第28話 開戦の決定
水仙組と蓮組の会談が物別れに終わった翌日、百合組本部には、組長の神崎豪をはじめとする幹部たちが集まっていた。
応接室の中央に置かれたテーブルには、ほとんど手のつけられていない茶が並んでいる。
「桔梗組のほうから、返事が来とります」
幹部の一人が口を開いた。
「向こうは、蓮組の若い衆が加藤を殴ったことについては認めとります。ただ、水仙組が先に縄張りへ手ぇ出したんが原因やと」
「先に手ぇ出した、か」
神崎は煙草を灰皿に押しつけた。
「店に付き合いを持ちかけたことと、相談役を殴ることが同じやと思うとるんか」
「向こうの言い分では、縄張りを荒らされた以上、蓮組にも面子があるそうです」
神崎は返事をせず、背もたれに身体を預けた。
水仙組と蓮組の揉め事は、もはや当事者だけの問題ではなくなっていた。
百合組の傘下組織の相談役が、桔梗組の傘下組織に殴られた。それを黙って見過ごせば、ほかの傘下組織にも示しがつかない。
だが、ここで百合組が動けば、桔梗組も引くわけにはいかなくなる。
「向こうは何を望んどる」
「これ以上、百合組が口を出さんことです。その代わり、桔梗組も蓮組には手ぇ貸さんと」
「……つまり、下の連中だけで決着つけさせよういうことか」
「そういう話です」
神崎はしばらく考え込んだ。
水仙組の組員は三十人ほど。それに対して蓮組は九十人近くを抱えている。
まともにぶつかれば、どちらが不利かは明らかだった。
「水仙組が潰されても、うちは黙っとれいうことやな」
「協定を結ぶなら、そうなります」
幹部の言葉に、神崎は眉間へ深い皺を寄せた。
「豪さん、こんな条件を呑んだら、柳の親父が納得せんのと違いますか」
別の幹部が尋ねる。
「納得するかどうかやない」
神崎は低い声で答えた。
「ここで桔梗組と全面抗争になったら、何人の人間が巻き込まれると思うとる。水仙組一つのために、百合組全部を危険にさらすわけにはいかん」
誰も反論しなかった。
神崎は立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
「ただし、条件は同じや。うちが手ぇ出さん代わりに、向こうも絶対に手ぇ出さん。ほかの傘下も含めてや」
「はい」
「どっちが勝っても、あとから報復することもなしや。それをはっきりさせとけ」
「承知しました」
神崎は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
柳浩二とは長い付き合いだった。あの男が、簡単に組を投げ出すような人間でないことも知っている。
それでも、今回ばかりは助けてやれない。
「……柳の親父には、悪いことするな」
その呟きに答える者はいなかった。
その後、百合組と桔梗組の間で、双方の傘下組織による争いには一切介入しないという取り決めが成立した。
水仙組と蓮組の争いは、両組織だけで決着をつけることになったのである。
◇
その日の午後、水仙組の事務所を山城亮が訪れた。
「山城さん、わざわざすんません」
柳浩二が立ち上がろうとすると、山城は片手を上げた。
「そのままで結構です。今日は神崎の親分から預かった話を伝えに来ました」
応接用の椅子に山城が腰を下ろす。
浩二の隣には相談役の加藤勝が座り、少し離れた場所に柳智史と林浩介が控えていた。大河も浩介の横に立っている。
「桔梗組との話はつきました」
山城は一同を見渡した。
「今回の水仙組と蓮組の件について、百合組も桔梗組も介入せんことになりました」
「……介入せん?」
智史が思わず聞き返した。
「そうです。ほかの傘下組織も含めて、援軍は出せません。どちらが勝とうと、その結果を理由に報復することもありません」
事務所に沈黙が落ちた。
浩介は隣の大河へ視線を向けたが、大河は山城の話を聞いたまま動かなかった。
「ちょっと待ってください」
智史が口を開いた。
「蓮組は九十人近くおるんですよ。うちは三十人ほどしかおらんのに、それで勝手にやれいうことですか」
「そういう取り決めです」
「そんなん、最初から向こうが有利やないですか!」
「智史」
浩二が静かに制した。
智史は不満そうに口を閉じる。
「山城さん。神崎の親分が、よう考えて決めはったことなんでしょうな」
「ええ。百合組と桔梗組が正面からぶつかることだけは避けたいと」
「分かりました」
浩二はゆっくり頷いた。
「親分の判断に、わしから文句を言うつもりはありません」
山城は少しだけ表情を和らげた。
「柳の親父さんには、厳しい話やと思います」
「厳しいからいうて、ほかの組に迷惑かけるわけにもいきませんわ」
浩二はそう答えたものの、その顔には疲労がにじんでいた。
「ただ、できることなら話し合いで収めたいと思うとります」
「それができるなら、一番ええでしょう」
山城は立ち上がった。
「神崎の親分も、水仙組が無事に収まることを願うとります」
「ありがとうございます。親分にも、よろしゅうお伝えください」
山城を見送ったあと、浩二は事務所に残った面々を振り返った。
「全員、座れ。今後のことを話す」
◇
「親父、これは無茶ですわ」
真っ先に口を開いたのは智史だった。
「三十人で九十人を相手にするなんて、勝てるわけないやないですか。ここは一回、引いたほうがええと思います」
「引くいうても、どこまで引くんや」
加藤が尋ねた。
「向こうが欲しがっとる店を、いくつか渡したらええんと違いますか」
「それで済む保証があるんか?」
「そら、分かりませんけど……」
「勝手にうちの縄張りへ入ってきて、付き合いのある店に圧力かけて、おまけに相談役まで殴っとる。ここで何も言わず譲ったら、次も同じことされるぞ」
加藤の声は荒くなかった。
しかし、その言葉には譲れないものがあった。
「俺かて、戦争したいわけやない。ただ、組として通さなあかん筋はあるやろ」
「加藤さんの言うとおりです」
浩介も口を挟んだ。
「向こうは、うちのことを完全になめとります。あのまま引いたら、ほかの店まで離れていきますよ」
「ほな、どうするんや!」
智史が声を上げた。
「お前ら、気持ちだけで勝てる思うとるんか!」
「誰もそんなこと言うてませんやろ」
浩介が言い返しかけたところで、浩二が机を軽く叩いた。
「そこまでや」
二人が口を閉じる。
「智史の言うことにも一理ある。まともにぶつかったら、こっちの被害は大きい」
浩二は加藤へ目を向けた。
「せやけど、勝の言うように、何もかも譲るわけにもいかん」
「はい」
「まずは、もう一度話し合う。向こうがどこまで求めとるんか、はっきりさせるんや」
加藤は頷いた。
そのやり取りを、大河は黙って聞いていた。
百合組も桔梗組も手を出さない。
つまり、蓮組を倒したとしても、その背後にいる桔梗組との戦いを心配する必要はない。
もちろん、九十人を抱える相手に三十人で勝つことは容易ではない。今のところ、その方法も見えていなかった。
だが、勝てばどうなる。
これまで格下と見られていた水仙組が、三倍の戦力を持つ相手を倒したとなれば、その功績は小さくない。
大河は浩二へ視線を向けた。
この組で自分の立場を高めるには、悪くない機会かもしれない。
「大河、お前はどう思う?」
突然、浩介に声をかけられた。
「えっ、オレですか?」
「ああ。さっきから黙っとるやろ」
大河は少し考える素振りを見せた。
「そら、話し合いで済むんやったら、それが一番ええと思いますけど……向こうが引いてくれるかどうかですよね」
「まあ、そうやな」
「とりあえず、組長の言うとおりにするんがええと思います」
浩介は頷き、再び浩二へ顔を向けた。
大河もそれ以上は何も言わなかった。
まだ、勝てると決まったわけではない。
勝ち方も分からないうちから、自分の考えを口にする必要はなかった。
◇
話し合いが終わり、組員たちがそれぞれの仕事へ戻ると、事務所には浩二だけが残った。
机の上には、蓮組との交渉に関する書類が置かれている。
浩二は一枚を手に取ったが、途中で動きを止めた。
「……ふう」
ゆっくり息を吐き、椅子の背もたれに身体を預ける。
胸の奥が重く、いつもより呼吸が浅い。
しばらく目を閉じていると、廊下から足音が聞こえてきた。
「組長、ちょっとよろしいですか」
加藤だった。
「ああ、入れ」
加藤は扉を開けると、浩二の様子を見て足を止めた。
「……組長、しんどいんですか?」
「何がや」
「いや、顔色があんまり良うないんで」
「大したことあらへん。歳やな」
浩二は苦笑した。
「昔やったら、こんなことで疲れへんかったんやけどな」
「無理せんといてくださいよ」
「分かっとる」
浩二は姿勢を正した。
「それより、蓮組への連絡はどうなっとる」
「今、先方に話を通しとります。返事が来たら、すぐ報告します」
「頼むわ」
加藤が退出すると、浩二は再び書類へ目を落とした。
窓の外から、車の走る音が聞こえてくる。
この争いを収められなければ、組員たちを危険にさらすことになる。
浩二は手元の書類を揃え、次の連絡を待った。
◇
一方、蓮組の事務所では、諏訪昇が上機嫌で煙草をふかしていた。
「百合組も手ぇ出さんいうことやな」
「はい。桔梗組のほうからも、そのように伝わっとります」
西條渡が答えた。
「ほな、話は早いやないか」
諏訪は口元を緩めた。
「水仙組なんぞ、三十人ほどしかおらん。こっちは九十人や。まともにやり合うたら、どっちが勝つか分かりきっとる」
「人数だけで決まるもんでもありません」
西條が静かに言った。
諏訪の眉がわずかに動く。
「何や、不安でもあるんか」
「そういうわけやありません。ただ、抗争になれば、こっちにも怪我人は出ます。店への影響も考えなあきません」
「そんなもん、最初から分かっとる」
諏訪は煙草の灰を落とした。
「せやけど、ここで引いたら、うちの縄張りに勝手に入ってきてもええいうことになるやろ」
「それはそうですが」
「水仙組に一回、分からせたらええんや。誰の縄張りに手ぇ出したんかをな」
西條はそれ以上、反論しなかった。
諏訪は椅子に深く腰掛け、天井へ煙を吐き出した。
「柳の親父も、もうええ歳やろ。今さら戦争なんかしたないはずや」
「向こうから、もう一度話し合いたいと連絡が来とります」
「ほう」
「加藤の件も含めて、落としどころを探りたいそうです」
諏訪は鼻で笑った。
「今さらか。あいつらも、ようやく立場が分かってきたんやろ」
西條は黙って諏訪の返事を待った。
「話ぐらいは聞いたる。ただし、こっちから頭下げるつもりはないで」
「分かりました」
西條が部屋を出ると、諏訪は再び煙草を口へ運んだ。
百合組が出てこない以上、水仙組を恐れる理由はない。
諏訪にとって、今回の争いは自分たちの力を示す絶好の機会だった。
◇
翌日、水仙組と蓮組の間で、改めて話し合いが行われた。
しかし、交渉は最初から難航した。
「加藤の件については、若い衆が勝手にやったことやと説明したはずです」
蓮組側の返答に、加藤は表情を変えずに答えた。
「説明は聞いとります。せやけど、それで全部終わりいうわけにはいきませんやろ」
「そもそも、そちらがうちの縄張りに入ってきたんが原因でしょう」
「店に付き合いを持ちかけただけです。無理強いしたわけやありません」
「それをされるだけでも、こっちには迷惑なんですわ」
互いの主張は噛み合わなかった。
水仙組側は、加藤への暴行について筋の通った対応を求めた。
蓮組側は、水仙組が自分たちの縄張りから完全に手を引くことを要求した。
どちらも譲らず、話し合いは結論の出ないまま終わった。
その報告を受けた諏訪は、机を指で叩いた。
「まだ、そんなこと言うとるんか」
「向こうも簡単には引かんようです」
西條が答える。
「柳の親父も、よう意地張るな」
諏訪はしばらく考えたあと、椅子から立ち上がった。
「もうええわ」
「組長?」
「話し合いは終わりや」
西條が諏訪を見た。
「……動くんですか」
「ああ。こっちが本気やいうことを、分からせたらええ」
諏訪は事務所にいた組員へ声をかけた。
「各所に連絡入れろ。水仙組の縄張りへ入るぞ」
組員が慌ただしく動き始める。
西條は一度だけ諏訪へ目を向けたが、何も言わずに指示を伝えに向かった。
◇
その日の夕方、水仙組の事務所に一本の電話が入った。
「はい、水仙組です」
受話器を取った浩介の表情が変わった。
「……何やて?」
相手の話を聞くうちに、眉間へ皺が寄る。
「分かった。こっちでも確認する。お前ら、無理に手ぇ出すなよ」
電話を切った直後、別の電話が鳴った。
「浩介、何や」
加藤が尋ねる。
「蓮組の連中が、うちの付き合いのある店に何軒も回っとるみたいです。しかも、組員が揉めとるいう連絡も入ってます」
「何やと?」
浩介が次の電話に出る。
今度は、水仙組の組員が蓮組の人間に囲まれたという報告だった。
加藤はすぐに浩二のもとへ向かった。
「組長、蓮組が動き始めました」
浩二は書類から顔を上げた。
「どの程度や」
「複数の場所で同時に揉め事が起きとります。店にも連中が回っとるようです」
そこへ智史も駆け込んできた。
「親父、大変ですわ! 向こう、ほんまにやる気です!」
「落ち着け」
浩二は立ち上がった。
「まず、今どこで何が起きとるんか、全部確認せえ。連絡が取れん組員がおったら、すぐ知らせろ」
「はい!」
「勝、お前は店のほうを頼む。浩介は組員の状況をまとめろ」
「分かりました」
加藤と浩介が動き始める。
智史はまだ落ち着かない様子だった。
「親父、どうするんですか。このままやったら……」
「智史」
浩二は息子を見た。
「今は慌てとる場合やない。お前も自分の仕事をせえ」
「……はい」
智史が電話へ向かう。
事務所の中では、受話器の呼び出し音と組員たちの声が絶え間なく響いていた。
大河は壁際に立ち、その様子を見ていた。
蓮組が動いた。
交渉によって争いを収める道は、少なくとも今は閉ざされた。
水仙組三十人に対し、蓮組九十人。
単純に考えれば、こちらが圧倒的に不利だった。
「大河!」
浩介の声が飛んできた。
「はい、兄貴!」
「お前も手ぇ貸してくれ。連絡つかん連中がおるんや」
「分かりました!」
大河はすぐに机へ向かった。
電話を受け取りながら、事務所の中を見渡す。
誰もが目の前の対応に追われていた。
浩二は組員たちへ指示を出し、加藤は各所への連絡を続けている。浩介も次々と入る報告を整理していた。
大河は受話器を耳に当てた。
戦は始まったばかりだ。
相手が三倍の兵を抱えていようと、必ずしも勝敗が決まったわけではない。
だが、今はまだ敵の動きも、その隙も見えていない。
大河は電話の向こうから聞こえてくる報告に耳を傾けた。
こうして、水仙組と蓮組の抗争が幕を開けた。




