第27話 敵地へ
翌朝、水仙組の事務所には、普段より早い時間から数人の組員が集まっていた。
六月の湿った風が開け放した窓から入り込み、机の上に置かれた書類の端を揺らしている。加藤は集まった顔ぶれを確認すると、壁際に立つ浩介と大河へ視線を向けた。
「昨日も話したとおり、今日は蓮組の縄張りにある店を回る。付き合いを持ちかけるだけや。断られても無理強いはせん」
組員たちが頷くのを見て、加藤は続けた。
「向こうの連中が出てきても、こっちから手ぇ出すな。何を言われてもや。危ないと思うたら、俺の判断で引き揚げる」
「分かりました」
浩介が答えると、大河も隣で勢いよく頭を下げた。
「任せてください、加藤さん。俺、余計なことはしませんから」
「お前が一番心配なんやけどな」
「兄貴、信用なさすぎません?」
浩介に呆れた顔を向けられ、大河は困ったように笑った。そのやり取りに数人の組員が笑みを浮かべたが、加藤の表情は緩まなかった。
今回の策を考えたのは大河だ。蓮組が先に暴力を振るえば、それを交渉材料にする。相談役である自分が殴られることまで想定した、危険な策だった。
「大河。昨日、親父に言われたこと、忘れてへんやろな?」
「はい。勝手な行動はせんと、加藤さんの指示に従います」
「それでええ。ほな、行こか」
加藤が先に事務所を出ると、組員たちも後に続いた。
大河は最後に扉を閉め、先を歩く加藤の背中を見つめた。
相手が引けば、それでよい。だが、向こうが力に訴えるのであれば、こちらにも戦う理由が生まれる。
男にとって、交渉は数ある手段の一つにすぎなかった。蓮組を打ち破り、その縄張りまで奪えるのであれば、むしろ望むところである。
もっとも、その考えを今ここで口にするつもりはなかった。
最初に訪れたのは、繁華街の一角にある居酒屋だった。
開店準備中の店内で加藤が事情を説明すると、店主は何度も頭を下げた。
「せっかく来てもろたんですけど、うちは昔から蓮組さんに世話になってますんで……」
「無理にとは言いません。気が変わったら、いつでも声かけてください」
加藤はそれ以上食い下がらず、店を後にした。
二軒目の焼き鳥屋でも、三軒目の小料理屋でも反応は似たようなものだった。
ある店主は蓮組の名前を聞いただけで声を落とし、別の店主は周囲を気にしながら、早く帰ってほしいと頼んできた。
「……どこもあかんな」
四軒目を出たところで、浩介がため息をついた。
「まあ、最初から簡単にいくとは思うてへんかったけどな」
加藤はそう答え、次の店へ向かおうとした。
「加藤さん」
大河が呼び止める。
「さっきの店の親父さん、蓮組に世話になってる言うてましたけど、あんまり嬉しそうには見えませんでしたね」
「そら、付き合いにもいろいろあるやろ」
「そうですよね。好きで付き合うてる店ばっかりやないんかもしれません」
大河は何気ない調子で言ったが、男は店主たちの反応を一つずつ思い返していた。
長年の付き合いを理由に断った者もいれば、ただ面倒を避けたそうな者もいた。蓮組の縄張りだからといって、すべての店が心から従っているわけではない。
その違いは、いずれ役に立つ。
だが、五軒目へ向かおうとしたところで、一行の前に三人の男が現れた。
「おい。お前ら、水仙組の連中やな?」
先頭の男が道を塞ぎ、加藤を睨みつける。
「そうやけど、何か用か?」
「何か用か、やと? 人の縄張りで勝手に店回っといて、よう言うわ」
男の後ろにいた二人も、逃がさないとばかりに左右へ広がった。
浩介が一歩前へ出ようとしたが、加藤が片手を上げて制する。
「店に話をしに来ただけや。嫌や言われたら引き下がっとる。それ以上のことはしてへん」
「そういう問題ちゃうやろ。ここがどこの縄張りか分かっとんのか!」
「ちょっと待ってくださいよ」
大河が横から顔を出した。
「この前、蓮組さんがうちらの縄張りに来たとき、店がどこの組と付き合うかは自由やって言うてはりましたよね?」
「……何やと?」
「いや、せやから不思議やな思いまして。蓮組さんがやるんは自由で、俺らが同じことしたらあかんのですか?」
大河は首を傾げ、相手の返事を待った。
「屁理屈こねとんちゃうぞ!」
「屁理屈やないですよ。俺、ほんまに分からんから聞いてるだけですやん」
「このガキ……!」
先頭の男が大河へ詰め寄ろうとしたところで、加藤が二人の間に入った。
「若いもんが失礼したな。俺は水仙組の相談役、加藤勝や。文句があるんやったら、俺が聞く」
「相談役やと?」
「そうや。こいつらを連れてきた責任者も俺や」
加藤は落ち着いた声で答えた。
男は一瞬ためらったが、後ろにいる仲間の視線に気づくと、再び顔を険しくした。
「相談役やったら、何してもええんか!」
怒鳴ると同時に、男の拳が加藤の頬を捉えた。
鈍い音が響き、加藤の身体がよろめく。
「加藤さん!」
浩介が駆け寄り、倒れかけた身体を支えた。
「おどれ、何さらしとんじゃ!」
浩介が相手へ向き直った瞬間、加藤がその腕をつかんだ。
「浩介、やめとけ」
「せやけど、加藤さん!」
「俺は大丈夫や。手ぇ出すな」
加藤は口元を拭い、殴った男を見据えた。
「俺が水仙組の相談役やと分かったうえで殴ったんやな?」
男は答えなかった。拳を握ったまま、加藤の顔を睨み返している。
「……分かった。今日のところは帰らせてもらう」
加藤は浩介の肩を借りずに立ち直ると、組員たちへ撤退を命じた。
大河も慌てた様子で近寄った。
「加藤さん、大丈夫ですか? すぐ病院行った方がええんちゃいます?」
「大したことない。それより、お前らが手ぇ出さんでよかったわ」
加藤はそう言って歩き始めた。
大河はその後ろに続きながら、わずかに口元を引き締めた。
相談役と知って殴った。これで蓮組は、ただの若い衆同士の喧嘩では済まされない問題を抱えたことになる。
相手が自ら差し出した材料を、どう使うか。男の関心は、すでにその先へ向いていた。
水仙組の事務所へ戻ると、加藤の顔を見た浩二がすぐに立ち上がった。
「勝、その顔どうした!」
「蓮組の若い衆に一発もらいまして」
「何を呑気なこと言うとんねん。まず病院で診てもらえ」
浩二が心配そうに顔を覗き込むと、加藤は申し訳なさそうに頭を下げた。
事情を聞いていた智史は、報告が終わるなり大河を睨みつけた。
「せやから言うたやろ! こんな策、ろくなことにならんって!」
「……すんません」
「謝って済む話ちゃうぞ。勝さんが殴られたんやで!」
「若頭、大河だけの責任やありません」
加藤が口を挟んだ。
「危険は承知で、俺が引き受けたことです」
「せやけど!」
「それに、こっちは誰も手ぇ出してません。相手は俺が相談役やと知ったうえで殴ってきました」
浩二は黙って話を聞いていたが、やがて深く息を吐いた。
「……勝に手ぇ出したんやったら、俺が話をせなあかんな」
「親父、まさか蓮組に行くんですか?」
「諏訪と直接話す。これ以上、若いもん同士で揉めさせるわけにはいかん」
浩二は加藤に診察を受けるよう改めて指示すると、蓮組へ連絡を入れ、組長同士の面会を求めた。
その日のうちに返事があり、翌日の午後、蓮組の事務所で話し合うことになった。
大河は浩二の決断を聞き、静かに頭を下げた。
交渉で収まるなら、それも一つの結果だ。だが、双方の組長が顔を合わせれば、互いに譲れぬものも出てくる。
男は、その可能性に期待していた。
翌日、蓮組の事務所には重苦しい空気が漂っていた。
応接室の奥に座る諏訪昇は、浩二たちを迎えても愛想笑い一つ浮かべなかった。傍らには若頭の西條渡が控え、壁際には数人の組員が立っている。
「柳さん、わざわざご足労いただいて申し訳ありませんな」
「挨拶はええ。今日は勝の件で来た」
浩二は向かいの椅子へ腰を下ろし、諏訪を見据えた。
「うちの相談役が、お宅の若い衆に殴られた。しかも、役職を名乗ったあとや。どういうことか説明してもらおうか」
「その件は聞いてます。若いもんが勝手に手ぇ出したことについては、こちらにも落ち度があります」
「落ち度、で済ませるつもりか?」
「ただし、そちらがうちの縄張りへ入ってきたんも事実でしょう」
諏訪の声が低くなる。
「人の庭先で勝手に商売の話を持ちかけられたら、こっちも黙っとれませんわ」
「それはお互い様やろ」
浩二は表情を変えなかった。
「先にうちの縄張りへ入ってきたんは、お宅の方や。智史が話をしに来たときも、店がどこと付き合うかは自由や言うたそうやな」
「今さらその話を持ち出されても困りますな」
西條が口を挟んだ。
「うちは店に無理強いなんかしてません。それは柳さんとこも同じや言いたいんでしょうけど、相談役を連れて乗り込んでくるんは、少々やり過ぎちゃいますか?」
「勝が行ったんは、若いもんを抑えるためや」
浩二が答える。
「その勝を殴った責任は、どう取るつもりや?」
諏訪は腕を組み、しばらく黙り込んだ。
「……こちらの若いもんには、きっちり話をつけさせます。ただ、縄張りの件まで譲るつもりはありません」
「それやったら、うちの店への干渉はどうなる?」
「干渉やない。付き合いを持ちかけとるだけです」
浩二の眉がわずかに動いた。
同じ理屈を繰り返す相手に、これ以上何を言えばよいのか。双方の主張が平行線をたどるうち、壁際に立っていた組員たちの表情も険しくなっていった。
「そもそも、水仙組みたいな小さい組が調子に乗るからやろ」
蓮組側の一人が吐き捨てるように言った。
「おい、今何言うた?」
浩介が顔を上げる。
「聞こえへんかったんか? 身の程を知れ言うとんねん」
「おどれ、もう一遍言うてみい!」
浩介が立ち上がると、相手も椅子を蹴って腰を浮かせた。
「浩介、座れ!」
加藤が制したが、蓮組側の組員まで前へ出てきたことで、部屋の空気が一変した。
大河は黙ってその様子を見ていた。
加藤への暴行について、こちらにはすでに追及できる理由がある。ここで自ら手を出せば、その優位を失うかもしれない。
それは理解していた。
しかし、相手はもはや言葉だけで引く様子を見せていない。目の前で組員同士が衝突すれば、両組の関係は後戻りできなくなるだろう。
男は蓮組側の一人に目を留めた。
先ほどから浩介を挑発している男だ。こちらの動きを警戒しているものの、怒りに気を取られ、周囲への注意が散漫になっている。
「何や、殴る度胸もないんか!」
男がさらに一歩踏み出した。
その瞬間、大河の表情から笑みが消えた。
相手との間合いを測り、右足を踏み込む。握った拳が上がり、身体が前へ動いた。
「そこまでにせえ!」
入口から響いた声に、室内の視線が一斉に集まった。
大河の拳は、相手へ届く寸前で止まっていた。
扉の前に立っていたのは、見慣れない男だった。
「鬼百合組の山城亮や。えらい賑やかなことになっとるな」
鬼百合組は、水仙組と同じく百合組の傘下にある直系幹部組の一つだった。いわば、百合組の上層部に位置する組織が、今回の揉め事に関わってきたのである。
山城は部屋を見渡し、ゆっくり中へ入ってきた。
大河は拳を下ろすと、何事もなかったように一歩引いた。
「……すんません。ちょっと熱うなってしもうて」
いつもの調子で頭を下げる大河を、浩二は黙って見つめていた。
先ほどの動きは、怒りに任せて飛びかかったものではなかった。相手を見定め、迷いなく拳を振るおうとしていた。
その目には、怯えもためらいもなかった。
浩二が知る、冗談好きで人懐っこい大河とは、まるで別人のように見えた。
「柳組長、諏訪組長。今日はここまでにしてもらえませんか」
山城が二人へ向き直った。
「神崎の親父から話を聞いた酒井の親父に、様子を見てこいと言われましてな。ここで勝手に抗争を始められたら、うちの本家まで巻き込むことになります」
「山城さん、これはうちと水仙組の問題です」
諏訪が不満を示すと、山城は静かに首を振った。
「せやから、今ここで殴り合うんはやめとけ言うてるんです。話をどう収めるかまで、俺が決めに来たわけやありません」
山城は腕時計へ目を落とした。
「桔梗組の谷川さんも、もうすぐ来はるはずです」
その言葉どおり、しばらくして桔梗組舎弟頭の谷川俊介が姿を現した。
諏訪と西條は、谷川を見るなり姿勢を正した。
「諏訪。話は聞いとる」
「……はい」
「お前らの揉め事で、桔梗組まで戦争に引っ張り込むつもりか?」
「そんなつもりはありません」
「ほな、勝手なことすんな。若い衆にもよう言うとけ」
谷川の声は荒くなかったが、諏訪は反論しなかった。
山城も浩二へ目を向ける。
「柳組長。そちらも、今日のところは引いてもらえませんか」
浩二は加藤の顔を一度見てから、諏訪へ視線を戻した。
「……分かった。ただし、勝の件が終わったとは思うてへんで」
「それはこちらも同じです。縄張りの話は、まだ何も決まってませんからな」
諏訪の返事に、浩二は小さく頷いた。
山城と谷川が止めたのは、あくまで目の前で起きかけていた衝突だけだった。加藤への暴行も、縄張りを巡る対立も、何一つ解決していない。
蓮組の事務所を出ると、浩介が我慢していた息を吐き出した。
「……ほんま、あと少しで殴り合いになるとこでしたね」
「ああ。せやけど、まだ終わったわけやない」
加藤が答える。
浩二は二人の会話を聞きながら、少し後ろを歩く大河へ目を向けた。
大河は浩介に何か言われ、いつものように笑っている。先ほどまで拳を握っていた男と同じ人物とは思えないほど、自然な笑顔だった。
あの若者は、何を考えているのか。
浩二は問いかけようとして、結局口を閉じた。
今はまだ、確かめようがない。ただ、これからは大河の言葉だけでなく、その行動もよく見ておく必要がある。
一方、大河は笑顔を浮かべながら、先ほどの山城と谷川のやり取りを思い返していた。
水仙組と蓮組だけなら、あの場で戦いを始めることもできた。だが、双方の上にはさらに大きな組織があり、その意向一つで戦いを止められる。
力があっても、勝手に動けるわけではない。
男は、その仕組みを改めて思い知らされた。
もっとも、それで野心が萎えることはなかった。
蓮組との対立は続いている。加藤への暴行も、まだ決着していない。
機会はいずれ、また訪れる。
大河は前を歩く浩二たちの背中を見つめながら、静かに次の一手を考え始めていた。




