第18話 店を支える者たち
クラブミーナを訪れてから数日後、大河は再び三人を連れて店の前に立っていた。
六月の夕暮れはまだ明るさを残していたが、繁華街では看板に明かりが灯り始めている。
「今日はほんまに中を見せてもらえるんですよね?」
真二は入口を覗き込み、落ち着かない様子で尋ねた。
「そういう約束や。せやけど、遊びに来たんとちゃうからな」
「分かってますって!」
「……俺、何時まで見とかなあかんのです?」
勝人がぼやくと、健太郎が小さく苦笑した。
店に入ると、奥から怜香が姿を見せた。
「あら、大河君! いらっしゃい。みんなも来てくれたんやね」
「今日はよろしくお願いします」
「ふふっ。そんな堅苦しくせんでええよ」
怜香は四人を迎え入れると、店内の一角を指した。
「今日はお客さんとしてやなくて、店がどう動いとるかを見てもらうからね。ただし、お客さんの個人的なことや女の子らの事情には立ち入らんといて。営業中も、うちが言うた場所から勝手に動かんようにしてな」
「分かりました」
「それと、仕事の邪魔はせんこと。これだけは約束してね」
四人が頷くと、怜香は満足そうに微笑んだ。
「ほな、まずは開店準備から見てもらおか」
*
店内では、すでに何人もの従業員が忙しく動いていた。
テーブルを磨く者、グラスに汚れがないか確かめる者、酒瓶を棚へ補充する者。予約表を手にした女性が席を確認し、別の従業員と短く言葉を交わしていた。
「うわぁ……開店前からこんなに仕事あるんですね」
真二が感心したように声を漏らした。
「客が来てから仕事始まるんやと思ってましたわ」
「お客さんが来てから準備しとったら、間に合わへんやろ?」
怜香が笑った。
そのとき、飲み物の入った箱を抱えた従業員が通りかかった。健太郎は自然と体を引き、通り道を空けた。
「重そうですね……」
「ほな、俺が持ちますわ!」
真二が勢いよく立ち上がった。
「真二くん、ちょっと待って」
怜香が穏やかに呼び止めた。
「気持ちはありがたいけど、どこに何を置くか決まってるんよ。知らんまま動かしたら、かえって困ることもあるからね」
「あ……そうなんですか」
「うん。でも、手伝おうとしてくれたんは嬉しいよ。ありがとう」
真二は照れくさそうに頭をかき、元の場所へ戻った。
大河は従業員が箱を運ぶ先を目で追った。棚の前では別の者が待ち受け、受け取った酒を決まった場所へ収めている。
「勝手に手ぇ出したら、あかんこともあるんですね」
「そういうこと。みんな、それぞれ自分の仕事があるからね」
大河は頷いた。真二のように進んで動く人間は頼もしい。ただ、任せる側が仕事の段取りを知らなければ、その積極性を生かすことも難しいのだろう。
*
やがて開店の時間を迎え、最初の客が姿を見せた。
「いらっしゃいませ!」
従業員たちの声が重なり、静かだった店内に華やかさが広がっていく。
大河たちは怜香に指定された、客席から少し離れた場所で様子を見守った。
「あのお客さん、いつものお酒でよろしいですかって聞かれてましたね」
真二が声を潜めた。
「よう覚えてますねぇ」
健太郎は、客が増えるにつれて動きを変える従業員たちに目を向けていた。
「……みんな、声かけ合ってますね」
飲み物を運ぶ従業員が、席へ向かう女性に道を譲る。別の者は空いたグラスを下げ、すぐに次の注文へ向かった。
「見てるだけでも忙しそうやなぁ……」
勝人は椅子に腰を下ろし、眠たそうに呟いた。
大河の目は怜香を追っていた。
怜香は客と楽しそうに話しながらも、ときおり入口や奥の席へ視線を向けている。追加注文が入れば担当者に伝え、次の客が到着すれば席の準備を確かめる。
大河が以前、客としてこの店に来たときには、怜香がこれほど頻繁に従業員と言葉を交わしているとは気づかなかった。
*
営業が進み、店内が賑わい始めた頃だった。
「怜香さん、少しよろしいですか?」
予約表を持った従業員が、困った表情で近づいてきた。
「どうしたん?」
「先ほどお電話がありまして、今夜ご予約のお客様が、予定より人数を増やしたいそうなんです。広いお席をご希望で……」
怜香は予約表を受け取り、眉を寄せた。
「奥のお席は?」
「もう別のお客様の予約が入ってます。以前からご予約いただいている常連の方です」
「そうやったね……」
怜香は店内を見渡した。客席にはすでに何組もの客が座り、従業員たちが忙しく行き来している。
「椅子増やしたらええんちゃいます?」
真二が小声で言った。
大河も同じことを考えていた。座る場所が足りないなら、椅子を足せば済むのではないか。
しかし、怜香は首を横に振った。
「椅子増やしたら通路が狭なるやろ。ほかのお客さんも通るし、女の子らも動きにくなるからね」
言われて大河は通路へ目を向けた。酒を運ぶ従業員が通り、席を立った客がその横を抜けていく。そこへ椅子を並べれば、確かに窮屈になる。
大河は何か言いかけて、口を閉じた。
自分なら、人数分の椅子を用意した時点で解決したつもりになっていただろう。そう思うと、少しばかり気恥ずかしかった。
「それに、奥のお席は先に予約してくれはったお客さんのものやから。後から変えるわけにはいかへんね」
怜香は従業員と予約表を覗き込み、空いている席を指で確かめた。
「こっちの二つのお席、合わせて使えそう?」
「少し動かせば大丈夫やと思います。ただ、広さはご希望ほど取れないかもしれません」
「ほな、通路が狭ならへんか先に確かめよか。ほかのお席にも迷惑かからんようにね」
二人は実際に席の間を歩き、椅子を動かせる範囲を確認した。近くの従業員にも声をかけ、飲み物を運ぶ際に支障がないか尋ねた。
しばらくして怜香が頷いた。
「これやったら何とかなるかな。ただし、広いお席は用意できへんから、そのことは先に伝えて。無理やったらお断りするしかないわ」
「分かりました」
従業員が電話へ向かった。
真二は少し意外そうな顔をした。
「お客さんが増えるんやったら、店としては嬉しいんちゃうんですか?」
「もちろん嬉しいよ。でも、そのためにほかのお客さんが困ったらあかんやろ?」
怜香がそう答えたところへ、別の従業員が近づいてきた。
「怜香さん、入口にお客様がお見えなんですけど、お席の確認をお願いできますか?」
「うん、ちょっと待ってね」
怜香は予約表へ目を落とし、該当する席を確かめた。
「そのお客様は予定どおりのお席で大丈夫。案内してあげて。何かあったら、また呼んでね」
「分かりました」
従業員が戻っていくと、怜香は電話の方へ視線を向けた。
少し離れた場所から、予約客に事情を説明する声が聞こえてくる。
「申し訳ございません。奥の広いお席は、すでに別のお客様のご予約がございまして……」
相手の返事を聞く間、従業員は受話器を耳に当てたまま黙っていた。
「はい。お人数分のお席はご用意できます。ただ、ご希望ほどの広さは……」
再び沈黙が流れた。
真二が大河の方を見た。
「……断られるんですかね」
「分からん」
大河は短く答えた。
その間にも店内では客が行き来し、注文を受けた従業員が忙しく動いている。予約客の返事を待っているからといって、ほかの仕事が止まるわけではなかった。
怜香は電話の様子を気にかけながらも、近くの従業員から声をかけられると、そちらへ向き直って手短に指示を出した。
大河はその横顔を見つめていた。
自分なら、あの電話の返事が気になって、ほかのことまで目が届くだろうか。
やがて従業員が受話器を置いた。
「ご説明したところ、それでも構わないとのことです」
「……そう。よかった」
怜香は小さく息を吐き、表情を和らげた。
「ほな、準備お願いね。ほかのお席にも気ぃつけて」
従業員たちが手分けして席を整え始めた。グラスを追加し、椅子の位置を調整し、予約人数を確かめ直す。
別の席への対応も続いているため、誰も手を止められない。
準備が整った頃、増員した予約客が到着した。案内を受けた客たちは席へ向かい、やがて笑い声が聞こえ始めた。
先に予約していた常連客の席も、そのまま確保されていた。
「急に仕事増やしてごめんな。助かるわ」
怜香が対応した従業員へ声をかけた。
「いえ、間に合ってよかったです」
従業員はほっとしたように笑い、次の仕事へ戻っていった。
大河は、椅子の位置を最後に確かめてから持ち場へ戻る従業員を見送った。
何事もなかったように客の笑い声が響く店内で、先ほどまでの慌ただしさを知っているのは、働く者たちと自分たちだけだった。
*
ひとまず対応が落ち着いたところで、怜香が四人のもとへ戻ってきた。
「どう? 実際に見てみた感想は」
「いやぁ、びっくりしましたわ!」
真二が真っ先に答えた。
「人数増えただけで、あんなに仕事が増えるんですね。椅子足したら終わりやと思ってました」
「ふふっ。そう簡単にはいかへんのよ」
「……みんな、ちゃんと声かけ合ってましたね」
健太郎が静かに言った。
「忙しくても、一人で何とかしようとはしてへんかったです」
「そうやね。誰か一人だけ頑張っても、店は回らへんから」
怜香は頷き、勝人へ顔を向けた。
「勝人くんは?」
「俺やったら、あんな忙しい仕事は嫌ですわ。みんな、よう毎日続けられますね」
「あははっ。慣れるまでは大変やけど、慣れたら楽しいこともあるんよ」
「楽しいことがあるんはええですけど、あの忙しさはちょっと……」
真二が呆れた顔をした。
「お前、ほんま働く気あるんか?」
「あるで。できれば楽な方がええだけや」
二人のやり取りに大河も笑った。
「お前ら、見とるところが全然違うんやな」
「大河さんは何見てたんです?」
真二に尋ねられ、大河は少し考えた。
「怜香さんが、誰に何を任せとるかやな」
それから怜香へ向き直った。
「怜香さん、さっきの人数が増えたお客さん、断ることも考えたんですか?」
「もちろん。どうしても無理やったら、お断りするしかないわ。無理して受けても、ほかのお客さんに迷惑かけたら意味ないからね」
「……なるほど」
大河は頷いた。
怜香が予約表を見つめていたときの表情と、客の了承を聞いたあとの安堵が、頭に残っていた。
*
夜が更け、最後の客が帰ったあとも、クラブミーナの仕事は終わらなかった。
従業員たちはグラスを片づけ、テーブルを拭き、残った酒の本数を確認していた。別の者は翌日の予約表を広げ、必要な準備を書き留めている。
真二は椅子へ腰を下ろし、長く息を吐いた。
「これ、客が帰ったら終わりちゃうんですね……」
「そらそうよ。明日もお客さんを迎えなあかんからね」
怜香は笑いながら答えた。
「見とるだけで疲れましたわ」
「真二、お前ほとんど座ってたやろ」
勝人が横から口を挟んだ。
「お前はずっと座ってたやないか!」
「せやから俺は、そこまで疲れてへんで」
健太郎が口元を押さえ、大河も思わず笑った。
片づけの進む店内を見渡しながら、大河は怜香に尋ねた。
「毎日、こういうことを全部見てはるんですか?」
「全部を一人でやるわけちゃうよ。任せられることは任せてる。でも、何かあったときに責任取るんは、うちやからね」
「責任、ですか」
「うん。今日の席のことかて、もしうちの判断が悪くてお客さんに迷惑かけたら、従業員だけの問題にはできへんやろ?」
大河は営業中の出来事を思い返した。
怜香が席の配置を決め、従業員たちがその指示を受けて動いた。もし客が納得しなかったら、あるいは別の席に支障が出ていたら、どうなっていただろう。
「……断ることになっても、怜香さんが説明するんですね」
「そういうこと。決めるんはうちやから」
怜香はそう言って微笑んだが、目元には一日の疲れが滲んでいた。
大河が黙っていると、怜香は片づけを終えかけた従業員たちへ声をかけた。
「今日は急な変更もあったのに、みんなありがとう。助かったわ」
「お疲れさまでした!」
笑顔で返事をする者もいれば、疲れた様子で肩を回す者もいた。怜香は一人ずつに目を向け、帰り支度を始めた従業員を見送った。
大河は何か言おうとして、結局、口を閉じた。
仕事を任せる側の責任について、自分はまだ知らないことが多い。今ここで分かったようなことを言う気にはなれなかった。
「今日は、ほんまに勉強になりました」
大河が頭を下げると、怜香は優しく微笑んだ。
「大河君が何を始めるんか、楽しみにしてるわ」
「まだ何も決まってませんけどね」
「ふふっ。焦らんでええんちゃう? せっかくやし、いろいろ見て考えたらええよ」
「そうさせてもらいます」
大河は改めて礼を述べ、三人とともに店を後にした。
*
深夜の繁華街には、まだ人の姿が残っていた。
店を出てきた客たちの笑い声が響く一方、看板の明かりを消し、片づけを始める店もある。
「ああ、疲れたぁ……」
真二が大きく伸びをした。
「でも、今日は面白かったですね。普段見られへんもん見られましたし」
「……そうですね」
健太郎が頷いた。
勝人は眠そうに目をこすっていた。
「俺は早よ帰って寝たいわ」
大河は三人を振り返った。
「なぁ、お前ら。今日の仕事見て、お前らやったら何ができそうや?」
「俺は何でもやりますよ! 掃除でも、荷物運びでも!」
真二が勢いよく答えた。
健太郎は少し考えてから口を開いた。
「……自分にできることから、やってみたいです」
「勝人は?」
「俺は、できればあんまり動かん仕事がええです」
「お前は最後までそれか!」
真二の声に、健太郎が小さく笑った。
大河も笑いながら、三人の顔を順番に見た。
真二は体を動かすことにためらいがなく、健太郎は周囲をよく見ている。勝人は相変わらず楽をしたがっていた。
けれど、今日の見学だけで、それぞれに何を任せられるかまでは分からない。
「ほな、まずはできることから探していこか」
「はい!」
真二が元気よく返事をした。
大河が歩き出すと、三人もそのあとに続いた。
次は、見て覚えるだけではなく、実際に何かをやらせてみる必要があるのかもしれない。
ただ、その前に考えなければならないことがある。
何を任せるか。そして、もし失敗したとき、自分はどうするのか。
大河は三人の足音を背中に聞きながら、夜の繁華街を歩いていった。




