ピース01
明るい話ではありません
「誰……?」
夫にそう言われた時に、悠は夫の世界から弾かれた。
始まりは突然の電話だった。別フロアで働いている夫の貴史が、就業中に怪我をしたとの連絡が飛び込んでくる。慌てて上司に報告しコンピューターのシャットダウンもそこそこに、バッグをひっつかんで救急車に乗り込む。
資料庫で書類を探している最中に棚が倒れてきたらしい。
頭から血を流して倒れているのを発見されて、大騒ぎになったと貴史の同僚が教えてくれる。狭い車内でてきぱきと処置をする救急隊員の邪魔にならないように座りながら、いろんなモニターの音を聞いていた。
病院に搬送されて、取りあえず検査をするとストレッチャーで運ばれる。
検査中のランプが付く中、悠は義理の両親に連絡を入れた。
義父は仕事中で、義母がこちらに来るそうだ。
病院の名前を言って、検査が終わるまでの時間を怖ろしく長く感じていた。
「現在のところ頭の内部に出血や骨折などは見受けられません」
白衣の医師の言葉に取りあえずは安心する。ただ検査中に一度目をあけたきりまた意識を失ってしまったので、このまま入院しモニターすると言われた。
個室に運ばれる貴史は頭に包帯とメッシュの帽子のようなものをはめられて、目を閉じている。顔色は悪くて、看護師達が複数で息を合わせてベッドに寝かせてくれてからも心配で心配でならない。
点滴をしていない方の手を握りしめて、目をあけてくれるのをひたすら待った。
「はるかさん、貴史は?」
「お義母さん。出血や骨折はないそうです。でも一度目を開けて以来、まだ意識が戻りません」
駆け込んできた義母に簡単に説明して、二人横たわる貴史を見守る。
心電図の規則的な音だけが病室に響いていた。
入院手続きや会社への連絡をしないとと、悠が立ちあがる。義母にその場を任せて事務手続きに向かった。取りあえずの有給をもぎ取り、病室に戻る。
「お義母さん……」
食い入るように息子を見つめている義母に声をかけるが、ちからなく首が振られる。
隣に腰を下ろし不安に潰れそうになりながら、もう一度貴史の手を握った。力の入っていない、でも温かい手を挟み額に押し当てて悠は祈った。
義母は一度家に戻るとのことで、悠一人が病室に残る。無機質な病室は、ひどく寒々しい。貴史の呼吸は普通で、心電図も規則正しいリズムのような気がする。頭の包帯がなかったらただ眠っているだけに見えるのに、悠の呼びかけに起きる気配がない。
「たかふみ、さん」
呼びかける自分の声はひどく頼りなく、心細い子供のようだった。一人、置いて行かれた子供。脳裏にそんなイメージが浮かび、急激にこみ上げてくる何かを感じた。でも泣いちゃだめだと、ぐっと奥歯をかみしめる。不吉なことを考えたらその通りになるかもしれない。それがたまらなく怖ろしい。
検査で体の中は一応大丈夫そうだと言われたじゃないか。
目覚めるのを信じて、待たなくちゃ。
長い午後が過ぎ、夜になっても悠に食欲は全くなかった。ひたすらにベッドの貴史を見つめる。
面会時間ぎりぎりに義理の両親がやってきた。入院に必要そうなものを持ち込んでくれて、悠にも飲み物や軽食などを渡してくれる。
「容体は?」
「変わりません」
二人に椅子を譲って悠は立ちあがる。義父は厳しい顔付きで、義母は懇願や悲嘆をないまぜに眠る息子に視線を落とす。重苦しさに耐えかねてこのまま悠が付き添うから、と帰ってもらう。何かあったらすぐに連絡をするからと約束をして、二人は名残惜しそうながらも帰っていく。
帰ってもきっと二人は眠れないだろう、悠はそう考える。
悠の両親にも電話で事情は説明した。向こうで息を飲む気配の後、父は悠にしっかりするように、何か必要なものがあったら言うようにと言葉をくれた。
母は悠の体調も案じてくれた。親のありがたみや子供にかける愛情の深さを悠は身をもって知っているだけに、貴史の両親の憂慮の深さも容易に想像できる。何も手につかないだろう気持ちも。
みんなが心配している。目を開けるのを待っている。
「早く、戻って来て。起きてよ」
悠は貴史の傍らでまんじりともせずに、夜を明かした。
重い頭のまま、洗顔して傍らのペーパータオルで水滴を拭う。鏡の中の自分は化粧気もなく、うっすらくまをつくっていた。ひどい顔。瞳もどこか虚ろに感じる。
貴史の様子に変わりはなく、ただ眠っている。点滴の交換をしに来た看護師は、てきぱきと貴史の体温や血圧を測って立ち去った。
「何かありましたらナースコールをお願いします」
「ありがとうございます」
去り際に、事務的でない眼差しを向けられた。
何か食べないと……悠は機械的におにぎりを口にする。部屋の中は貴史の心臓の奏でる機械音だけが繰り返されていた。
義母がやって来て目線だけで悠に問いかける。かぶりをふると、肩を落とした。たった一日で、とても年を取ったように義母が疲弊している。きっと自分も似たようなものだろうと、悠はぼんやりと考えていた。
押し黙って貴史にだけ、全神経を注ぐ。そんな時間がどれだけ過ぎただろう。
ほんのわずか、貴史に変化がうかがえた。悠ははっと身を乗り出す。
「貴史さんっ」
「どうしたの?」
「眉が動いて、」
固唾を呑む二人の前で、眉根が寄せられてから目蓋がぴくりと動いた。小さな瞬きが繰り返されて、ゆっくりと目が開かれる。
「あ、あ……」
感極まった声は義母か、悠か。瞬きもできずにいる悠の前で、貴史がぼんやりと天井を見ていた。
「あ、れ?」
「気がついたのね、貴史。ああ良かった。どうなることかと、母さん心配で……っ」
嗚咽混じりの声で義母が貴史に取りすがる。まだ状況がよくわかっていないらしい貴史は、それでも母親に顔を向けた。
悠も安堵で胸がいっぱいだった。かくんとへたりこみそうなのを堪えて、ナースコールに手を伸ばす。
「良かった。本当に、良かった」
泣き笑いの心境だったので、悠は気付かなかった。
母親から視線をそらせた貴史が困惑の表情で自分を見ていたことに。
コールボタンを押すと、ベッドの頭上で看護師の応答がある。
『どうしました?』
「意識が、戻りました」
『すぐにドクターに伝えます』
これで一安心だ。そう思って悠はほっと息をついた。後はオフィスに連絡をしなくては、きっとみんな心配しているだろう。
義父と両親にも、と頭の中でリストをつくりながら悠は貴史に笑いかけた。
「貴史さん、気分はどうですか? どこか痛みますか?」
ますます貴史の困惑は深まったようだ。悠と、母親を交互に見つめて、口を開いた。
「母さん、この人、誰?」
「え? 何言っているの。悠さんよ、あなたの奥さん」
「――は?」
本気で混乱している口調に、意識の戻った安堵の空気から困惑のそれに変わる。
義母はなおも何を言っているの、と繰り返したが本気で貴史がいぶかっている様子に、え? とわけがわからないでいる。
悠だって同様だ。寝ぼけて冗談を言っているのかなんて思っていた。
「いやだ、貴史さん。冗談はやめて」
「あなた、いったい誰ですか。俺は独身だ、第一結婚するんなら相手は優美に決まっている」
思わず顔をうつむけた先には薬指に嵌まっている指輪。
強ばった表情のまま、まるきりの他人を見つめる視線の貴史の指にも、嵌まっている。
悠は夫に、忘れられてしまった。