第23話 若頭の交渉
翌日の昼過ぎ、柳智史は長野伸介を連れて蓮組の事務所を訪れていた。
車を降りた伸介は、目の前の建物を見上げて小さく息を呑んだ。
繁華街から少し離れた場所に建つ三階建てのビル。その入口には監視カメラが設置され、ガラス扉の向こうには数人の男たちの姿が見える。建物そのものが特別豪華というわけではなかったが、水仙組の事務所とは明らかに違う雰囲気があった。
「若頭、ほんまにこのまま入るんですか?」
「ここまで来て何言うとんねん。お前も昨日、付き合う言うたやろ」
「そら言いましたけど……組長には、まだ話してへんのですよね?」
智史は伸介を振り返った。
「お前、怖気づいたんか?」
「ちゃいます! ただ、組長に知られたら大丈夫なんかな思いまして」
「余計な心配せんでええ。責任は俺が取る」
そう言って智史は入口へ向かい、伸介も慌ててそのあとを追った。
扉を開けると、受付近くにいた若い組員が二人へ視線を向けた。
「何か御用ですか?」
「水仙組の柳智史や。蓮組の若頭さんに話があって来た」
男は一瞬、智史の顔を見つめた。
「……少々お待ちください」
奥へ引っ込んだ男が戻ってくるまで、二人は入口で待たされた。
やがて別の組員が現れ、二階の応接室へ案内する。
部屋には革張りのソファと大きなテーブルが置かれ、壁際には立派な飾り棚があった。伸介が落ち着かない様子で室内を見回す一方、智史は勧められた席に腰を下ろした。
組員が茶を運んできたが、肝心の若頭はなかなか姿を見せない。
十分ほど過ぎた頃、伸介が智史へ顔を寄せた。
「……若頭、えらい待たせますね」
「聞こえるぞ」
「すんません」
伸介は背筋を伸ばした。
さらに時間が過ぎ、ようやく廊下から足音が聞こえてきた。
扉が開き、四十歳ほどの男が姿を現す。
蓮組若頭、西條渡だった。
西條は智史たちを一瞥すると、軽く顎を動かした。
「ああ、水仙組の若頭さんでしたな。どうも」
挨拶もそこそこに向かいのソファへ腰を下ろし、テーブルの上に置かれた煙草へ手を伸ばす。
「それで、今日は何の用です?」
「突然お邪魔して申し訳ありません。水仙組の柳智史です。こちらはうちの長野です」
「へえ。ご丁寧にどうも」
西條は煙草をくわえ、ライターで火をつけた。
伸介が眉をひそめたが、智史は気づかないふりをして話を続けた。
「今日は、最近うちの縄張りで起きとる件について、お話しさせてもらいたいと思いまして」
「縄張り?」
「ええ。うちと長年付き合いのある店に、蓮組の方が何度も顔を出されとると聞いてます」
西條は煙を吐き出し、首を傾げた。
「それが何か?」
「店によっては、水仙組との付き合いを見直すよう言われたそうです。実際、困っとる店主もおります」
「はあ……」
西條は気のない返事をすると、灰皿へ煙草の灰を落とした。
「そもそも、お宅らの店いうわけやないでしょう。店がどこと付き合おうが自由やないですか」
「それはもちろんです。せやけど、うちとの付き合いをやめるよう迫るんは、話が違うでしょう」
「迫る?」
西條はそこで初めて、少しだけ興味を示したように智史を見た。
「うちらは無理強いなんかしてませんよ。商売の話をしに行っとるだけですわ」
「店の人間は、そう受け取ってへんようですけど」
「それは店の人が勝手に勘違いしとるんと違いますか?」
西條は薄く笑った。
「うちの若い衆が顔を出しただけで怖がられたら、こっちも商売になりませんわ」
伸介が膝の上で拳を握った。
「西條さん、それはちょっと――」
「伸介」
智史が低い声で制した。
伸介は言葉を呑み込み、頭を下げる。
「……失礼しました」
西條はそんな二人を眺めながら、煙草を口元へ運んだ。
「元気のええ若い衆ですな」
「申し訳ありません。話を戻させてもらいます」
智史は西條の目を見た。
「店がどこと付き合うかを決めるんは自由です。そこは俺も否定しません。ただ、蓮組の方が来るたびに、うちとの関係を整理するよう言われたら、店の人間かて困りますやろ」
「何度も言いますけど、うちは強制してません」
「ほな、店主が断ったら、それで引き下がってもらえるんですか?」
西條の指が、煙草を挟んだまま止まった。
「……どういう意味です?」
「そのままの意味です。うちとの付き合いを続けたいいう店には、その意思を尊重してもらいたいんです」
西條はしばらく智史を見つめ、それから背もたれに体を預けた。
「柳さんでしたか。あんた、随分と細かいこと気にしはるんですな」
「うちにとっては細かい話やありません」
「店一軒、二軒のことで、わざわざ若頭さんが出てくるとは思いませんでしたわ」
「一軒や二軒の話やないから来たんです」
智史の声が少し強くなった。
西條の口元から笑みが消える。
伸介は二人の顔を交互に見た。室内の空気が変わったのを感じたが、口を挟める雰囲気ではなかった。
「西條さん。俺らも、蓮組さんと揉めたいわけやありません」
智史は一度言葉を切った。
「ただ、今まで付き合ってきた店が困っとるんです。うちが何も言わんかったら、その店の人らに申し訳が立ちません」
「……」
「俺らも組の看板背負って商売させてもろうてます。若頭同士、こうして話しとる以上、互いの立場は分かってもらえると思いますけど」
西條は煙草を灰皿へ押しつけた。
「つまり、うちに手ぇ引けと言いたいわけですか」
「水仙組と付き合いのある店に、無理な働きかけをせんといてほしい。それだけです」
「店が自分からうちと付き合いたい言うてきた場合は?」
「それは店が決めることです。俺らがどうこう言う話やありません」
「ほな、何も問題ないでしょう」
「問題があるから、今日ここに来とるんです」
智史は視線を逸らさなかった。
「西條さん、俺もこの件を大きくしたいわけやないんです。せやから、まずは直接お話しさせてもろうてます」
西條は新しい煙草を取り出しかけたが、結局そのまま箱をテーブルへ戻した。
「……あんたも、なかなか引きませんな」
「若頭として来てますから」
「若頭、ねえ」
西條は鼻で笑った。
智史の頬がわずかに強張ったが、すぐに表情を戻した。
西條の言い方には腹が立つ。それでも、ここで席を立てば何も得られない。父親の反対を押し切ってまで来た以上、手ぶらで帰るわけにはいかなかった。
「西條さん。もう一度だけ確認させてください」
智史は落ち着いた声で続けた。
「うちと付き合いのある店が断った場合は、それ以上無理に迫らんようにしてもらえませんか」
西條は返事をせず、テーブルに置いた煙草の箱を指先で動かした。
智史が黙って待っていると、西條は小さく息を吐き、背もたれに深く体を預けた。
「……分かりましたわ」
智史はわずかに身を乗り出した。
「無理に店へ働きかけるような真似は、今後控えさせてもらいます」
「それは、蓮組の若頭としてのお返事と受け取ってよろしいですか?」
「ええ。うちの若い衆にも、そういう話はしときます」
「ありがとうございます」
智史は頭を下げた。
西條は片手を軽く上げる。
「ただし、店が自分からうちを選ぶんやったら、それは別の話ですからな」
「そこは承知してます」
「ほな、この話はそれでよろしいですか?」
「はい。今日は突然押しかけて申し訳ありませんでした」
智史が立ち上がると、伸介も慌てて腰を上げた。
西條は座ったまま二人を見上げる。
「わざわざご苦労さんでした」
「失礼します」
智史は最後まで礼を崩さず、伸介を連れて応接室を出た。
廊下を歩く間、伸介は一言も発しなかった。案内の組員に見送られ、建物の外へ出たところで、ようやく大きく息を吐く。
「……はあ。ほんま、息詰まりそうでしたわ」
「お前、途中で余計なこと言いかけたやろ」
「すんません。せやけど、あの西條いう男、若頭に対して失礼すぎますやん」
「まあ、そうやな」
智史は苦笑した。
「こっちが話しとるのに、煙草吸いながら適当に返事しよって。あれで若頭が務まるんか思いましたわ」
「もうええ。終わった話や」
「若頭は腹立たへんかったんですか?」
「腹立ったに決まっとるやろ」
智史は駐車場へ向かいながら答えた。
「せやけど、あそこで怒鳴ったところで、向こうが言うこと聞くわけちゃう。喧嘩しに来たんと違うんやからな」
伸介は感心したように頷いた。
「さすが若頭ですわ。俺やったら、あんな言い方されたら黙ってられません」
「お前が黙ってられへんから、俺が止めたんやろ」
「……それもそうですね」
伸介が頭をかくと、智史は小さく笑った。
車に乗り込んでからも、伸介の興奮は収まらなかった。
「でも、最後は向こうも認めましたもんね。無理な働きかけはやめる言うてましたし」
「ああ。少なくとも、こっちの要求は伝わった」
「これで店の人らも安心できますね」
「そうなってくれたらええけどな」
智史はシートベルトを締め、前方に目を向けた。
西條の態度は最後まで気に入らなかったが、交渉そのものは無駄ではなかった。まずは、店主たちが安心して商売できるようになってくれればいい。
「若頭、組長にはいつ報告するんです?」
「事務所戻ったら話すつもりや」
「怒られませんかね……」
「そら、勝手に行ったんや。何か言われるやろな」
「大丈夫ですか?」
「分からん。せやけど、隠しとくわけにもいかんやろ」
智史は少し笑ってから、表情を引き締めた。
「親父が心配しとったことも分かる。せやけど、俺かて水仙組の若頭や。店が困っとるのを、ただ見とるわけにはいかんかった」
伸介は黙って耳を傾けていた。
「今回のことは俺が責任持って説明する。お前は余計な心配せんでええ」
「……へい」
伸介は力強く頷いた。
車が駐車場を出て、大通りへ合流する。
智史は背もたれに体を預け、ようやく肩の力を抜いた。
父親が今回の行動をどう受け止めるかは分からない。昨夜の話し合いでは、蓮組への無断接触をはっきり禁じられていた。それを破った以上、簡単に許してもらえるとは思っていない。
それでも、若頭として動いたことに後悔はなかった。
智史は窓の外を流れる街並みに目を向けた。
事務所へ戻れば、父親に今回の経緯を一から説明しなければならない。何を言われても、逃げずに自分の言葉で伝えるつもりだった。
少なくとも、今はそう胸を張って言えるだけの成果を持ち帰れたと思っていた。




