【暴食の章】世界を飲み込むチェイス
飛空艇のエンジンが、低く唸りを上げた。
重たい振動が船体全体に伝わり、甲板の金属板がかすかに震える。
長時間の戦闘で疲労した機体だが、それでもまだ動く。動かさなければならない。
「出力、七十……いや、八十まで上げろ」
クロノスの声が操縦室に響く。
「八十!? 機関が持ちません!」
操舵手が思わず叫ぶ。
だがクロノスは振り返らない。
「持たせろ。今壊れても意味はないが、今動かなければもっと意味がない」
短い沈黙のあと、操舵手が歯を食いしばる。
「……了解!」
レバーが押し込まれる。
次の瞬間、飛空艇の推進機関が咆哮した。
ゴォォォォォォォ―――ッ!!
船体が一気に前へ押し出される。
窓の外で、食都の街並みが流れ始めた。
そしてその先に――
巨大な影が見える。
ヨルムンガンド。
街を這い回る幻影の蛇は、今や完全に都市の一部を覆っていた。
建物を呑み込みながら、その長大な身体はゆっくりと移動している。
だが、それはただの移動ではない。
“食べている”。
街そのものを。
「……あれを誘導する」
クロノスが呟く。
「飛空艇を餌にする」
その言葉に、誰も反論しなかった。
船体が蛇の視界に入る位置へと滑り込む。
ヨルムンガンドの巨大な頭部が、ゆっくりと持ち上がった。
影で出来たような頭部。
だがその奥に、確かに視線を感じる。
「……来るぞ」
誰かが呟いた瞬間だった。
蛇の頭が、こちらを向いた。
そして――
動いた。
ズォンッ!!
空気が震えた。
ヨルムンガンドの巨体が、信じられない速度で伸びる。
巨大な口が開いた。
建物一つを丸ごと飲み込めそうな暗黒の顎。
「上昇!!」
操舵手が叫ぶ。
飛空艇が急上昇する。
直後、蛇の顎がさっきまで飛空艇があった空間を噛み砕いた。
ドォォォォン!!
下の建物が丸ごと砕け、瓦礫が吹き上がる。
「速い……!」
予想以上だった。
あれほど巨大なのに、動きが速すぎる。
「速度維持! あいつを餓鬼の大樹の方へ引きずるぞ!」
クロノスが叫ぶ。
飛空艇は街の上空を滑るように飛ぶ。
背後から、巨大な蛇が追ってくる。
建物の間を縫うように進む飛空艇。
だがヨルムンガンドは違った。
避けない。
壊す。
蛇の身体が建物を貫き、塔を押し倒し、街路を押し潰しながら進んでくる。
まるで都市を削り取りながら進む巨大な災害だった。
「左前方、崩落!!」
見張りが叫ぶ。
塔が倒れ、通路を塞ぐ。
「旋回する!」
飛空艇が大きく傾く。
甲板の上で人々がよろめく。
その瞬間だった。
ズォンッ!!
ヨルムンガンドの尾が振り抜かれる。
影の尾が、塔を粉砕しながら空を薙いだ。
「伏せろ!!」
衝撃波が飛空艇を叩く。
船体が激しく揺れる。
警告灯が赤く点滅する。
「右推進機、出力低下!」
「構うな、飛ばせ!」
クロノスが怒鳴る。
後方を見る。
蛇はまだ追ってきている。
しかも――
「……増えてる?」
誰かが呟いた。
ヨルムンガンドの身体が、さらに長くなっていた。
建物やウェンデゴを飲み込んだ分、明らかに巨大化している。
このままでは――
街全体を覆う。
「餓鬼の大樹まであとどれくらいだ!」
「三分!」
「長すぎる……!」
次の瞬間。
ヨルムンガンドの頭が、再び持ち上がる。
そして、今度は真っ直ぐ飛空艇に向かって突っ込んできた。
「来るぞ!!」
蛇の口が開く。
暗黒の洞穴のような喉。
その奥に、街の瓦礫が渦巻いている。
「上だ!!」
飛空艇が急上昇する。
だが――
蛇の速度が、さらに上がる。
「追いつかれる!!」
操舵手の声が震える。
その瞬間だった。
サミエムが甲板へ出てきた。
まだ完全には回復していない体で、ゆっくりと立つ。
「……少しだけ、時間を稼ぐ」
そう言って、彼は剣を抜いた。
甲板の縁へ歩く。
背後では巨大な蛇の口が迫っている。
「おい! 何する気だ!」
誰かが叫ぶ。
サミエムは振り返らない。
ただ一言。
「餌は……大きい方がいいだろ」
次の瞬間。
彼は飛空艇の縁から跳んだ。
「サミエム!!」
空中へ落下するサミエム。
ヨルムンガンドの口が迫る。
だが彼は逃げない。
むしろ蛇へ向かって落ちていく。
そして。
剣を振り上げた。
「来い、化け物」
蛇の顎が閉じる。
だが――
その瞬間。
空中で閃光が走った。
ズガァァァァン!!
剣撃が炸裂する。
ヨルムンガンドの頭部が、わずかに弾き返される。
ほんの一瞬。
だがその一瞬で――
飛空艇が距離を稼いだ。
「あと二分!!」
操舵手が叫ぶ。
街の向こうに、巨大な影が見えてきた。
腐敗した食材の山。
街の外れにそびえる異様な塊。
餓鬼の大樹。
もしヨルムンガンドが、あれを丸ごと飲み込めば――
この暴走は終わる。
だがその前に。
蛇が再び、こちらへ頭を向けた。
怒ったように。
獲物を逃がすまいとする捕食者の目で。
そして。
再び追撃が始まる。
食都の上空で。
飛空艇と、世界を飲み込む蛇の――
命懸けの追走が続いていた。




