第30話 勝ってなお
水仙組と蓮組の抗争が始まって、三日目の朝を迎えた。
午前九時。水仙組の事務所には、すでに各所から何本もの電話が入っていた。机には報告書が積み重なり、浩介は地図を広げながら受話器を握っている。
「向こうが引いたんやったら追いかけんでええ。お前らも怪我しとるんやろ。いったん戻ってこい」
電話を切った浩介が舌打ちした。
「また別の場所かいな……」
「今度はどこです?」
隣にいた大河が尋ねると、浩介は地図の一角を指さした。
「昨日揉めた店の近くや。蓮組の連中を追い払ったらしいけど、二人ほど殴られとる」
「大丈夫なんですか?」
「大した怪我やない言うとる。まあ、本人らの言うことやからな」
大河は頷き、報告書に書き加えた。
右頬には小さなガーゼが貼られている。昨日、長野伸介に襲われた際、拳銃の弾がかすめた傷だった。
部屋の奥では、加藤が店主からの電話を終えたところだった。
「組長、今朝だけで四軒から連絡が来とります。蓮組の連中が店の前に立ったり、付き合いを変えるよう迫ったりしとるそうですわ」
「怪我人は?」
「店の人間には出てません。ただ、客が寄りつかんようになっとる店もあります」
「店に無理させたらあかん。うちの連中にも、無茶はするなと言うといてくれ」
浩二の指示に加藤が頷くと、椅子にもたれていた智史が口を挟んだ。
「そんなんやから舐められるんですわ。現場の連中も、もうちょっとしっかりせな」
「若頭、現場は朝から走り回っとります。怪我しながら店を守っとる奴もおるんです」
浩介が反論したが、智史は鼻を鳴らした。
「それが仕事やろ」
「智史」
浩二が顔を上げた。
「お前は若頭や。文句言うだけやのうて、誰をどこへ回すか考えろ。勝と浩介にばっかり任せるな」
「……分かっとります」
智史は不満そうに書類を引き寄せた。
大河はその様子を横目に、手元の作業を続けた。昨日の一件以来、智史とは必要以上に言葉を交わしていない。相手も何事もなかったように振る舞っていた。
そこへ電話が鳴った。
「はい、水仙組です!」
『大河さんですか! 蓮組の連中が、また店に来とるんです。今度は六人もおって……』
「落ち着いてください。場所はどこです?」
大河は状況を確かめると、店の人間を奥へ下がらせ、先に手を出さないよう伝えた。
「兄貴、俺が行ってきます。健太郎も連れていってええですか?」
「おう。あと二人つけるわ。無茶すんなよ」
「了解です!」
大河が声をかけると、大柄な健太郎が静かに立ち上がった。
「健太郎、仕事や。付き合ってくれるか?」
「……はい」
四人は足早に事務所を出た。
◇
問題の店は、商店街から一本外れた通りにある小さな居酒屋だった。
店先では蓮組の組員六人が入口を塞ぎ、店主に詰め寄っていた。
「水仙組との付き合いやめたら済む話やろ!」
「そない言われましても、長い付き合いがありますんで……」
「これから先、どっちと付き合うたほうが得か考えたらええねん!」
そこへ大河たちが到着した。
「お疲れさまです!」
明るい声に男たちが振り向く。
「何や、お前ら」
「水仙組の近藤です。うちと付き合いのある店やいうて聞いたんで、様子見に来ました」
大河は店主へ頭を下げた。
「すんません。ご迷惑かけてますね。店の中、入っといてください」
店主が奥へ引っ込むのを見届け、男たちへ向き直る。
「お店の人も困ってはりますし、今日はもう引いてもらえませんか?」
「何でお前に言われて帰らなあかんねん!」
「帰ってくれたら助かるなあ思いまして」
「ふざけとんのか! こっちは六人やぞ!」
「人数の話してるんちゃいますやん。店の前で揉めても、誰も得せえへんでしょう」
男の一人が大河の隣にいた若い組員を突き飛ばした。
「おい、何すんねん!」
組員が言い返すと、男は胸ぐらをつかんで拳を振り上げた。
だが、その腕を大きな手がつかんだ。
「……やめてください」
健太郎だった。
「何や、お前! 離せや!」
「先に、手を離してください」
男が腕を振りほどこうとしても、健太郎の手はびくともしない。
男は舌打ちして胸ぐらを離した。健太郎も手を放したが、直後に別の男が横から殴りかかってきた。
拳が健太郎の肩を打つ。
しかし、健太郎はわずかに身体を揺らしただけだった。
「……何や、こいつ」
男が目を見開く。
健太郎は仲間たちの前へ出て、大きな身体で蓮組の男たちを遮った。
「もう、やめてください」
「調子乗んなや!」
二人が同時に飛びかかった。
一人が胸元へ拳を打ち込み、もう一人が横から組みつく。
健太郎は足を踏ん張り、組みついてきた男を抱えるように押さえた。そのまま身体をひねると、男は足をもつれさせて地面に倒れ込む。
正面の男が再び殴りかかってきたが、健太郎は腕で受け止め、肩を押した。
それだけで男は数歩後ずさり、背後の仲間とぶつかった。
「何やねん、その力……!」
蓮組の男たちが顔を見合わせる。
健太郎は倒れた相手を追わず、仲間たちの前から動かなかった。
大河は店の扉がわずかに開いていることに気づいた。
「店の中、戻っといてください!」
店主が慌てて扉を閉める。
蓮組の先頭の男は健太郎を指さした。
「お前ら、覚えとけよ! こんなんで終わる思うなよ!」
「分かりました。せやから、今日はここまでにしときましょ」
大河が応じると、男たちは悪態をつきながら引き上げていった。
「健太郎、大丈夫か?」
「……はい」
「肩、殴られとったやろ」
「平気です」
「ほんま、丈夫やなあ」
健太郎は少し困ったように目を伏せた。
「……みんなが、怪我せんかったら、それでええです」
かばわれた組員が頭を下げる。
「助かったわ、健太郎」
「……気にせんといてください」
大河は二人の様子を見てから、店主へ声をかけた。
「もう帰りましたんで。怪我とかないですか?」
「それは大丈夫です。ほんま、ありがとうございます。せやけど……」
店主は男たちが去った方向を見た。
「また来るんちゃいますかね。今日だけ追い払ってもろても、明日も明後日も来られたら……」
大河はすぐには答えられなかった。
「……そうですよね。勝さんにも伝えときます。危ない思うたら、無理して営業せんといてくださいね」
店主に頭を下げ、一行は店を離れた。
通りへ出たところで、大河の携帯電話が鳴る。
『大河、そっちはどうや?』
「何とか引いてもらいました。健太郎が頑張ってくれましたわ」
『ほな悪いけど、もう一か所頼めるか。真二のとこで揉め事や。ほかに動かせる奴がおらんねん』
「分かりました!」
電話を切った大河が健太郎へ向き直る。
「真二のとこで揉めとるらしい。もうちょっと付き合ってくれるか?」
「……真二が?」
健太郎の表情が変わった。
「行きます」
そう言うなり歩き出した健太郎を、大河たちは追いかけた。
◇
古い雑居ビルが並ぶ通りから、男たちの怒鳴り声が聞こえてきた。
「何やねん、お前ら! 数おったら何してもええ思うとんのか!」
真二の声だった。
通りでは水仙組の三人が、七人ほどの蓮組の男たちと向かい合っていた。すでに一人が地面に座り込んでいる。
少し前まで、真二は相手の挑発を軽く受け流していた。
「そんな怖い顔せんといてくださいよ。こっちも仕事で来とるだけですやん」
「仕事? お前らみたいな弱小組が、何の仕事やねん」
「いやあ、弱小言われても困りますわ。俺らにも生活ありますし」
真二が笑うと、男たちはますます苛立った。
「お前、舐めとんのか」
「そんなことないですよ。めっちゃ怖い思うてますって」
軽口を叩きながらも、真二は仲間の位置を気にしていた。蓮組の男たちがじりじりと距離を詰めていたからだ。
やがて、一人が水仙組の若い衆を突き飛ばした。
「邪魔や。どけ!」
「何やと?」
言い返した組員の頬に拳が飛ぶ。
組員はよろめき、壁に背中をぶつけた。
真二の笑みが消えた。
「……今、何した?」
「あ?」
「うちの奴、殴ったやろ」
「せやから何やねん。お前も殴られたいんか?」
次の瞬間、真二は男の懐へ飛び込んでいた。
拳が顔面を捉え、男が地面に倒れる。
「お前!」
別の男が殴りかかってきた。
真二は拳をかわして腹へ一撃を入れ、身体を折った相手の顔を殴って突き飛ばした。
「何や、やるんか!」
先ほどまでの軽い口調は消え、真二の目には荒々しい怒りが宿っていた。
二人が同時に襲いかかる。
真二は一人の腕を払い、もう一人の拳を肩で受けながら、近いほうの男を殴り倒した。
頬を殴られても怯まず、さらに前へ出る。
「真二、もうええって!」
殴られた仲間が叫んだ。
だが、真二は止まらなかった。
「仲間に手ぇ出しといて、ただで済む思うなよ!」
倒れた男が起き上がろうとすると、真二は再び殴りかかろうとした。
その腕を大きな手がつかむ。
「……真二」
健太郎だった。
「離せや、健太郎! まだ終わってへん!」
「もう、ええやろ」
「こいつら、うちの奴殴りよったんやぞ!」
「分かっとる」
健太郎は腕を離さなかった。
「……もう倒れとる」
「せやけど……!」
「真二。これ以上やったら、あかん」
いつもより強い声に、真二は歯を食いしばった。
しばらく腕を振りほどこうとしていたが、やがて力を抜く。
「……分かったわ」
健太郎がゆっくり手を離した。
そこへ大河が歩み寄る。
「真二、怪我してへんか?」
「大河さん……俺は平気です。向こうが先に手ぇ出してきたんです」
「うん。仲間を守ろうとしたんやろ? それは分かる。せやけど、倒れた相手まで追いかけたら、今度はこっちが余計な怪我するかもしれへんやん」
「俺、まだやれましたけど」
「そうかもしれんな。でも、真二一人で戦っとるわけちゃうやろ?」
大河が仲間たちへ目を向けた。
殴られた組員は頬を押さえ、ほかの二人も疲れた様子で立っていた。
真二はその姿を見て、肩の力を抜いた。
「……すんません」
「次から気ぃつけてくれたらええよ」
大河は真二の肩を叩き、組員たちに負傷の確認を指示した。
蓮組の男たちは仲間を支えながら引き上げていく。
「健太郎、助かったわ」
真二がぼそりと言った。
「……うん」
「お前がおらんかったら、まだ殴っとったかもしれん」
「……それは、あかん」
「分かっとるって」
真二が不服そうに笑った。
大河は二人のやり取りを聞きながら、蓮組の男たちが去った通りを見つめた。
ここでも相手を退けることはできた。
だが、朝から現場を走り回っている仲間たちの顔には、疲れが浮かび始めていた。
◇
午後、事務所へ戻ると、加藤と浩介が報告書を確認していた。
「大河、真二のとこはどうなった?」
「向こうは引きました。うちの若い衆が一人殴られましたけど、今、怪我を確認してもろてます」
「健太郎のほうは?」
「こっちも何とか。店の前におった連中を追い払いました」
近くにいた組員が感心したように口を挟む。
「健太郎、ほんま凄かったで。三人がかりでもびくともせえへんかったんや」
「真二もや。あいつ、あんな喧嘩強かったんか」
「いやあ、そんな大したことないですよ」
真二が照れくさそうに笑う。
「よう言うわ。途中から目ぇ据わっとったぞ」
「そんなん言わんといてくださいって!」
わずかな笑いが起こった。
しかし、加藤が別の報告書を机へ置くと、空気が変わった。
「こっちは二人、怪我して戻ってきとる。別の店からも、付き合いを続けるんは難しいかもしれんいう連絡があった」
浩介が顔をしかめる。
「またですか……」
「健太郎と真二が頑張ってくれたんは確かや。せやけど、ほかの場所まで手が回っとらん」
加藤は地図を指さした。
「向こうは人数がおる。一か所で引いても、別の場所へ人を回せるんや」
「うちの連中は朝から休みなしですわ」
奥にいた智史が鼻を鳴らした。
「数人追い払ったぐらいで喜んどってもしゃあないやろ。向こうはまだまだおるんやぞ」
真二の表情が曇る。
浩二が口を開いた。
「今日動いた連中は順番に休ませろ。怪我しとる奴を無理に出すな。単独行動も追撃も禁止や」
加藤と浩介が頷く。
大河も健太郎と真二へ声をかけた。
「二人とも、今日はよう頑張ってくれたな。ちょっと休んどいて」
「……はい」
「大河さん、俺、まだ動けますよ」
真二が不満そうに言った。
「分かっとる。でも、今は休むんも仕事やで」
「……そうですか」
真二は渋々椅子へ腰を下ろした。
◇
夕方が近づくと、再び事務所の電話が鳴った。
「何やて? また来たんか!」
受話器を握った浩介が地図を引き寄せる。
「勝さん、駅の向こうの店です。蓮組の連中が五人ほど来とるそうですわ」
「そこは昼に追い払った場所やな」
「はい。今度は別の連中が来たみたいです」
そのとき、別の電話が鳴った。
大河が応じると、商店街の反対側でも蓮組が店の入口を塞いでいるという。
「兄貴、こっちも蓮組が来とるみたいです!」
浩介は近くの組員を呼んだ。
「今すぐ動ける奴、何人おる?」
「……二人です。ほかは現場に出とるか、怪我の手当てを受けとります」
「二人か……」
浩介が額を押さえた。
加藤は店主へ折り返しの電話を入れる。
「すんません。今すぐ人を向かわせられる状況やないんです。危ない思うたら、今日は店を閉めてもろても構いません」
『せやけど、これが何日も続いたら、うちも商売になりませんわ……』
「……申し訳ありません」
加藤は静かに答え、受話器を置いた。
「俺、行ってきます」
健太郎が立ち上がる。
「俺も行きます! さっきみたいに追い払ったらええんでしょう?」
真二も続いた。
大河は二人の顔を見た。健太郎には疲れが残り、真二の頬は先ほどの喧嘩で腫れている。
「ちょっと待ってな」
大河は浩介の机へ歩み寄った。
「兄貴、今出とる連中、どこにおるか分かります?」
「ここに二人、こっちに三人。ほかにも何人かおる」
「その人ら、現場を離れられそうですか? 近くにおる人に様子を見てもろたほうが早いかもしれません」
「そうやな。確認してみるわ」
浩介が電話をかけ始める。
大河は健太郎と真二へ向き直った。
「二人とも、今は休んどいてくれへんか」
「……俺は大丈夫です」
「俺も平気ですよ!」
「また別の場所で揉め事が起きたら、二人に頼むこともあるかもしれへん。そのときに疲れ切っとったら困るやん?」
真二は何か言いかけたが、健太郎が先に頷いた。
「……分かりました」
「ありがとうな」
やがて浩介が電話を切った。
「大河、近くにおった奴らが、ちょうど戻るところやった。そっちの店を確認してもらうわ」
「よかったです」
「ただ、もう一か所はすぐに動ける奴がおらん。待ってもらうしかないな」
大河は地図を見つめた。
蓮組は約九十人。
水仙組は約三十人。
健太郎や真二がどれほど強くても、同時に二か所へ行くことはできない。
人数の違いは、喧嘩の強さだけでは埋まらなかった。
◇
夜になり、事務所には少しばかり落ち着きが戻っていた。
組員たちは交代で食事や休憩を取り、加藤と浩介が一日の報告をまとめている。
「組長、大きな被害は出てません。ただ、怪我人が何人かおりますし、店からの相談も増えとります」
加藤の報告に、浩二は書類をめくった。
「向こうは?」
「まだ動ける人間がおるようです。昼に引いた場所へ、夕方には別の連中が来とります」
「そうか……」
「このままやと、うちの連中が先に疲れ切ってしまいますわ」
浩介も頷いた。
「今日だけでも、同じ奴が二か所、三か所と走り回っとります。今は何とかなっとりますけど……」
浩二は報告書を閉じた。
「怪我しとる奴は休ませろ。店の人間にも無理させるな。ただ、全部の店を見捨てるわけにもいかん。明日も状況を見ながら動かすしかないな」
「分かりました」
部屋の隅では、健太郎と真二が並んで座っていた。
「大河さん」
「ん? どないした?」
「……俺にできることがあったら、何でも言うてください」
「ありがとうな、健太郎」
「俺もですよ!」
真二が身を乗り出す。
「次に蓮組の連中が来たら、俺が追い払いますから!」
「真二、お前はまず頬の腫れ引かせなあかんな」
「これぐらい何ともないですって!」
「ほんまか? さっき飯食うとき、ちょっと痛そうにしとったやん」
「見てたんですか!」
真二が慌てると、健太郎が小さく笑った。
「……痛そうやった」
「健太郎まで言わんでええねん!」
大河もつられて笑った。
「二人とも、頼りにしとるで。せやけど、無理だけはせんといてな」
健太郎と真二が頷いた。
大河は机へ戻り、報告書を手に取った。
朝、健太郎たちが守った居酒屋。昼、真二たちが蓮組を退けた通り。
どちらも相手を追い払ったと記されている。
だが、その下には負傷した組員の名前や、店からの相談が続いていた。
「大河、そっちの報告、まとめ終わったか?」
「はい、兄貴。今持っていきます!」
大河が書類を揃えたところで、事務所の電話が鳴った。
近くの組員が受話器を取り、相手の話を聞き始める。
大河は足を止めた。
今日だけで、何度目の電話だろうか。
組員がメモを取り始めるのを見て、大河は揃えた書類を机に置いた。
抗争三日目の夜。
蓮組の攻勢は、まだ終わっていなかった。




