!それが一番好みなのかも知れませんし!アキト様の好みの女性になれる様に、私…頑張ります!)
二人の様子を見ながら、シルバーナとテネジアが其々、アキトの意図する所とは全く違う感想を覚えていると、娘命な強面の父親が、アキト達のその甘い雰囲気を壊しに来た。勿論、彼もまたクロウリアの反応に違和感と不安を覚えた為である。
「アキト君?わかっているとは思いますが、リアに手を出したら許しませんからね?」
「お、お父さん⁉︎な、ななな、何言ってんのよ!」
コウガは笑顔であったが、明らかにアキトを脅していた。クロウリアはその言葉に二つの意味で驚き、急いでアキトから離れた。驚いた理由の一つは勿論、父がアキトに対して失礼な事を言った事に対してである。そしてもう一つは、その言葉にいつも以上に酷く狼狽えてしまっている自分自身が居る事に気付いたからであった。しかし、当のアキトは至って冷静である。
「言われなくてもわかっていますよ。それに僕は昨日、リアちゃんと先生に『絶対にリアちゃんをそう言う目で見ない』って約束しました。その約束は必ず守ります。だから、僕がリアちゃんに手を出す事は『これから先何があっても絶対に全く無い』ので、安心して下さい。」
「……え?あ…は、はい。そう…ですか?それは、良かった…のですかね?」
コウガはアキトの冷静なその言葉に思わず面喰らう。娘に対して絶対に色目を使わないと言うその言葉は、父としては安心出来ると同時に、其処まで手酷く否定されるとも思っていなかった為、家の娘にはそんなに魅力が無いのかと言う、至極面倒臭い複雑な想いに彼は陥っていた。
(あ…あれ?もしかして私…凄く不味い約束…しちゃったのかしら…?ってぇ!不味いって何がよ!違っ!べ、別に私は!わたし…は…。あれ…何、この…気持ち…。)
そして、その肝心の当事者であるクロウリアもまた、今更になって昨日の自分が大変な事をしてしまったと思った。そして、それの何が大変なのかについて自分で冷静に考えた時、自分の中に芽生えた、よくわからない初めての気持ちが大きくなっているのを知り、酷く困惑したのだった。
この主人公の能力は、他者に頼る事が大前提になっています。自身が非力であると良く理解している彼は、基本的に仲間を大事にし、そして尊重する事を心掛けています。少し他人本位過ぎて、狂人の域に片足突っ込んではいますが。
その心掛けが、人を誑し込む才能の元になっていると言う訳ですね。まあ、悪く言えば八方美人ですが、自覚が無いので更に性が悪いです。これからもこんな調子で、信頼出来る(?)仲間を増やして行きます。




