第15話 張り子の虎
紅蓮隊の幹部たちを倒した翌日、大河の携帯電話に一本の連絡が入った。
『近藤大河さんですか。昨日の件ですけど、うちのリーダーが会う言うてます』
「ほう。それはありがたい。場所は?」
男が告げたのは、繁華街の中心から少し離れた雑居ビルだった。昨日の集合場所とは違い、紅蓮隊のリーダーが普段から使っている事務所らしい。
「分かりました。こちらは四人で伺います」
『……妙な真似はせんといてくださいよ』
「それはこちらの台詞ですわ」
大河は軽く笑って電話を切った。
傍らで話を聞いていた真二が、待ちきれない様子で身を乗り出す。
「大河さん! いよいよ田辺と会うんですね!」
「田辺?」
「紅蓮隊のリーダーですわ。田辺将太いう男です」
「どんな奴なんや?」
「それが……」
真二は健太郎と顔を見合わせた。
「金持ちなんは有名です。親父が医者らしくて、ええ車乗って、よう奢ったりしてますわ」
「……金払いはええです」
健太郎が短く付け加える。
「ただ、あんまり自分では動かへん人です」
「なるほどな」
大河は頷いた。金払いがよいというだけでは、その男がどのような人物なのか分からない。人を集める手段の一つとして、金は確かに役に立つ。
「勝人、お前はどう思う?」
「どうって……別に」
勝人は気のない返事をすると、眠そうに目をこすった。
「俺、あの人とあんまり話したことないですし。偉そうにしてる印象しかないですねぇ」
「そうか。ならば会って確かめよう」
「……やっぱり行くんですね」
「ここまで来て帰るわけにもいかんやろ」
真二が笑い、健太郎は黙って頷いた。勝人だけが、今日も長くなりそうやと小さくぼやいていた。
指定されたビルに到着したのは、午後三時を少し回った頃だった。
古びた外観に似合わず、案内された最上階の事務所は妙に豪華だった。革張りのソファに大理石風のテーブル、壁には大きな絵画が飾られている。部屋の隅には高そうな酒瓶が並び、煙草の匂いに甘い芳香剤の香りが混じっていた。
「お前が近藤大河か」
部屋の奥から声がした。
ゆったりとした革椅子に腰掛けていたのは、派手な柄のシャツを着た若い男だった。首元には太い金の鎖が光り、腕時計も一目で高価と分かる品だった。
男は大河たちを見渡すと、わざとらしく鼻を鳴らした。
「俺が田辺将太や。紅蓮隊のリーダーやっとる」
田辺将太。
その名を聞いても、大河の表情は変わらなかった。
「近藤大河です。今日は時間を取ってもろて、ありがとうございます」
「ふん。礼なんかいらんわ。それよりお前、よう俺の前に顔出せたな」
田辺はテーブルに足を投げ出しかけ、思い直したように組み直した。
「うちの連中を二回もボコボコにしたんやろ? 俺が本気になったらどうなるか、分かってんのか?」
「分からんから、こうして話をしに来たんです」
「……何やと?」
田辺の眉がつり上がる。
大河は構わず、空いているソファへ腰を下ろした。三人はその後ろに立つ。
「早速ですが、クラブミーナの件について話をさせてもらいます」
「またその話かいな。昨日も幹部の連中が何やかんや言うとったわ」
「ならば話が早い。今後、あの店への嫌がらせは一切やめてもらいたい。それと、誰の指示で動いていたのか教えてほしいんです」
田辺は一瞬きょとんとした後、声を上げて笑った。
「ハハハ! お前、何を偉そうに言うとんねん!」
周囲の構成員たちも、顔色をうかがうように笑う。
「水仙組やったか? あんな小さい組の下っ端が、俺に命令する気か?」
「命令やありません。まずはお願いしとるんです」
「お願い? それが人にもの頼む態度か!」
田辺は勢いよく立ち上がり、自分の腕時計を大河の目の前へ突き出した。
「これ、いくらするか知っとるか? お前みたいな下っ端の給料、何か月分やろなぁ!」
「さあ。時計には詳しくないもんで」
「ほんま、何も知らん奴やな!」
田辺は得意げに笑うと、今度は父親の話を始めた。
「俺の親父は医者やぞ。金もあるし、顔も広い。俺がちょっと頼んだら、動いてくれる奴なんかいくらでもおるんや」
「それは立派なお父上ですな」
「せやろ!」
「ところで、田辺さん自身は何をされてるんです?」
「……は?」
「お父上の話はよう分かりました。今はあなたの話を聞いとるんです」
部屋に短い沈黙が落ちた。
田辺の顔がみるみる赤くなる。
「お前……俺を馬鹿にしとんのか!」
「そんなつもりはありません。ただ、紅蓮隊を率いとるのは田辺さんでしょう。ならば、あなた自身の考えを聞きたいだけです」
大河は穏やかに答えながら、周囲の男たちへ目を向けた。
田辺が怒鳴るたび、部下たちはわずかに肩を揺らす。しかし、誰一人として大河に言い返そうとはしない。昨日の戦いに居合わせた幹部らしい男など、最初から視線を合わせようともしなかった。
恐れているのは自分たちの頭領の怒りなのか。それとも、逆らった後に失う金なのか。
いずれにせよ、田辺のために身を投げ出そうという気配は薄かった。
(なるほど。金で人を集めることはできても、心までは買えぬというわけか)
大河は改めて田辺を見た。
「それで、返事はどうなんです?」
「うるさい! お前ら、こいつを痛い目に遭わせたれ!」
田辺が叫んだ。
だが、壁際に立つ男たちは互いの顔を見合わせるばかりで、誰も動こうとしない。
「何しとんねん! 早よ行けや!」
「いや、田辺さん……」
昨日、大河に倒された幹部の一人が口ごもった。
「あいつ、ほんまに強いんですわ。ここは話だけでも……」
「何を情けないこと言うとんねん! お前ら、誰の金で遊べとる思ってんねん!」
田辺はテーブルを叩き、男たちを睨みつけた。
その言葉を聞いた瞬間、何人かの表情が変わった。怒りというほどではない。だが、露骨に見下された不快感が、確かにそこにあった。
真二が大河の背後で小さく呟く。
「……相変わらずやな、あの人」
「真二」
健太郎が低い声で制した。
大河は立ち上がった。
「田辺さん。もう一度だけ言います。こちらは無駄な争いを望んでおらん。クラブミーナから手を引いてくれたら、それでええんです」
「黙れ!」
田辺は近くにいた男の背中を乱暴に押した。
「行け言うとるやろ!」
押し出された男は困惑しながらも、大河へ拳を振り上げた。
大河は半歩だけ横へずれ、その腕を受け流す。男の体勢が崩れたところで肩を押さえ、足元を払った。
「うわっ!」
男は床に尻餅をつき、そのまま動きを止めた。
別の男が横から飛び込んできたが、大河は相手の拳をかわし、懐へ入って腹部に一撃を入れる。男は息を詰まらせ、膝をついた。
それだけだった。
大河は追撃せず、倒れた二人から距離を取った。
「ほかにも、まだやる者はおるか?」
返事はなかった。
昨日の幹部たちは動かず、若い構成員も目を伏せている。
「お、おい! 何してんねん、お前ら!」
田辺の声だけが部屋に響いた。
「金なら払う! 倍でも三倍でも払ったるから、こいつをやれや!」
しかし、誰も動かなかった。
大河が一歩進むと、田辺は反射的に後ずさった。
「な、何やねん……!」
「田辺さん」
「来んな!」
「まだ何もしてませんよ」
田辺の背中が革椅子にぶつかった。つい先ほどまで偉そうに座っていた椅子が、今は逃げ道を塞いでいる。
「お前、俺に手ぇ出したら後悔するぞ! 親父に言うたら……!」
「お父上は、今ここにおられるんですか?」
「……っ!」
「俺が話をしとる相手は、あんたです」
大河は田辺の目を見据えた。
「人の上に立ついうことは、金を払って命令するだけやない。いざという時、自分の言葉に責任を持たなあかんのと違いますか?」
田辺は何か言い返そうとしたが、言葉にならなかった。
大河は少し声を落とした。
「クラブミーナには、もう手を出さん。それでええな?」
「……わ、分かった」
「聞こえませんでした」
「分かった言うとるやろ! もう手ぇ出さん! これでええんやろ!」
大河は頷いた。
「では、もう一つ。誰に頼まれたんです?」
田辺の顔が強張る。
「そ、それは……」
「言えんのですか?」
「……仕事の話や。何でもかんでも教えられるわけないやろ」
声は震えていたが、その一点だけは譲ろうとしなかった。
大河はしばらく田辺を見つめた。
ここで脅せば、何かしらの名前を口にするかもしれない。だが、それが本当かどうかは別の話だ。そもそも、田辺が依頼の事情をどこまで知っているのかさえ分からない。
「……そうですか」
大河が身を引くと、田辺は目に見えて安堵した。
「ただし、約束を破ったら次はありませんで」
「わ、分かっとる!」
「なら、今日はこれで失礼します」
大河は軽く頭を下げた。
背後の三人も続く。
真二は拍子抜けしたような顔で、田辺と大河を交互に見ていた。
「……えっ、もう終わりですか?」
「終わりや。これ以上やる理由もない」
「いや、でも……」
真二はまだ何か言いたげだったが、健太郎に肩を叩かれると口を閉じた。
勝人はすでに出口へ向かっている。
「やっと帰れるわ……」
その背中を見ながら、大河は思わず笑った。
四人が事務所を出た後も、室内には重苦しい沈黙が残った。
田辺は椅子に腰を下ろし、震える手で煙草を取り出した。火をつけようとしても、ライターがなかなか定まらない。
「……何見とんねん」
周囲の男たちが視線を逸らす。
「今日はたまたまや! あんな奴、親父に頼んだらどうとでも……」
言いかけたところで、田辺は口を閉じた。
誰も相槌を打たなかったからだ。
これまでは金をちらつかせれば、誰かが笑い、誰かが機嫌を取り、誰かが命令に従った。だが今、その誰もが黙っている。
昨日敗れた幹部の一人が、小さく息を吐いた。
「……俺、ちょっと外出てきますわ」
「おい、待てや!」
男は振り返らず、部屋を出ていった。
別の男も後に続く。
田辺は引き止めようとしたが、怒鳴る以外に何を言えばよいのか分からなかった。
紅蓮隊という集団をつなぎ止めていたものが、少しずつ緩み始めていた。
*
「……田辺が負けた?」
丹波望は、電話の向こうから聞こえた報告に眉を上げた。
『はい。近藤大河が事務所に来て、田辺さんが連中をけしかけたんですけど……誰もまともに相手できんかったみたいです』
「ほんで、田辺は?」
『クラブミーナにはもう手を出さんって約束したそうです』
「そうかぁ」
丹波は椅子の背にもたれ、しばらく天井を見つめた。
幹部たちが敗れたと聞いた時点で、田辺が大河に勝てるとは思っていなかった。しかし、部下たちがほとんど動かず、争いが終わったというのは予想以上だった。
「まぁ……あいつらしい言うたら、あいつらしいな」
『どうします、丹波さん?』
「どうする言われてもなぁ。まずは様子を見るしかないやろ」
電話を切ると、丹波は机の上に置かれた缶コーヒーを手に取った。
田辺には金があった。それを目当てに集まる人間もいた。だが、金を出す者が命令するだけでは、いざという時に組織は動かない。
一方の大河は、たった四人で紅蓮隊の上層部に乗り込み、幹部を倒し、田辺から約束を取りつけて帰っていった。
力任せに潰そうと思えば、もっと荒っぽいやり方もあったはずだ。
「……面白い男やな」
丹波は小さく笑った。
もっとも、大河がどれほどの器なのかは、まだ分からない。強い男の周りに人が集まることは珍しくないが、その人間たちを食わせ、守り、長くまとめていけるかは別の話だった。
紅蓮隊に残るべきか。
それとも、別の道を考えるべきか。
丹波は初めて、その問いを以前よりも現実味のあるものとして受け止めていた。
「さて……これからどうしたもんかなぁ」
*
夕方の繁華街には、仕事帰りの人々が少しずつ増え始めていた。
大河たち四人は人混みを避けながら、駅へ向かって歩いていた。
「いやぁ、しかし田辺ってあんな奴やったんですね!」
真二が興奮気味に話し始める。
「金持ちで偉そうなんは知ってましたけど、あそこまで情けないとは思いませんでしたわ!」
「……昔から、あんな感じやったけどな」
健太郎が答える。
「せやけど、今日はほんまに誰も助けへんかったな」
「そら、あんな言い方されたら嫌にもなるやろ」
勝人は欠伸をしながら言った。
「金くれるから一緒におるんと、あの人のために殴られたいんとは別の話やし」
真二は少し考え込んだ。
「……まぁ、それはそうやな」
大河は三人の会話を聞きながら、静かに歩いていた。
田辺を倒すこと自体は難しくなかった。しかし、あの男を退けたところで、クラブミーナへの嫌がらせが始まった理由までは分かっていない。
ひと月もの間、店に迷惑をかけ続けながら、金も店の権利も要求しなかった。
そして以前、紅蓮隊の頭は水仙組の名を聞くなり電話を切ったという。
田辺が単に臆病だったからなのか。それとも、別の事情があるのか。
(あやつらが勝手に始めた騒ぎとは、どうにも思えんな)
「大河さん?」
真二に呼ばれ、大河は顔を上げた。
「どうした?」
「これでクラブミーナの件、解決ですかね?」
「嫌がらせは止まるやろ。少なくとも、田辺はそう約束した」
「ほな、よかったですやん!」
「ああ。だが、誰が何のために始めたのかは、まだ分からん」
真二の笑顔が少し曇った。
「……まだ調べるんですか?」
「必要ならな」
その答えを聞いた勝人が、心底嫌そうに肩を落とした。
「うわぁ……まだ終わらへんのか」
「お前、ほんまそればっかりやな!」
「終わったと思ったら次の仕事やで? そら言いたくもなるわ」
健太郎が小さく笑い、大河もつられて口元を緩めた。
紅蓮隊との争いには、ひとまず決着がついた。
だが、力で押さえつけられる相手を退けることと、その背後にある事情を解き明かすことは違う。
大河は暮れ始めた空を見上げた。
(さて……次は誰に話を聞くべきか)
目の前の騒ぎが収まった今こそ、ようやく見えてくるものもあるはずだった。




