第29話 内なる敵
蓮組が水仙組の縄張りへ攻勢をかけ始めてから、一夜が明けた。
朝から水仙組の事務所には電話が相次ぎ、組員たちは受話器を片手に慌ただしく動き回っていた。
「また蓮組の連中が来たんですわ。昨日も断ったのに、今日も店の前に立っとって……」
電話の向こうから聞こえてくる店主の声に、加藤は眉を寄せた。
「分かりました。こちらでも確認しますんで、今は相手にせんといてください」
受話器を置くと、加藤は手元の紙に店の名前を書き加えた。すでに同じような報告が何件も並んでいる。
「勝、今度はどこや」
奥の席から浩二が尋ねた。
「商店街の居酒屋です。蓮組の若い衆が店の前に居座っとるそうですわ」
「客には手ぇ出しとらんのか」
「今のところは。ただ、店に入ろうとした客が引き返しとるみたいです」
浩二は小さく頷いた。
「店の人間には、無理せんよう伝えといてくれ。こっちの組員にも、勝手に揉め事を起こさんよう徹底させるんや」
「分かりました」
そのとき、隣の机で電話を受けていた浩介が声を上げた。
「何やて? お前、今どこにおるんや」
受話器を耳に押し当てたまま、机の上の地図へ手を伸ばす。
「分かった。そこから動くな。こっちから人を向かわせる」
電話を切ると、浩介は大河を呼んだ。
「大河、ちょっとこっち来てくれ」
「はい、兄貴!」
「蓮組の連中と、うちの若い衆が揉めたらしい。大した怪我はないみたいやけど、念のため確認せなあかん」
「もう喧嘩になったんですか?」
「向こうが突っかかってきたらしい。こっちも黙っとられへんかったんやろな」
浩介は額を押さえた。
「ほんま、次から次へと……」
大河は机の上に散らばった報告書へ目を向けた。
昨日まで、それぞれの持ち場で仕事をしていた組員たちが、今は互いの無事を確かめるだけでも手間取っている。蓮組が動くたびに、こちらも人を割かなければならなかった。
「兄貴、俺にできることあったら言うてくださいね」
「ああ、頼むわ。とりあえず、連絡つかん連中に電話かけてくれ」
「了解です!」
大河は空いている席に腰を下ろし、渡された番号へ電話をかけ始めた。
その間にも、事務所の奥では智史が声を荒らげていた。
「せやから、勝手に手ぇ出すな言うとるやろ! 向こうが何人おる思うとんねん!」
電話を切った智史は、不機嫌そうに受話器を置いた。
「親父、このままやったら、うちの連中が先に参ってまいますわ」
「分かっとる」
「分かっとるんやったら、何とかせなあきませんやろ」
「今、そのために動いとるんや」
浩二の静かな返答に、智史は口をつぐんだ。
まだ大きな被害は出ていない。それでも、昨日まで当たり前に続いていた仕事が、少しずつ滞り始めていた。
◇
昼を過ぎた頃、浩介が電話帳を片手に大河のところへやって来た。
「大河、ちょっと頼まれてくれへんか」
「何です?」
「朝から連絡つかん奴がおるんや。昨日、蓮組の連中を見かけたいう場所の近くで仕事しとったはずなんやけどな」
「電話は?」
「何回かかけたけど出えへん。ほかの連中も手ぇ離されへんし、お前、様子見てきてくれへんか」
「分かりました。すぐ行ってきます!」
「無理はすんなよ。向こうの連中がおっても、一人で揉めるな」
「大丈夫ですって。俺、そんな喧嘩っ早ないですから」
「どの口が言うとんねん」
浩介が呆れたように笑う。
大河も笑い返すと、教えられた場所を確かめて事務所を出た。
六月の昼下がりは蒸し暑く、歩いているだけで背中に汗がにじんだ。
大通りから一本入った道を進み、古い建物が並ぶ一角へ差しかかる。表通りの車の音は遠ざかり、開け放された窓からテレビの音がかすかに漏れていた。
角を曲がろうとした、そのときだった。
背後で靴底が地面を擦る音がした。
振り向くより早く、何者かが拳を振り下ろしてくる。
大河は身体を横へずらした。
拳が肩先をかすめ、男は勢い余って一歩踏み込む。
「何や、いきなり!」
大河が距離を取ると、男は顔を隠すように黒い布を巻いていた。
男は答えず、再び殴りかかってきた。
大河はその腕を払い、懐へ踏み込んで相手の胸元を突いた。男がよろめいたところへ足をかけると、あっけなく地面に尻餅をつく。
「蓮組の人ですか? こんなとこで待ち伏せなんかせんでも、話ぐらい聞きますよ」
男は立ち上がるなり、また拳を振るった。
今度は大河が腕をつかみ、身体をひねって壁際へ押しやる。
「ちょっ、落ち着いてくださいって!」
男は肩を激しく揺すって逃れようとしたが、大河の手は離れない。
そのとき、男のもう片方の手が上着の内側へ入った。
取り出されたものを見て、大河の表情が変わる。
拳銃だった。
男が銃口を向けるより早く、大河はその手首をつかんだ。
「おい、何しとんねん!」
銃口を外側へ押しやる。
男は腕を引こうとしたが、大河に押さえ込まれ、思うように動かせない。焦ったように身体をよじり、空いた手で大河の肩を押し返してきた。
「離せ! 離せや!」
「そっちこそ、それ離さんかい!」
大河が拳銃を持つ腕を押さえたまま男の体勢を崩そうとした瞬間、男の指が動いた。
乾いた破裂音が、狭い路地に響き渡った。
一瞬、耳の奥で甲高い音が鳴った。
頬に熱いものが走る。
大河がわずかに顔を引くと、男は拳銃を握ったまま固まっていた。
「……あ、ああ……」
男の視線は、大河の顔へ向けられていた。
大河が頬に触れると、指先に赤いものがついた。
血だった。
あとわずかに弾道がずれていれば、どうなっていたか分からない。
大河は男の手首を強く押さえ、拳銃を取り上げた。そのまま相手の腕を背中へ回し、地面に押さえつける。
「動かんといてください」
男は抵抗しなかった。
荒い息を吐きながら、地面に顔を向けている。
「……撃つつもりなんか、なかったんや」
震える声が聞こえた。
大河は返事をせず、男の手が再び動かないことを確かめた。
◇
「さて、と」
大河は男の背後に回ったまま、顔を覆っていた布へ手を伸ばした。
「どこの誰か、顔ぐらい見せてもらいましょか」
布を引き下ろした途端、大河の手が止まった。
「……長野?」
男は顔を背けた。
そこにいたのは、同じ水仙組の組員、長野伸介だった。
「何でお前が、こんなことしてんねん」
「……」
「長野、聞いとるんか?」
「す、すまん……」
大河は長野の腕を押さえたまま、顔を覗き込んだ。
「謝る前に説明してくれへんか。俺、危うく撃たれるとこやったんやで」
長野は唇を震わせた。
「俺は……こんなつもりやなかったんや」
「ほな、どういうつもりやったん?」
「ちょっと、お前を痛い目に遭わせるだけやと……」
「誰に言われたんや」
長野は答えなかった。
大河は頬を伝う血を袖で押さえた。傷口がじんじんと痛んだが、今はそれより確かめたいことがあった。
「長野。俺ら、同じ組の人間やろ。誰の指示かぐらい、ちゃんと言うてくれ」
「……若頭や」
「智史さん?」
長野は小さく頷いた。
「若頭に言われたんや。お前、最近調子乗っとるから、ちょっと懲らしめたれって」
「それで拳銃まで持ってきたんか?」
「それも……若頭が渡してくれた」
大河は長野の顔を見た。
「拳銃で俺を撃てって言われたん?」
「ちゃう! そんなん言われてへん!」
長野は慌てて首を振った。
「脅したらええって。ちょっと怖がらせて、痛い目に遭わせたら、それでええって……」
「ほな、何で撃ったんや」
「撃つつもりなんかなかった! お前が腕つかんで、俺も焦って……気ぃついたら音がして……」
長野の目が大河の頬へ向いた。
再び血がにじんでいるのを見て、顔を青ざめさせる。
「ほんまに、殺すつもりなんかなかったんや。信じてくれ……」
大河はしばらく黙っていた。
蓮組の人間に襲われたのなら、まだ理解できる。互いの縄張りをめぐって争っている以上、こうした危険は覚悟していた。
だが、目の前にいるのは同じ組の人間だった。
「……分かった」
大河は短く答えた。
「とりあえず、事務所戻ろか」
「えっ?」
「組長に話してもらわなあかんやろ。俺だけで済ませられる話ちゃうし」
長野は何か言いかけたが、結局うつむいた。
大河は拳銃を長野から離して持ち、逃げないよう注意しながら立たせた。
路地を出る頃には、頬を押さえた袖にも血がついていた。
◇
「何やと……?」
報告を聞いた浩二の声が低くなった。
事務所の奥の部屋には、浩二と加藤、浩介が集まっていた。大河は頬に応急処置を受け、椅子に腰掛けている。
その前で長野が正座していた。
「智史を呼べ」
浩二の一言で、浩介が部屋を出た。
間もなく智史が入ってくる。
「親父、何ですの。今、外の連中と連絡取っとる最中で……」
智史は大河の頬に当てられたガーゼを見て、言葉を止めた。
「座れ」
浩二が命じる。
「……何ですか、いったい」
「長野。もう一回、説明せえ」
長野は智史を一度見上げたあと、視線を畳へ落とした。
「若頭に……大河を痛い目に遭わせろ言われました」
「おい、長野!」
智史が声を上げる。
「黙っとれ!」
浩二の怒声に、智史は口を閉じた。
「続けろ」
「拳銃も、若頭から渡されました。脅すためや言われて……」
「ほんで、撃ったんか」
「ち、違います! 撃つつもりはなかったんです! 大河に押さえられて、逃げようとしたら……」
長野はそれ以上、うまく言葉にできなかった。
浩二は智史へ顔を向けた。
「智史。今の話、ほんまか」
「……そら、痛い目に遭わせたれとは言いましたわ」
智史は不満そうに答えた。
「最近の大河は調子に乗りすぎとるんです。若い衆のくせに、勝手なことばっかりしよって」
「拳銃は?」
「渡しました。けど、脅すためですわ。撃てなんて一言も言うてません!」
「お前……」
浩二の眉間に深い皺が刻まれた。
「今、何が起きとるか分かっとるんか」
「分かっとりますよ! せやけど、俺は殺せなんて命令してへん!」
「そんな話をしとるんやない!」
浩二が机を叩いた。
部屋に鋭い音が響き、長野の肩が跳ねた。
「蓮組と揉めとる真っ最中に、何で身内に手ぇ出させるんや! それも拳銃まで持たせて!」
「せやから、脅すだけのつもりやったんです!」
「脅すだけで済まんかったやろが!」
浩二は大河の頬を指さした。
「見てみい! もうちょっとずれとったら、大河は死んどったかもしれんのやぞ!」
智史は一瞬言葉に詰まったが、すぐに長野を睨みつけた。
「そんなん、こいつが下手打ったからですやろ! 俺は撃てなんて言うてへん!」
「わ、若頭……」
「お前が勝手に慌てたんやろが!」
「智史さん」
それまで黙っていた加藤が口を開いた。
「長野が撃つつもりやなかったんは分かりました。せやけど、拳銃を持たせて大河を襲わせたんは、あなたの指示でしょう」
「何が言いたいんですか」
「抗争中に身内を襲わせたこと自体が問題や言うとるんです。しかも、拳銃まで渡しとる。こんなことが許されたら、組の中で誰が誰を信用できるんですか」
「俺が悪い言うんですか!」
「悪ないと思うとるんですか?」
加藤の声は静かだった。
智史が立ち上がりかける。
「勝さん、あんた――」
「座れ、智史」
浩二の声が割って入った。
智史は加藤を睨んだまま、渋々腰を下ろした。
浩介は壁際で腕を組み、険しい顔をしていた。
「若頭、俺からも一つええですか」
「何や」
「大河が何したいうんですか。気に入らんことがあるんやったら、直接言うたらよろしいやないですか」
「お前まで俺に説教するんか」
「説教やありません。理由を聞いとるんです」
「……もうええ!」
智史は顔を背けた。
大河はそのやり取りを黙って見ていた。
頬の傷は、ガーゼの下でまだ熱を持っている。
だが、ここで自分が口を挟んでも、事態が良くなるとは思えなかった。
◇
「長野」
しばらくして、浩二が口を開いた。
「お前は当分、謹慎や。わしが許可するまで、組の仕事には出るな」
「……はい」
「自分が何をしたんか、よう考えろ」
長野は深く頭を下げた。
浩二は続いて智史へ目を向けた。
「お前もや」
「……はい」
「若頭いう立場の人間が、身内を襲わせるなんぞ、あってええことやない。今度同じようなことしたら、息子やからいうて許さんぞ」
智史は唇を結んだまま頷いた。
「分かったら、もう行け」
長野が立ち上がり、智史のあとについて部屋を出ていく。
扉が閉まると、加藤が浩二へ向き直った。
「組長。一つ、よろしいですか」
「ああ」
「長野の謹慎は分かります。けど、智史さんはあれだけですか」
浩二は答えなかった。
「襲撃を指示して、拳銃まで渡したんです。長野だけ謹慎で、指示した若頭には叱責だけいうんは……」
「勝」
浩二が低く呼んだ。
加藤は口を閉じたが、視線を逸らさなかった。
浩二は机の上に置いた両手を見つめていた。
若頭が自分の判断で組員を襲わせ、危うく命を奪うところだった。加藤の言うとおり、組の秩序に関わる問題だった。
それでも、智史を呼び戻して処分を言い渡す言葉は、すぐには出てこなかった。
「……分かっとる」
長い沈黙のあと、浩二が呟いた。
「お前の言いたいことは、分かっとる」
加藤はそれ以上、何も言わなかった。
浩介も口を開きかけたが、大河の姿を見て思いとどまった。
当の大河は、膝の上に置いた手を動かさずに座っている。
「大河」
浩二が呼びかけた。
「はい」
「……すまんな」
「何で組長が謝るんですか」
大河はいつもの調子で答えた。
「俺、こうして無事ですし。傷も大したことないですから」
浩二は大河の頬を見た。
白いガーゼの端に、薄く血がにじんでいた。
「……そうか」
浩二はそれだけ言うと、椅子に深く腰を下ろした。
続けて何か話そうとしたが、言葉が途切れる。
「組長?」
加藤が顔を覗き込んだ。
浩二は片手を軽く上げ、ゆっくり息を吐いた。
「……歳やな」
「しんどいんやったら、少し休んでください」
「大丈夫や。ちょっと怒鳴りすぎただけや」
浩二は苦笑し、背もたれに身体を預けた。
加藤はしばらく様子を見ていたが、浩二の呼吸が落ち着いてくると、机の上の書類を揃えた。
「蓮組の件は、俺らで対応しときます」
「いや、報告だけは上げてくれ。今、手ぇ止めるわけにはいかん」
「……分かりました」
浩二は頷き、再び書類へ手を伸ばした。
◇
夕方になっても、事務所の電話は鳴りやまなかった。
大河は頬に新しいガーゼを当ててもらい、浩介の隣で各所からの報告を整理していた。
「大河、ほんまに大丈夫なんか?」
浩介が尋ねる。
「大丈夫ですって。ちょっとかすっただけですやん」
「ちょっと、で済むかいな。拳銃やぞ」
「そら、びっくりしましたけどね。あんな音、耳元で聞いたん初めてですわ」
大河は笑ってみせた。
浩介は呆れたように首を振る。
「お前、ようそんな平気な顔できるな」
「兄貴がそんな顔してたら、俺まで怖なってまいますやん」
「アホ。心配しとるんや」
「分かってます。ありがとうございます」
大河が頭を下げると、浩介はそれ以上何も言わず、手元の報告書へ視線を戻した。
その横顔を見ながら、大河は頬に残る鈍い痛みを意識していた。
蓮組との争いは、まだ始まったばかりだった。
外には九十人近い敵がいる。それだけでも厄介だというのに、組の中にも自分を襲わせる人間がいた。
しかも、その男は若頭であり、組長の息子だった。
今回、長野は謹慎となったが、智史はそのまま若頭の座にいる。
浩二が自分を大切に扱ってくれていることは分かる。浩介や加藤も、信頼できる人間だった。
だが、それだけでは防げないことがある。
大河は机の上に置かれた報告書へ目を落とした。
このままでは、いずれ同じことが起きるかもしれない。
そのとき、電話が鳴った。
「大河、そっち頼む!」
浩介が別の受話器を握ったまま声をかけてくる。
「はい、兄貴!」
大河はすぐに電話を取った。
「お疲れさまです、水仙組です!」
受話器の向こうから、組員の切羽詰まった声が聞こえてきた。
蓮組の連中が、また別の店に現れたらしい。
大河は相手の話を最後まで聞き、必要なことを紙に書き留めた。
「分かりました。すぐ兄貴に伝えますんで、無茶せんといてくださいね」
電話を切ると、浩介へ報告を渡した。
窓の外では、夕暮れの街に明かりがともり始めていた。
頬の傷はまだ痛んだが、大河はガーゼに触れることなく、次の電話へ手を伸ばした。
水仙組と蓮組の争いは、まだ二日目を迎えたばかりだった。




