第25話 大河の進言
翌日の昼過ぎ、水仙組の事務所では、林浩介が机に広げた書類を整理していた。
窓の外から車の走る音が聞こえる。向かいに座る大河は、先ほどから机の一点を見つめたまま動かない。
「……おい、大河。聞いとるか?」
「えっ? ああ、はい。聞いてますよ」
「嘘つけ。今、俺が何言うたか答えてみい」
「兄貴が今日も男前やいう話ですか?」
「誰がそんな話しとんねん!」
浩介が呆れたように声を上げると、大河は笑った。しかし、その表情は長く続かなかった。
昨日、二人で訪れた店のことが頭から離れなかった。
蓮組の人間が来たと聞かされたとき、小料理屋の店主は何度も入口を気にしていた。長年、水仙組と付き合ってきた男である。それでも、蓮組が訪ねてくるたびに、商売を続けられるのかと不安になるのだという。
店主は最後まで、これからも水仙組と付き合いたいと話していた。
だが、その言葉をいつまで信じて待ってもらえるのだろう。
「兄貴、ちょっと考えたことがあるんですけど、聞いてもらえますか?」
大河が顔を上げると、浩介は書類を置いた。
「なんや、急に。昨日の店の件か?」
「そうです。あのまま蓮組に抗議を続けても、向こうは同じことを繰り返すだけやと思うんです」
「まあ、そうやろな。若頭が直接交渉しても、店に来るんをやめへんのやから」
「せやから、ちょっと逆の立場で考えてみたんです」
「逆の立場?」
大河は椅子を引き寄せ、浩介の方へ身を乗り出した。
「蓮組の縄張りにある店へ、今度はうちらが付き合いを持ちかけてみるんです」
浩介の手が止まった。
「……お前、今なんて言うた?」
「向こうの店へ、うちらが行くんです」
「いや、聞こえとるわ!」
浩介は思わず声を張り上げたあと、周囲を見回して声を落とした。
「お前、それは向こうの縄張りに手ぇ出すいうことやぞ。下手したら、今より面倒なことになる」
「分かってます。別に店を無理やり奪おういう話やありません」
「ほな、何が目的や?」
「向こうがどう出るか、確かめたいんです」
浩介は眉を寄せた。
「蓮組は、店がどこの組と付き合うかは自由や言うてるんですよね?」
「ああ。若頭が持ち帰った話では、そういう理屈やったらしい」
「ほな、うちらが向こうの店へ行っても、同じことが言えるはずですやん」
「……なるほどな」
「向こうが怒ってきたら、何でうちらだけあかんのか聞ける。何も言うてこんかったら、それはそれで向こうの考えが分かるかもしれません」
浩介は腕を組み、しばらく考え込んだ。
確かに、蓮組の主張をそのまま当てはめれば、大河の言い分にも筋は通っている。しかし、縄張りを巡る話で、相手が筋を通してくれる保証などなかった。
「大河、お前の考えは分かった。せやけどな、向こうからしたら喧嘩売られたと思うかもしれんぞ」
「でしょうね」
「でしょうね、やないわ。分かっとるんやったら、もうちょい怖がれ!」
「怖がってへんわけやありませんよ。ただ、こっちから何か動かんと、店の人らも安心できへんでしょう」
浩介は口を閉じた。
昨日、店主たちに無理をしないでほしいと伝えたのは自分だった。それでも、蓮組が店を訪れ続ける以上、何か手を打たなければならないという大河の焦りも理解できた。
「……それで、お前はどうしたいんや?」
「一回、加藤さんに相談したいんです。俺らだけで決められる話やないですから」
浩介は少し安心したように息を吐いた。
「最初からそう言えや。お前が一人で乗り込むつもりなんかと思うたわ」
「そんな無茶しませんて」
「お前の場合、たまに信用できへんからな」
浩介は苦笑しながら立ち上がった。
「分かった。加藤さんに話してみよ。ただし、余計なことは勝手にするなよ」
「はい、兄貴」
二人は連れ立って、事務所の奥へ向かった。
加藤勝は机で書類に目を通していたが、浩介が声をかけると顔を上げた。
「加藤さん、少しお時間よろしいですか?」
「どうしたんや?」
「昨日の店回りの件です。大河が一つ考えたことがある言うんで、聞いてもらえませんか」
加藤は大河へ視線を移した。
「ほう。大河が?」
「はい。まだ思いつきの段階なんですけど」
「構わん。聞かせてみい」
加藤が書類を脇へ寄せると、大河は姿勢を正した。
蓮組が交渉後も店への接触を続けていること。そして、相手が主張する商売の自由を、逆の立場から確かめてみたいということを説明した。
「つまり、蓮組の縄張りにある店へ、うちらが話を持ちかけるいうことか」
「はい。ただ、店を奪うことが目的やありません。向こうがどう反応するかを見たいんです」
「その反応を、次の交渉に使おういうわけやな」
「そうです。少なくとも、今みたいに向こうの言い分を聞くだけとは違うと思うんです」
加藤は机の上の湯呑みに手を伸ばした。一口飲んでから、大河を見る。
「発想はおもろいな。相手の理屈を、そのまま相手に返すわけか」
大河の表情がわずかに明るくなった。
「せやけどな。向こうが何もしてこんかったら、どうするつもりや?」
「何もしてこんかったら……少なくとも、うちらが店へ行くことは黙認したいうことになります」
「それで蓮組は、うちの縄張りに来るんをやめるんか?」
大河は答えかけて、言葉を飲み込んだ。
「……いや、それだけでは止まらんと思います」
「そうやろ。向こうは互いに好きに商売したらええと言うかもしれん。そうなったら、今と何も変わらん」
加藤は湯呑みを置いた。
「ほな、逆に向こうが怒鳴り込んできたら?」
「自分らの縄張りに手ぇ出されるんは嫌やいうことです。商売の自由や言うてた話と食い違います」
「その矛盾を指摘したら、向こうは素直に引いてくれると思うか?」
大河は黙った。
「先に縄張りへ踏み込んできたんは水仙組やと騒ぐかもしれん。向こうがそう言い張ったら、今度はこっちが説明せなあかん立場になる」
加藤の声は落ち着いていたが、大河の返答を待つ間も、その視線は外れなかった。
「相手の言い分に穴があると分かったところで、それだけで交渉が有利になるとは限らんのや」
「……はい」
大河は机に視線を落とした。
相手の矛盾を突けば、何かが変わるかもしれない。そう考えていたが、相手が矛盾を認めなければ、その先に何が起こるのか。
そこまでは考えきれていなかった。
加藤は続けた。
「それにな、向こうの店の人間はどうなる?」
「店の人間、ですか?」
「うちらが蓮組の縄張りへ行ったら、その店の人間はどう思うやろな」
大河は顔を上げた。
「昨日、店を回ってきたんやろ。蓮組の連中が来るだけで、店の人らは困っとったんちゃうんか?」
「……はい」
「ほな、うちらが向こうの店へ行っても、同じことになるかもしれん。店主にしたら、どっちの組の理屈が正しいかなんて関係ない。揉め事に巻き込まれるんが嫌なんや」
昨日の小料理屋の店主が、入口へ何度も目を向けていた姿を思い出した。
自分たちが向こうの店へ行けば、別の店主にも同じ思いをさせるかもしれない。
「……そこは、考えが足りませんでした」
加藤は小さく頷いた。
「お前の考え方が全部間違うとるとは言うてへん。ただ、相手の出方を探るためだけに、店の人間を不安にさせるわけにはいかんやろ」
大河は膝の上で手を組み直した。
加藤の言うことは理解できる。しかし、何もしなければ水仙組と付き合う店の不安は消えない。
「加藤さん。おっしゃることは分かります。せやけど、このまま何もせんかったら、うちと付き合うてくれとる店が離れていくかもしれません」
「それは俺も心配しとる」
「昨日、店の人らと話して思うたんです。あの人らは、できれば今までどおり付き合いたいと思うてくれてます。でも、蓮組が何回も来るんやったら、いつか我慢できんようになるかもしれません」
大河は加藤をまっすぐ見た。
「せやから、何か手を打たなあかんと思うんです。もし行くことになったら、俺も行かせてください。何かあったら、俺が前に出ます」
その言葉を聞いた浩介が、すぐに顔をしかめた。
「おい、大河。お前、また危ない役を自分から引き受けようとしとるんか」
「兄貴、俺が考えたことですから」
「そういう問題ちゃうやろ」
加藤は静かに首を横に振った。
「大河。お前が強いんは分かっとる。せやけど、喧嘩に勝つことと、組を守ることは別や」
大河は口を閉じた。
「仮に向こうの若い衆が絡んできても、お前なら追い払えるかもしれん。けど、それで話が終わるとは限らんやろ」
加藤は椅子に深く腰を掛け直した。
「向こうが面子を潰されたと思うたら、今度は組織として動いてくるかもしれん。そうなったとき、お前一人で全部何とかできるんか?」
「……できるとは言い切れません」
「そうやろ。お前が勝って帰ってきても、そのあと組の誰かが狙われたら意味がないんや」
浩介も大河の肩に手を置いた。
「俺もお前が強いんは知っとる。けどな、お前が無事やったらそれでええ、いう話でもないんやで」
「……兄貴」
「お前に何かあっても困るし、組が揉め事に巻き込まれても困る。せやから慎重にならなあかんねん」
大河は二人の顔を交互に見た。
目の前の相手を退けることなら、自分にもできるかもしれない。しかし、相手がその後どう動き、誰に被害が及ぶのかまでは分からない。
それでも、何もせずに待つことが正しいとも思えなかった。
「……分かりました。俺も、もう少し考えてみます」
加藤は頷き、しばらく大河の案を考えるように視線を落とした。
「考え方は悪ない。相手が何を嫌がるんか知るいうのは、大事なことや。せやけど、今のままでは危なすぎる」
大河は姿勢を正した。
「それに、こんな話を俺らだけで決めるわけにはいかん。組長にも話を通さなあかんからな」
「はい。もちろんです」
「まずは、もう少し考えを整理せなあかん。実際に動くかどうかは、それからや」
浩介も同意するように頷いた。
大河は少しだけ息を吐いた。
提案をその場で退けられたわけではない。加藤は危険性を指摘しながらも、考え方そのものには意味があると認めてくれていた。
ただ、話が終わったと思ったところで、加藤がもう一度口を開いた。
「大河、最後に一つだけ聞いてええか?」
「はい。何でしょう?」
「向こうの反応が分かったとして、そのあとどうやって店を守るつもりや?」
大河は答えようとして、言葉を止めた。
蓮組が怒れば、相手の主張との矛盾を指摘できるかもしれない。黙認すれば、相手がどこまで許すのかを知る材料にはなる。
だが、それで何が変わるのだろうか。
昨日訪れた小料理屋の店主は、蓮組の言い分が矛盾していると分かったところで、安心して商売を続けられるのだろうか。
「……そこまでは、まだ考えきれてません」
大河が答えると、加藤は責めるでもなく頷いた。
「ほな、もう少し考えてみい。相手の出方を知っただけでは、店の人間は安心できへんからな」
「……はい」
「せっかく考えた案や。無駄にする必要はない。ただ、何のために動くんかは忘れたらあかんで」
大河はゆっくり頷いた。
浩介が隣で立ち上がり、大河の背中を軽く叩いた。
「ほな、今日はここまでやな。大河、行くぞ」
「はい。加藤さん、お時間取ってもろて、ありがとうございました」
「気にせんでええ。また考えがまとまったら聞かせてくれ」
二人が部屋を出ると、廊下には午後の日差しが差し込んでいた。
浩介は歩きながら、大河の横顔をちらりと見た。
「……落ち込んどるんか?」
「いや、そういうわけやありません」
「ほな、何をそんな難しい顔しとんねん」
「考え事です」
「また何か思いついたんか?」
「いえ。今度は、思いつく前にちゃんと考えよう思いまして」
浩介は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「そうか。ほな、じっくり考えたらええ」
大河も笑みを返したが、胸の内には加藤の問いかけが残っていた。
蓮組の反応を確かめる。それは一つの手にはなるかもしれない。
しかし、本当に守らなければならないのは、相手との言い争いに勝つことでも、自分たちの力を見せつけることでもない。
昨日、困った顔で頭を下げていた店主たちが、安心して商売を続けられるようにすることだった。
そのために何ができるのか。
大河は廊下の先へ目を向けながら、もう一度、加藤に示した策を頭の中で組み立て直し始めた。




