第21話 譲れぬ一線
水仙組の事務所に戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
浩介が事務所の奥へ進むと、柳浩二はいつもの席に腰を下ろし、加藤勝と話していた。その向かいでは柳智史が腕を組み、苛立たしげに貧乏揺すりをしている。
「組長、ただいま戻りました」
「おう、ご苦労さん。大河も一緒やな。ほな、店の様子を聞かせてもらおか」
浩二に促され、浩介は一礼してから口を開いた。
「実は、店で蓮組の人間と鉢合わせしまして……」
その一言で、智史の貧乏揺すりが止まった。
浩介は、店に現れた二人の男が水仙組との付き合いを整理するよう店主に迫っていたこと、その店主が怯えて返事もできずにいたことを順に説明した。
「向こうは、あくまで店のご主人にお願いしてるだけや言うてました。せやけど、あれはどう見ても脅しですわ」
「……そうか」
浩二は目を伏せ、しばらく黙っていた。
「それで、揉め事にはならんかったんか?」
「それが……一人が大河に絡んできまして。最後には肩をぶつけられたんです」
「何やて?」
智史が勢いよく立ち上がった。
「うちの縄張りに勝手に入り込んだだけやのうて、若い衆にまで喧嘩売ってきたんか!」
「若頭、落ち着いてください。肩をぶつけられただけですし、大河も手ぇ出してません。大きな騒ぎにはなってませんから」
「そういう問題ちゃうやろ!」
智史が机を叩くと、湯呑みが小さく跳ねた。
浩二は大河へ視線を向けた。
「大河、怪我はないんか?」
「はい。何ともありません」
「そうか。二人とも無事でよかったわ」
浩二は安堵したように息を吐いたが、智史は納得できない様子だった。
「親父、何を悠長なこと言うてんねん。こっちの若い衆にまで手ぇ出してきたんやぞ。完全に舐められとるやないか!」
「智史、まずは最後まで話を聞け」
智史は何か言い返そうとしたが、浩二の表情を見て口を閉じた。しかし、椅子に座り直そうとはしなかった。
「……これで黙っとったら、次はもっと好き勝手されるぞ」
浩介は反論しかけたが、智史の言葉にも無視できない部分があった。店主が怯えていたのは事実であり、蓮組の男たちも水仙組の存在を恐れているようには見えなかった。
「今は一軒、二軒の話や。せやけど、向こうが好き勝手し始めたら、最後にはうちの縄張りなんか残らへんぞ!」
「若頭のおっしゃることは分かります」
加藤が静かに口を開いた。
「店を奪われれば収入が減る。それだけやなく、長年付き合うてきた店からの信用も失いかねません。ただ、相手は桔梗組傘下の蓮組です。正面からぶつかって、うちが有利になるとは思えません」
「ほな、何もせんと指くわえて見とけ言うんか?」
「そうは言うてません。今回の二人が独断で動いとるんか、それとも蓮組全体の方針なんか。そこを確かめる必要があります」
「見極める、見極める言うてる間に、全部持っていかれたらどないするんや!」
加藤は一度口を閉じ、言葉を選ぶように間を置いた。
「百合組から援助が得られん以上、こちらが先に揉め事を起こせば、責任を負うんは水仙組です。店の人間にも迷惑がかかります」
智史は加藤を睨んだが、それ以上は言い返さなかった。
「二人とも、そこまでや」
浩二が二人を制した。
決して大きな声ではなかったが、智史も加藤も姿勢を正した。
「智史、お前の言うことも分かる。縄張りを取られたら、うちの若い衆も食うていかれへん。せやけど、腹が立ったから殴り込みに行くいう話でもないやろ」
「……親父」
「店を守るつもりが、店を潰してしもうたら意味ないんや」
智史はしばらく父親を見つめたあと、椅子に腰を下ろした。
*
「おい、大河」
智史が口を開いた。
「お前、蓮組の奴に喧嘩売られて黙っとったらしいな」
「はい」
「何でや? 肩ぶつけられて、腹も立たんかったんか?」
大河は智史を見た。
肩に伝わった衝撃を思い出す。相手が顔を近づけ、こちらの反応を待っていたとき、決して愉快な気分ではなかった。
「腹が立たんかったわけやありません。ただ、僕らは店の様子を確認しに行ったんです。喧嘩しに行ったわけやないですから」
「お前一人が舐められるんとちゃうぞ。下っ端が何もできへんかったら、組まで舐められるんや」
「若頭の言うことも分かります。けど、あそこで僕が殴り返してたら、店の人はもっと困ってたと思います」
「ほな、お前は何もせんと我慢し続けろ言うんか?」
大河はすぐには答えなかった。
あの店で、先頭の男は終始笑っていた。もう一人が挑発してきても、慌てる様子はなかった。
大河は膝の上に置いた手を軽く握り、それから力を抜いた。
「我慢し続けるんが正しいとは思いません。ただ、相手が何を考えてるか分からんうちに、こっちから手を出すんは危ないと思います」
「……何やと?」
「もし向こうが、僕らに先に手を出させようとしてたんやったら、思うつぼです。もちろん、ほんまにそうやったかは分かりませんけど」
加藤が大河へ目を向けた。
「相手の様子を見て、そう思うたんか?」
「はい。先頭の男は、もう一人が僕に絡んでも落ち着いてました。最後は自分から引き上げていきましたし」
智史は不満そうに鼻を鳴らした。
「結局、手ぇ出さんかった言い訳にしか聞こえへんけどな」
「智史」
浩二が息子を見据えた。
「大河は、わしの言いつけを守ったんや。そこを責めるんは違うやろ」
「……親父まで、そいつの肩持つんか」
「肩を持つんやない。今回は怪我人も出さんと帰ってきた。それでええ言うてるんや」
智史は何か言いかけたが、結局黙り込んだ。
大河も頭を下げ、それ以上は口を挟まなかった。
*
浩二は机の上に置かれた湯呑みを脇へ寄せ、全員の顔を見渡した。
「ほな、これからのことを決めよか」
智史が顔を上げる。
「まず、蓮組の連中と会うても、こっちから喧嘩は売らん。挑発されても手を出すな。何かあったら必ずわしに報告すること。ええな?」
「……はい」
浩介が答えると、浩二は頷いた。
「浩介、お前には引き続き店を回ってもらう。大河も一緒に行け。ただし、今度は店の人から話を聞くだけや。向こうの連中がおったら、無理に話をつけようとせんでええ」
「分かりました」
「店の人にも、水仙組との付き合いを無理に続けろとは言わんでくれ。商売しとる人間には、その人らの暮らしがあるんや」
浩介は先ほどの店主の姿を思い浮かべた。
蓮組が帰ったあとも、何度も入口を気にしていた。水仙組との付き合いをやめたくないと言いながら、次に何をされるか怯えていた。
「組長、あの店のご主人も、ほんまに困ってはりました。何か言われたら連絡してくれとは伝えてます」
「それでええ。まずは話を聞いてやってくれ」
浩二は加藤へ向き直った。
「勝、お前には集まった話を整理してもらいたい。どの店に、いつ頃から、どんな連中が来とるんか。話が食い違うところもあるやろうから、そこも確かめてくれ」
「承知しました。店ごとの状況を照らし合わせれば、蓮組の動きも少しは見えてくるはずです」
「頼むわ。こっちが動くにしても、何も知らんままでは話にならんからな」
浩二は一度言葉を切り、智史を見た。
「智史、お前にも言うとく。勝手な行動はするな。何か考えがあるなら、まずわしに話せ」
「……何や、俺だけ信用できへんのか?」
「そういう話ちゃう。お前は若頭や。お前が動けば、組全体が動いたと受け取られることもある。その責任を考えてくれ言うてるんや」
智史は視線を逸らした。
「俺かて、水仙組のことを考えて言うてるんやぞ」
「分かっとる。せやからこそ、落ち着いてほしいんや」
浩二はゆっくりと続けた。
「縄張りは大事や。せやけど、そこにおる人間の暮らしまで壊して守るもんやない」
その言葉を聞いて、浩介は黙って頷いた。
智史は父親の言葉を聞き終えると、低い声で尋ねた。
「……親父。それで、いつまで待つつもりなんや?」
「いつまでも待つ気はない。店の話が集まったら、もう一度判断する。今はそれが先や」
「集まった頃には、手遅れになっとるかもしれへんぞ」
「その危険も分かっとる。せやけど、何も知らんまま動く方が危ない。必要なら組として正式に話をつけるが、今ここで感情に任せて動くことは認めん」
智史は父親を見つめた。
しばらく誰も口を開かなかった。壁に掛けられた時計の針が進む音だけが、妙にはっきりと聞こえてくる。
やがて智史は背もたれに体を預け、深く息を吐いた。
「……分かったわ。親父がそう言うんやったら、今は従う」
「そうしてくれ」
浩二は短く答えた。
智史はそれ以上反論せず、腕を組んだまま窓の方を向いた。
加藤は手元のメモに目を落とし、浩介は大河へ小さく頷いた。
*
話し合いが終わり、浩介と大河は事務所の一角へ移った。
浩介は壁にもたれ、首を軽く回した。
「……疲れたわ」
「兄貴、店でも事務所でも大変でしたね」
「お前も他人事みたいに言うなや。途中から若頭に目ぇつけられとったやろ」
「僕は聞かれたことに答えただけですよ」
「それが余計に腹立つんやろな、あの人は」
浩介は苦笑したが、すぐに表情を戻した。
「せやけど、智史の兄貴が怒るんも分からんことはない。店との付き合いがなくなったら、組の収入も減る。ここで食うてる連中の生活もかかっとるからな」
「……そうですね」
「かといって、相手は蓮組や。勢いだけでぶつかって勝てる相手ちゃう。組長が慎重になるんも当然やと思う」
大河は少し考えてから口を開いた。
「守らなあかんもんが多いほど、簡単には動けへんのですね」
浩介は意外そうに大河を見た。
「……お前、たまに妙に年寄りくさいこと言うな」
大河は軽く笑った。
「兄貴の真似ですわ」
「誰が年寄りや!」
思わず声を上げた浩介につられ、大河も笑った。
店での一件から張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
「ほんま、お前は……」
浩介は呆れたように笑い、やがて廊下の方へ目を向けた。
「せやけどな、大河。今回の件、そう簡単には終わらんと思うで」
「……はい」
「組長の方針は決まった。あとは向こうがどう出てくるかやな」
大河は静かに頷いた。
蓮組の男たちが見せた余裕と、事務所で声を荒らげていた智史の姿が、頭の中に残っていた。
*
一方、組長の部屋を出た智史は、事務所の廊下を歩いていた。
父親の方針に従うとは言ったものの、胸の奥にはまだ怒りが残っている。
縄張りを荒らされ、若い衆まで挑発された。それでも今は相手の動きを調べるだけだという。
智史は途中で足を止めた。
廊下の先には誰もいない。
しばらくその場に立ち尽くしたあと、低い声で呟いた。
「……舐められっぱなしで、終われるかいな」




