第20話 売られた喧嘩
「なんや。水仙組の人らも来てはったんですか」
男はそう言うと、まるで顔見知りの客にでも会ったかのように笑った。その後ろに立つもう一人も、店内を見回しながらゆっくりと戸を閉めた。
「……あんたら、蓮組の人間やな?」
浩介が尋ねると、先頭の男は大げさに頷いた。
「ようご存じで。そちらは水仙組の林さんでしたか。お名前は聞いてますわ」
「ほな、何しに来たんかも聞かせてもらおか」
「何しにって、飯食いに来たらあきませんの?」
男は空いている席へ目を向けたが、腰を下ろそうとはしなかった。店主は二人の顔を見た途端、手にしていた布巾をさらに強く握りしめている。
「飯食いに来たんやったら、店の人をそんな怖がらせる必要ないやろ」
「怖がらせる? そら心外ですな。僕ら、別に何もしてませんで」
男は笑みを崩さなかった。
「ただ、最近この辺りの店を回らせてもろてるだけですわ。これから長い付き合いになるかもしれませんしな」
「……長い付き合い?」
「ええ。水仙組さんも昔からこの辺りで頑張ってはるみたいですけど、時代も変わりますやろ。店の人らかて、付き合う相手は自分で選びたいでしょうし」
言葉だけを聞けば、もっともらしい話だった。しかし、店主が男の顔をまともに見られずにいる様子が、その言葉とは違う事情を物語っていた。
「おっちゃん、そんな難しい顔せんといてくださいよ」
男は店主へ向き直った。
「前にも言いましたやろ。うちらとしては、今後は水仙組さんとの付き合いを整理して、こっちと付き合うてもらえたらと思うてるんです」
「そ、それは……」
店主は口を開きかけたものの、続く言葉が出てこなかった。
「うちは昔から水仙組さんにお世話になってますし……」
「せやから、その昔からの付き合いを一回考え直してほしい言うてるんですわ」
男は穏やかな声のまま、店主の返事を待った。その隣で、もう一人の男が面倒くさそうに舌を鳴らす。
「いつまで同じ話させんねん。こっちも暇ちゃうんやぞ」
「おい」
先頭の男が軽く手を上げて制した。
「店の人を急かしたらあかんやろ。商売してはるんやから、いろいろ考えることもあるわな」
そう言いながらも、店主から視線を外そうとはしない。
浩介は二人の間に割って入るように、一歩前へ出た。
「話は分かった。せやけど、ここは昔からうちと付き合うてくれとる店や。いきなり関係を切れ言われても困るやろ」
「そら、困るかもしれませんな」
「分かっとるんやったら、店の人に返事を迫るんはやめてもらえんか」
「迫るやなんて、人聞き悪いですわ」
男は肩をすくめた。
「僕らはお願いしてるだけです。どちらと付き合うか決めるんは、店のご主人でしょう?」
浩介はすぐには答えなかった。
店主が自由に選べる状況なら、これほど怯えるはずがない。だが、目の前の男はあくまで穏やかな話し合いを装っている。その態度に、浩介はかえって腹立たしさを覚えた。
「……組同士の話に店を巻き込むんは筋が違うやろ」
「組同士?」
男は不思議そうに首を傾げた。
「僕らは店との付き合いの話をしてるんですけどな。そちらが組同士の問題にしたい言うなら、話は別ですけど」
その言葉に、浩介の表情が険しくなった。
大河は隣で二人のやり取りを聞いていた。
先頭の男は、こちらを挑発しながらも決して声を荒らげない。もう一人が乱暴な言葉を口にするたび、軽く制する仕草まで見せているが、その間も店主に向ける圧力は緩めていなかった。
大河が店主へ視線を移すと、店主は何度も浩介の顔をうかがっていた。助けを求めたいのだろうが、その場でどちらかの肩を持てば、後で何を言われるか分からない。
「……兄貴」
大河が小さく声をかけた。
「なんや?」
「店の人も困ってはりますし、ここで言い合うても仕方ないんちゃいますか」
その声に、蓮組の男が初めて大河をまともに見た。
「……そっちの兄ちゃんは?」
「うちの若い衆や」
浩介が短く答える。
「へえ。若いのに、えらい落ち着いてはりますな」
男は大河を上から下まで眺めた。
「名前、何て言いますの?」
「近藤大河です」
「近藤君か。僕らが来たときから、ずっと黙って聞いてはったな」
「兄貴が話してはりましたから」
「なるほど。上下関係はよう分かってるみたいやな」
男は薄く笑った。
「せやけど、さっきは自分から口挟んできたやろ。何か言いたいことでもあるんか?」
浩介が大河をちらりと見た。大河はその視線を受け、軽く頷いてから答えた。
「別に難しいことやないです。僕らがここで揉めても、店の人が困るだけですやろ」
「……ほう」
「組同士で話があるんやったら、店の外で話した方がええんちゃいますか」
大河は穏やかな口調を崩さなかった。
その返答が気に入らなかったのか、後ろにいた男が前へ出てきた。
「おい、兄ちゃん。さっきから聞いとったら、えらい偉そうやな」
「そんなつもりはありませんけど」
「下っ端のくせに、誰に向かって口きいとんねん」
男が大河の目の前まで歩み寄ると、浩介がすぐに間へ入ろうとした。
「おい、やめとけ。そいつはまだ若いんや」
「若かったら何言うてもええんか?」
「そういう話ちゃうやろ」
浩介の声が少し強くなった。
その隙を突くように、男は大河の肩へ自分の肩をぶつけた。鈍い衝撃が伝わったが、大河は足を動かさなかった。
「……なんや、文句あるんか?」
男が顔を近づける。
大河は相手の目を見たまま、ゆっくりと首を横に振った。
「ありませんよ」
「あ?」
「僕はただ、店の人を困らせん方がええ言うただけです」
「……こいつ」
男の口元が引きつった。
大河は男の拳が握りしめられるのを見ていた。肩をぶつける直前にも、男は一瞬だけこちらの顔をうかがっている。怒りに任せて手を出したというより、大河がどう反応するかを試しているようにも見えた。
大河はわずかに顎を引き、相手との距離を保った。
ここで手を出せば、店主に迷惑がかかるだけでは済まない。浩介が組長から受けた指示にも背き、蓮組との争いを大きくする口実を与えかねなかった。
「兄貴」
大河は男から視線を外さずに言った。
「僕は大丈夫です。兄貴が話、続けてください」
浩介は一瞬驚いたように大河を見たが、すぐに男へ向き直った。
「もうええやろ。うちらは店の話を聞きに来ただけや。喧嘩しに来たんちゃう」
「……ふん」
男は不満そうに鼻を鳴らした。
すると、先頭の男がその肩を軽く叩いた。
「もうやめとけ。話は済んだやろ」
「せやけど、こいつが……」
「ええから」
先頭の男は笑っていたが、最後の一言だけは妙に低かった。
男は一度店主へ目を向け、それから浩介に視線を戻した。店主は相変わらず俯いたままで、返事をするどころではない。先頭の男はそれ以上言葉を重ねず、連れに出口を示した。
もう一人は舌打ちしながらも、引き下がった。
「まあ、今日はこの辺にしときますわ。こっちも店のご主人に話を伝えに来ただけですしな」
「……そうか」
「ただ、いつまでも待てるわけやありません。ご主人にも、よう考えてもらわんと」
そう言って店主を見ると、店主は小さく頷くことしかできなかった。
「ほな、また寄らせてもらいます」
二人は最後まで慌てることなく店を出ていった。
戸が閉まる音が響いたあとも、店内にはしばらく沈黙が残った。
*
「……すんません、浩介さん」
最初に口を開いたのは店主だった。
「何で謝るんや?」
「いや、うちがはっきり断れへんから、こんなことになってしもうて……」
「おっちゃんが謝ることちゃうやろ」
浩介は声を和らげた。
「店を守らなあかんのは分かっとる。向こうに何言われるか分からん状況で、簡単に断れ言う方が無茶や」
店主は俯いたまま、何度か頷いた。
「ほんま、どうしたらええんか……。水仙組さんには昔から世話になってるし、付き合いやめるつもりなんかないんです。せやけど、向こうもまた来る言うてますし……」
言いながら、店主は入口へ目を向けた。先ほどの二人が戻ってくるのではないかと、まだ気にしているようだった。
「今日のことは組長に報告する。せやから、今ここで無理に答え出さんでもええ」
「……ありがとうございます」
「ただ、また何か言われたら教えてくれ。何も聞かんままやと、こっちも状況が分からんからな」
浩介の言葉に、店主はようやく少しだけ顔を上げた。
大河はその様子を黙って見ていた。
店主が安心したように見えたのは、ほんの一瞬だった。すぐに入口を気にする姿に戻ってしまう。
蓮組の男たちは何一つ壊しておらず、誰かを殴ったわけでもない。それでも、この店の主人は、いつもどおり商売を続けることさえ難しくなっていた。
「……兄貴、そろそろ行きましょうか」
「せやな」
浩介は店主にもう一度声をかけ、大河とともに店を後にした。
*
店を出ると、繁華街にはいつもどおりの賑わいがあった。通りを歩く人々の笑い声や、店先から聞こえてくる呼び込みの声が、先ほどまでの重苦しい空気を嘘のように感じさせる。
「……大河」
「はい?」
「さっきはよう我慢したな」
「何のことです?」
「とぼけんな。肩ぶつけられたやろ」
「ああ、あれですか」
大河は軽く肩を回した。
「別に大したことありませんよ」
「お前なあ……。あそこで殴り返しとったら、面倒なことになっとったんやぞ」
「分かってます。兄貴も、親父から揉めるな言われてましたし」
「分かっとるんやったらええけどな」
浩介は小さく息を吐いた。
「それにしても、蓮組の連中……。あそこまで堂々と来るとは思わんかったわ」
「水仙組が何もできへんと思われてるんでしょうか」
「その可能性はあるな。向こうはうちより大きい組やし、百合組も今のところ助けてくれへん。強気に出られる理由はある」
浩介はしばらく黙って歩いたあと、口を開いた。
「せやけど、こっちも黙っとるわけにはいかん。あの店だけやないんや。ほかにも同じように困っとる店がある」
「……そうですね」
「このまま放っといたら、ほかの店にも広がるかもしれん」
大河は返事をせず、少し考えた。
蓮組の男たちは、こちらと顔を合わせても動じなかった。先頭の男は言葉を選びながら店主に圧力をかけ、もう一人が挑発的な態度を取っていた。
あの二人が何を考えていたのか、すべて分かったわけではない。ただ、今日のやり取りだけで終わる相手ではないことは確かだった。
「兄貴、これからどうするんです?」
「まずは親父に報告や。それから、ほかの店の話も聞かなあかん」
「若頭は何て言うてはったんです?」
その問いに、浩介は苦い顔をした。
「……まあ、だいぶ怒っとったわ」
「そうなんですか」
「縄張り荒らされとるんやから、腹立つんは分かる。せやけど、智史の兄貴が強引に動いたら、余計にややこしなるかもしれん」
浩介はそこで言葉を切り、周囲を一度見回した。
「相手は蓮組や。こっちの意地だけでどうにかなる話ちゃうからな」
大河はゆっくりと頷いた。
「まずは親父に話しましょう。余計な揉め事は増やさん方がええと思います」
「……せやな」
浩介はそう答えたものの、足取りはどこか重かった。
大河もその隣を歩きながら、先ほどの店主の姿を思い返していた。何度も入口を気にしていたあの目が、頭から離れない。
店主はただ、これまでどおり商売を続けたいだけなのだろう。だが、その当たり前の願いさえ、今は水仙組と蓮組の出方に左右されている。
「……大河」
しばらくして、浩介が再び口を開いた。
「はい?」
「親父は、揉め事を起こすな言うてはった。せやけど、智史の兄貴がいつまで黙っとってくれるか……」
浩介はそこまで言うと、口を閉じた。
大河も返す言葉を探したが、今は何も言えなかった。
二人はそのまま、事務所へ向かって歩き続けた。
蓮組との争いを避けられるかどうかは、相手の出方だけで決まるものではない。
水仙組が次にどんな判断を下すのか。
それもまた、店主たちの行く末を左右することになるのだった。




