第26話 背に腹はかえられぬ
それから数日、水仙組の事務所には、付き合いのある店からの電話が相次いでいた。
「また蓮組の連中が来たんですわ。別に脅されたわけやないんですけど、断っても何度も来られたら、こっちも困りますねん」
受話器を握った浩介は、相手の話を聞きながら眉間を押さえた。
「分かりました。こっちでも対応を考えてますんで、もう少し待ってもらえませんか」
電話を切ると、浩介は深いため息をついた。
「……またですか、兄貴?」
向かいの机に座っていた大河が尋ねる。
「ああ。今度は居酒屋や。蓮組の連中が来るたびに、常連客が帰ってまうらしい」
「そら、商売になりませんね」
「店の人間も、いつ揉め事になるか分からんいうて困っとる。俺らが何とかせなあかんのは分かっとるんやけどな……」
浩介は途中で言葉を切った。
若頭の智史が蓮組と交渉してからも、状況は変わっていない。相手は露骨な脅迫を避けながら、店への接触を続けていた。
大河は机に置かれた電話を見つめた。
数日前、加藤から指摘された問題が、まだ頭から離れずにいる。
蓮組の縄張りへ進出する。その先で何が起きるのか。そして、どうすれば店を守れるのか。
考えれば考えるほど、簡単な話ではなかった。
その日の夕方、浩介のもとに一本の電話が入った。相手は、水仙組と長年付き合ってきた小料理屋の店主だった。
話を聞くうちに、浩介の表情が曇っていく。
「……分かりました。今から伺います」
受話器を置くと、浩介は大河を振り返った。
「大河、ちょっと付き合え」
「何かあったんですか?」
「店の親父さんが、話したいことあるらしい」
浩介の声を聞き、大河はそれ以上尋ねずに立ち上がった。
店を訪ねると、店主は二人を奥の席へ案内した。
まだ開店前だというのに、いつもなら仕込みに追われている店内は妙に静かだった。
「すんませんな、忙しいところ呼び出してしもうて」
「いや、構いませんよ。それで、話いうのは?」
浩介が尋ねると、店主は膝の上で両手を重ねた。
「……実は、水仙組さんとの付き合いを、いったん終わりにさせてもらいたいんです」
浩介の表情が固まった。
「親父さん、それは……」
「長いこと世話になりました。浩二さんにも、ようしてもろてます。せやけど、うちらにも生活がありますんで」
店主は申し訳なさそうに頭を下げた。
「蓮組の人らが来るたびに、女房が怖がりましてな。お客さんにも気を遣わせてしもうて……。このままやったら、店を続けられんようになります」
「向こうと付き合うことにしたんですか?」
大河の問いに、店主は慌てて首を振った。
「いや、そうやありません。どっちとも距離を置きたいんです。もう、揉め事に巻き込まれるんは勘弁してほしい」
浩介は何か言いかけたが、店主の顔を見て口を閉じた。
長年の付き合いを断ることが、この男にとっても簡単な決断ではなかったのだろう。
「……分かりました」
しばらくして、浩介が答えた。
「今まで付き合うてもろて、ありがとうございました。親父にも、ちゃんと伝えときます」
「ほんま、申し訳ありません」
「謝らんといてください。親父さんが悪いわけやありませんから」
店を出ると、夕暮れの商店街には買い物帰りの人々が行き交っていた。
浩介はしばらく黙って歩いていたが、やがて小さく舌打ちした。
「……情けない話やな」
「兄貴……」
「長いこと付き合うてくれた店に、あんな顔させてしもうた」
大河は何も言えなかった。店主は最後まで水仙組を責めなかった。それだけに、頭を下げる姿が胸に残っていた。
事務所へ戻ると、別の店からも付き合いを見直したいという連絡が入っていた。
浩介はその報告を聞き、すぐに加藤のもとへ向かった。
「……とうとう離れたか」
報告を聞き終えた加藤は、机の上に置いていた書類を閉じた。
「はい。しかも、ほかの店からも同じような話が出始めてます」
浩介が答えると、加藤は腕を組んだ。
「思うてたより早いな。このままやと、次々に付き合いを切られるかもしれん」
「加藤さん」
大河が口を開いた。
「この前の話なんですけど、もう一回聞いてもらえませんか」
加藤は大河へ視線を向けた。
「蓮組の縄張りへ行くいう話か?」
「はい。あれから、ずっと考えてたんです」
「ほう。何か答えは出たんか?」
「完全な答えかどうかは分かりません。せやけど、俺が何を狙ってるんか、ちゃんと説明したいんです」
加藤が頷くと、大河は姿勢を正した。
「蓮組は、店がどこの組と付き合うかは自由や言うてます。ほな、うちらも向こうの縄張りにある店へ行って、付き合いを持ちかけるんです」
「それは前にも聞いたな」
「はい。ただ、俺が狙ってるんは、その先なんです」
大河は一度言葉を区切った。
「向こうが文句を言うてきたら、同じ理屈を返します。それでも納得せんと、先に手ぇ出してきたら……その事実を交渉に使うんです」
「誰が殴られる想定なんや?」
加藤の問いに、大河は一瞬だけ口を閉じた。
「……加藤さんです」
浩介が思わず大河を振り返った。
「おい、大河。お前、何言うとんねん」
「俺みたいな下っ端が殴られても、若い衆同士の揉め事や言われたら、それまでです。けど、相談役の加藤さんが殴られたら話は違います」
加藤は黙って聞いていた。
「水仙組の幹部に先に手ぇ出したとなれば、向こうも簡単には済ませられへんはずです。その責任を追及して、今の干渉をやめさせる交渉材料にするんです」
「……なるほどな」
加藤は椅子に深く腰を掛け直した。
「つまり、お前は最初から俺に殴られる役を頼むつもりやったんか」
「……はい」
「よう考えたな。せやけど、大河」
加藤の声から、わずかに笑みが消えた。
「向こうが一発殴って、それで終わる保証はどこにある?」
大河の表情が引き締まった。
「……ありません」
「こっちが先に手ぇ出してへんからいうて、向こうが大人しく交渉に応じるとは限らん。面子を潰されたいうて、組織ぐるみで報復してくるかもしれん」
「はい」
「それに、本家が出てきたとき、先に縄張りへ踏み込んだんは水仙組やと言われたら、どうする?」
大河は答えを探したが、すぐには言葉が出なかった。
「……その可能性もあります」
「店の人間を巻き込む危険も、まだ残っとるで。今日、付き合いをやめた親父さんと同じ思いを、向こうの店主にさせるかもしれん」
大河は膝の上で握っていた手を緩めた。
加藤の指摘は、どれも否定できなかった。相手が先に暴力を振るったところで、それだけで勝負が決まるわけではない。
「……加藤さん。危ないんは分かってます」
大河は顔を上げた。
「せやけど、今日、長年付き合うてくれた店が一軒離れました。俺らが動かんかったら、次はどこの店が離れるか分かりません」
「それは俺も分かっとる」
「今のままやったら、蓮組は何も困らへん。せやのに、店の人らばっかりが我慢せなあかん。それを何とかしたいんです」
加藤は大河の顔をじっと見た。
「……お前、それでもやる覚悟はあるんか?」
「あります」
「自分の考えた策で、俺が大怪我するかもしれん。それでもか?」
大河は一瞬、言葉を詰まらせた。隣にいる浩介も、黙って二人のやり取りを見守っている。
「……怖くない言うたら嘘になります。せやけど、何もせんまま店が離れていくんを見とるだけなんは、もっと嫌なんです」
加藤はしばらく大河を見つめていた。
「勝手なこと言うてくれるわ。俺の身体を使う策を、よう本人の前で言えたな」
「……すんません」
「謝るくらいやったら、最初から言うな」
加藤はそう言ったあと、わずかに口元を緩めた。
「けど、そこまで考えてるんやったら、話は別や」
浩介が加藤を見る。
「加藤さん、まさか……」
「俺が殴られたら、それで全部解決するいう話やない。せやけど、何もせんまま店が離れていくんを見とるわけにもいかんやろ」
加藤は大河へ向き直った。
「分かった。親父に話そう」
「加藤さん……!」
「勘違いすんなよ。お前の策が安全やと認めたわけちゃう。俺が殴られるかどうかも、向こうの出方次第や。勝手に話を進めるなよ」
「はい」
加藤は浩介へ視線を向けた。
「浩介、親父に時間を取ってもらえ。若頭にも話を通す」
「……分かりました」
その日の夜、水仙組の事務所では緊急の話し合いが開かれた。
上座には組長の柳浩二が座り、その近くに若頭の智史が控えている。加藤と浩介も席に着き、大河は少し離れた場所で背筋を伸ばしていた。
加藤は店の離反を報告したあと、大河の策を説明した。蓮組の縄張りにある店へ付き合いを持ちかけ、相手の反発を誘う。そこで相談役である自分が前に出て、蓮組側が先に暴力を振るえば、その事実を交渉材料にするというものだった。
智史は露骨に眉をひそめた。
「ちょっと待ってください。蓮組の縄張りへ乗り込んで、勝さんを殴らせる? そんなことしたら、組同士の問題になりますやん」
「その危険はある」
加藤が答える。
「ほな、何でそんな策を持ち出すんですか。もう一回、俺が西條と話してきます」
「若頭、前の交渉でも向こうは引きませんでした。それに、もう店が離れ始めてます」
浩介が口を挟むと、智史は不機嫌そうに顔を向けた。
「そんなん分かっとるわ。せやから、今度はもっと強く言うたらええやろ」
「それで止まる保証がないいう話です」
「ほな、もし本家から責任を問われたら、誰が説明するんや?」
浩介は口を閉じた。
加藤が静かに頷く。
「若頭の言うことにも一理あります。向こうが先に手ぇ出したとしても、うちが縄張りへ踏み込んだ事実は残りますから」
智史は加藤へ視線を向けた。
「せやったら……」
「ただ、再交渉だけで店を守れる保証もないんです」
加藤は浩二へ向き直った。
「親父。今の状況が続けば、蓮組に直接店を奪われんでも、うちとの付き合いをやめる店が増えていくと思います」
浩二は黙って聞いていた。
「浩介」
「はい、親父」
「今日、付き合いをやめた店は、長いこと世話になっとったところやな?」
「はい。親父さんも最後まで申し訳なさそうにしてました。蓮組と付き合うつもりはない、ただ商売を続けたいだけやと……」
浩二はゆっくり目を閉じた。
「あの親父が、そこまで言うたんか」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
浩二はその店との長い付き合いを思い返していた。景気の悪いときも、店主は水仙組との関係を絶とうとはしなかった。それが今、自分から離れると言い出したのだ。
金の問題だけではない。守るべき相手に、これ以上は頼れないと思わせてしまった。
やがて浩二は目を開き、加藤に尋ねた。
「勝。お前はどう思う?」
「危険な策やと思います。下手をすれば、蓮組との抗争に発展します」
「……そうか」
「ただ、このまま何もせんかったら、うちの信用は失われていきます。実行するなら、私が現場を見ます」
「お前が殴られることになるかもしれんのやぞ」
「承知してます」
加藤は浩二の目をまっすぐ見た。
「私が前に出ることで交渉の材料になるんやったら、その役は引き受けます」
浩二はしばらく加藤を見つめていたが、それ以上は何も言わなかった。
智史にも目を向ける。
「智史、お前の考えは変わらんか?」
「……はい。俺は、まず交渉すべきやと思います」
「分かった」
浩二は机に置かれた湯呑みに手を伸ばしたが、口をつけずに戻した。
争いを避けるためなら、これまでも何度となく頭を下げてきた。面子を張って組員や店を危険にさらすくらいなら、自分が笑われる方がよほどましだった。
だが、今は違う。
智史が交渉しても蓮組は引かず、長年付き合ってきた店まで離れてしまった。もう一度話し合いを求めたところで、相手が態度を変える根拠はない。
そのうえ、今回の策では勝が傷つくかもしれない。
長年、自分を支えてきた男だった。その男に危険な役目を任せることを、簡単に決められるはずもなかった。
浩二は、黙って返事を待つ幹部たちを見渡した。
この先、何が起きても、決断した責任を負うのは自分だった。
「……背に腹はかえられん」
低い声が、静かな部屋に響いた。
「これ以上、黙って見とるわけにはいかん。大河の策で動く」
「親父!」
智史が思わず身を乗り出した。
「危ないことは分かっとる。せやけど、何もせんまま店を失うわけにもいかんのや」
浩二は加藤へ向き直った。
「勝、現場はお前に任せる。余計な暴力は認めん。店の人間にも無理をさせるな」
「承知しました」
「それとな、勝。無理に殴られにいく必要はない。相手が手を出さんのやったら、それでええ。何より、お前らが無事に帰ってくることが先や」
「……ありがとうございます、親父」
「智史、お前は若頭として全体を見とけ。何かあったら、すぐ俺に報告せえ」
「……分かりました」
「浩介と大河は、勝の指示に従うこと。勝手な行動はするなよ」
二人が返事をすると、浩二は最後に大河を見た。
「大河。お前の考えた策や。せやけど、これはもうお前一人の問題ちゃう。組全体に関わることや。その意味は分かっとるな?」
「……はい。分かってます」
「なら、頼むで」
大河は深く頭を下げた。
会議が終わり、智史たちが部屋を出たあと、加藤が大河を呼び止めた。
「大河」
「はい」
「策を考えるんと、実際に人を動かすんは違うで」
加藤はいつもの落ち着いた口調で続けた。
「何かあったら、まず俺に報告せえ。自分一人で何とかしようとするな」
「分かりました」
「ほんまに分かっとるんやろな?」
横から浩介が口を挟む。
「こいつ、すぐ自分が前に出ようとしますからね」
「兄貴、今日はまだ何もしてませんやん」
「今日は、やろ?」
浩介が呆れた顔をすると、加藤は小さく笑った。
「まあ、今回は俺が目ぇ光らせとくわ」
大河も笑みを浮かべたが、加藤の言葉は胸に残っていた。
自分の提案が採用されたことよりも、加藤が危険な役割を引き受け、浩二がその責任を負うと決めたことの方が、今は重く感じられる。
「……加藤さん」
「なんや?」
「俺、絶対にうまくいくとは言えません。せやけど、できる限りのことはします」
加藤は大河を見つめ、ゆっくり頷いた。
「それでええ。せやからこそ、無茶はするなよ」
翌日から、蓮組の縄張りへ入ることになった。
事務所を出ると、夜の空気が頬に触れた。浩介が隣で何か話しかけてきたが、大河はすぐには返事ができなかった。
今日、店主が頭を下げた姿が浮かぶ。
あの店を守ることはできなかった。だからこそ、これ以上同じ思いをする人間を増やしたくなかった。
大河は一度だけ振り返り、水仙組の事務所を見上げた。
明日、自分たちは蓮組の縄張りへ足を踏み入れる。
その決断が何をもたらすのかは、まだ誰にも分からなかった。




