第31話 追い詰められて
抗争が始まって四日目の朝、水仙組の事務所には重苦しい空気が漂っていた。
机の上には前日までの報告書が積み重なり、加藤と浩介が組員の配置を確認している。大河も隣に座り、負傷者の名前が記された紙に目を通していた。
「こいつ、昨日も現場に出とったんちゃいます?」
「せや。腕を痛めとるけど、大したことない言うてな」
浩介は大河が指さした名前を見て、ため息をついた。
「けど、今日は休ませる。ほかにも足を引きずっとる奴がおるし、このままやと怪我人ばっかりになるわ」
「昨日まで動けとった連中も、今日は厳しそうですね」
「向こうは交代で来よるのにな。こっちは同じ顔ぶればっかりや」
水仙組の組員は約三十人。蓮組の三分の一ほどしかいないうえ、負傷者が増えたことで実際に動ける人数はさらに減っていた。
加藤が別の報告書を取り上げる。
「昨日、蓮組を追い払った店にも、今朝また連中が来たらしい。前とは違う顔ぶれやそうや」
「またですか……」
「向こうは人を入れ替えて来よる。こっちは一か所に人を回したら、別の場所が手薄になるんや」
浩介が地図を見つめていると、奥から浩二が声をかけた。
「勝、怪我しとる奴は無理に出すなよ」
「分かっとります。ただ、そうすると守りきれん場所も出てきます」
「それでもや。怪我人を増やしてまで守らせるわけにはいかん」
浩二は椅子の背にもたれ、しばらく目を閉じたあと、再び書類へ視線を落とした。
大河は地図に書き込まれた組員の配置を確認した。昨日までなら二人を回せた場所にも、今日は一人しか出せない。現場から戻ったばかりの者を、別の店へ向かわせる予定まで組まれている。
「兄貴、昼から俺も出ますわ。どこか様子見に行かなあかん店、あります?」
「ちょうど一軒ある。長い付き合いの店なんやけど、昨日から何度も電話が来とる」
「ほな、一緒に行かせてください」
浩介は頷き、机の上の書類をまとめた。
◇
昼過ぎ、大河と浩介が訪れたのは、商店街の外れにある小さな飲食店だった。
昼の営業を終えた店内では、店主が使われなかった席を拭いていた。テーブルの上には片づけられた食器が重ねられ、普段なら忙しく働いているはずの従業員の姿もない。
「浩介さん、わざわざすんません」
店主は二人を奥の席へ案内したが、その表情は暗かった。
「昨日も蓮組の連中が来たんか?」
「ええ。店の前に立っとるだけなんですけどね。あんな連中がおったら、お客さんも怖がって入ってきませんわ」
店主は帳場に置いてあった予約帳を開いた。
「昨日は三組キャンセルです。今日も昼はほとんどお客さんが来ませんでした。常連さんからも、しばらく様子を見る言われまして……」
「迷惑かけてすまんな。こっちも何とかしようとはしとるんやけど」
「それは分かっとります。水仙組さんには、今まで何度も助けてもろてますから」
店主はそこで言葉を切り、予約帳を閉じた。
「せやけど、うちも商売です。このままお客さんが来んようになったら、店を続けられません」
浩介が口を開きかけると、店主は深く頭を下げた。
「申し訳ないんですけど、しばらく水仙組さんとの付き合いは控えさせてもらえませんか」
「……そうか」
浩介は膝の上で拳を握った。
「長い付き合いやったのにな」
「ほんま、申し訳ありません」
「いや、謝らんでええ。あんたにも生活があるんやからな」
大河も頭を下げた。
「分かりました。こっちの事情で、これ以上迷惑かけるわけにはいきませんし」
店主は何度も頭を下げながら、二人を店の外まで見送った。
商店街へ戻る途中、浩介がぽつりと言った。
「あの店、先代の頃から付き合いがあるんや。組長もよう顔出しとった」
「そうやったんですか」
「困ったときはお互い様や言うてくれとった人やのにな……」
大河は振り返り、店の看板を見た。
「店主さんが悪いわけちゃいますよ。お客さんが来んようになったら、どうしようもないですから」
「分かっとる。分かっとるけど、悔しいわ」
浩介はそれきり黙って歩いた。
大河も隣を歩きながら、先ほどの店内を思い返していた。蓮組の組員を追い払うことはできても、離れてしまった客まで連れ戻せるわけではない。
◇
翌日、抗争五日目。
朝から蓮組の動きは激しかった。
水仙組の縄張りでは複数の場所で揉め事が起き、事務所には応援を求める電話が相次いでいた。
「健太郎、そっち頼むで!」
「……はい!」
大河の声に頷いた健太郎は、殴りかかってきた男の腕を受け止め、その身体を押し返した。
相手はよろめきながら後退する。
「何やねん、こいつ!」
別の男が飛びかかってきたが、健太郎は仲間の前に立ち、相手を押しとどめた。
その隙に水仙組の組員たちが態勢を立て直す。
「健太郎、もうええ! 向こうも引くみたいや!」
大河が声をかけると、健太郎は相手を追わずに仲間のもとへ戻った。
蓮組の男たちは悪態をつきながら去っていったが、水仙組の組員たちはその場に座り込み、荒い息を整えていた。
「大丈夫か?」
「はい……何とか」
「無理せんといてな。今日はまだ何があるか分からへんから」
大河が声をかけたところで、携帯電話が鳴った。
『大河! そっちは片づいたか!』
浩介だった。
「はい、今終わりました!」
『悪いけど、別の場所でも揉めとる。うちの奴が二人怪我しとるらしい』
「場所は?」
大河は電話を耳に当てたまま、近くの組員から地図を受け取った。
現場までは距離があり、すぐに到着するのは難しい。
「兄貴、今そっちに誰か向かってます?」
『近くにおる奴を確認しとるけど、まだ動かせそうにない』
「分かりました。俺らも向かいます!」
電話を切ると、別の場所で蓮組の組員を追い払っていた真二が、合流したところだった。
「大河さん、また揉め事ですか?」
「せや。別の場所で二人怪我しとるらしい」
「ほな、すぐ行きましょ!」
真二は勢いよく歩き出したが、その足取りは普段より重かった。昨日から何度も現場を往復し、ほとんど休めていない。
大河たちが車へ向かおうとしたとき、再び電話が鳴った。
『大河さん! こっち、もう持ちません!』
現場の組員だった。
受話器の向こうから怒鳴り声が聞こえる。
「落ち着いてください! 怪我しとる人は動けますか?」
『一人は歩けます! もう一人も肩貸したら何とか……』
「ほな、いったん引いてください!」
『えっ? せやけど、ここはうちの縄張りで……』
「分かってます! でも、今は怪我人を連れて離れてください。無理して残らんでええです!」
大河が電話を切ると、真二が詰め寄った。
「大河さん、何で引かせるんですか! 俺らが行ったら、まだやれますって!」
「真二、着くまでに時間かかるやろ。その間、怪我しとる仲間はどうするん?」
「それは……」
「俺らが着くまで待たせて、もっと怪我人が増えたら困るやん」
真二は唇を噛んだ。
「……このまま引いたら、向こうの思うつぼやないですか」
「せやな。でも、今は仲間を無事に帰すほうが大事や」
真二は納得しきれない様子だったが、健太郎が静かに頷いた。
「……怪我しとるなら、先に帰ったほうがええ」
「分かっとるわ……」
真二は拳を握り、車の扉にもたれた。
その後、現場の組員たちが無事に撤退したとの連絡が入った。
大河は安堵したものの、電話を切ったあともしばらく地図を見つめていた。
水仙組が守ってきた場所を、初めて自ら明け渡すことになった。
◇
夕方、事務所へ戻った大河たちを待っていたのは、険しい表情の智史だった。
「おい、大河! お前、現場の連中に引け言うたらしいな!」
「はい。怪我人が出とったんで、いったん撤退してもらいました」
「何を勝手なことしとんねん!」
智史が机を叩いた。
「何で引いたんや! そんなことしたら、向こうはますます調子に乗るやろ!」
「若頭、あのまま残っとったら、もっと怪我人が出てましたわ」
浩介が間に入った。
「せやからって、縄張りを明け渡してええんか!」
「今の人数では、全部の場所を守るんは無理です」
加藤が報告書を広げた。
「今日だけで何人も怪我しとります。動ける連中も休めてません。このままやと、明日にはもっと厳しくなります」
「そんなん、最初から分かっとったことやろ!」
「分かっとるからこそ、どこを守るか決めなあかんのです」
智史は不満そうに顔をしかめた。
「そんな消極的なことばっかり言うとったら、蓮組に全部持っていかれるぞ!」
「智史、もうええ」
浩二が静かに口を開いた。
「勝の言うことも分かる。今の人数で全部守ろうとしたら、うちの連中が潰れてしまう」
「親父、せやけど……!」
「組の面子も大事や。せやけど、組員がおらんようになったら、守るもんも守れん」
浩二は机に広げられた地図を見た。
「これからは守る場所を絞る。勝、浩介、どこへ人を回すか考えてくれ」
「……分かりました」
加藤が頷く。
浩介も返事をしたが、その顔には苦いものが残っていた。
智史は椅子に深く座り直し、腕を組んだ。
大河は少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。昨日までなら応援を出せた店にも、これからは人を向かわせられないかもしれない。
誰もがそれを理解していたが、ほかに方法は見つかっていなかった。
◇
夜になっても、事務所の明かりは消えなかった。
戻ってきた組員たちは椅子に腰を下ろし、黙って弁当を食べたり、負傷した腕をさすったりしている。
健太郎も壁際に座り、真二はその隣で頬を押さえていた。
「何でや……」
真二が小さく呟いた。
「喧嘩では負けてへんのに、何でこんなことになっとるんや」
健太郎は答えず、手元の飲み物を見つめている。
「俺ら、今日も向こうの連中追い払ったやろ? 昨日も勝ったやん。それやのに、何でこっちが引かなあかんねん」
「真二、お前らが頑張ってくれとるんは分かっとる」
近くにいた浩介が声をかけた。
「せやけど、二人だけで全部の場所を守れるわけちゃうんや」
「……分かってます」
真二は俯いた。
「分かってますけど、悔しいんですわ」
浩介は何も言わず、真二の肩を軽く叩いた。
大河はその様子を見ながら、机の上の報告書をめくっていた。
負傷者の名前が増えている。店からの相談も、昨日より多い。
昼間に訪れた飲食店の名前には、付き合いを一時的に控えるとの記載があった。
さらに別の紙には、今日撤退した場所が記されている。
大河は紙を揃え、しばらく考え込んだ。
「兄貴」
「何や、大河」
「明日の朝、組長と勝さんに少し話す時間もろてもええですか?」
浩介が顔を上げた。
「何や、考えがあるんか?」
大河はすぐには答えなかった。
真二は椅子に背中を預け、健太郎は隣で静かに目を閉じている。ほかの組員たちも疲れ切った様子で、それぞれの場所に座っていた。
「……ちょっと、相談したいことがあるんです」
浩介は大河をしばらく見つめたあと、頷いた。
「分かった。組長と勝さんには伝えとくわ」
「ありがとうございます」
大河は頭を下げ、再び報告書へ目を落とした。
そのとき、事務所の電話が鳴った。
近くにいた組員が受話器を取り、相手の話を聞き始める。しばらくすると、机の上に新しいメモが一枚置かれた。
大河はその紙を見たあと、手元の報告書を静かに閉じた。
抗争五日目の夜。
水仙組を追い詰める蓮組の攻勢は、まだ終わっていなかった。




