【暴食の章】餓えた世界蛇
建物を飲み込みながら、蛇の幻影はなおも膨れ上がっていく。
最初はベルフェゴールの背後から立ち上る煙のような存在だったそれが、今ではもう街そのものを覆うほどの巨大さになっていた。
輪郭は曖昧で、実体があるのかすら分からない。だが、確かに存在している。
それは街路を這い、建物の壁を突き抜け、塔を巻き込みながら、ゆっくりと身体を伸ばしていく。
巨大な蛇。
ただそれだけの形をしているのに、その存在感は圧倒的だった。
飲み込まれた建物の瓦礫が、腹の奥で砕けるような鈍い音を響かせる。
そして次の瞬間――
ウェンデゴの群れまでもが、その影の中へと吸い込まれていった。
「……なんだよ、あれは」
誰かが呟く。
ついさっきまで、こちらが押していたはずだった。
シャイニングレイの再発射時間は伸び続け、ベルフェゴールの巨体は着実に縮み、勝利はすぐそこまで来ていた。
だが、今はどうだ。
巨大な蛇が街を覆い尽くし、戦況は一瞬で覆された。
圧倒的な不利。
それどころか――
「街ごと……飲み込まれるぞ……」
誰かの声が震えていた。
あれの対応はないのか。
弱点は。
何でもいい。
藁にも縋る思いで、クロノスに視線を向ける。
クロノスは、普段の冷静さが崩れた表情のまま、その巨大な蛇を見上げていた。
額には冷や汗が浮かび、指先は微かに震えている。
そして――
静かに、首を横に振った。
「……ない」
短い一言だった。
だが、それが持つ重さは、想像以上だった。
「ヨルムンガンド」
クロノスが低く言う。
「世界を飲み込む蛇。そう伝えられている伝説の存在だ」
その名前を聞いた瞬間、背筋が冷たくなる。
「ベルフェゴールが過去に一度だけ使った記録がある。
だが、その時は戦いですらなかった」
クロノスは、苦い顔で続けた。
「現れたヨルムンガンドは、巨大な山を一つ……丸ごと飲み込んだ」
誰も言葉を発さない。
山を一つ。
街の建物とは比べ物にならない規模だ。
「その後、蛇は消えた」
クロノスの声が低く落ちる。
「理由は……分からない」
沈黙が落ちた。
誰も何も言えない。
ここまで来て――
こんな形で終わるのか。
ベルフェゴールを倒すために戦ってきた。
街を守るために。
人を救うために。
それなのに。
誰も救われない。
誰も得をしない。
ただ街だけが壊れて、すべてが飲み込まれて終わる。
最悪の敗北だった。
沈黙が続く。
その静寂を破ったのは、小さな瓦礫の音だった。
振り返ると、サミエムがゆっくりと身体を起こしていた。
まだ完全に回復しているわけではない。
それでも彼は、片膝をつきながら立ち上がろうとしている。
「……サミエム」
誰かが止めようとする。
だが彼は手でそれを制した。
「……一つ、聞く」
低い声だった。
全員の視線が彼に集まる。
サミエムはクロノスを見据えた。
「前に、そのヨルムンガンドは……どうやって消えた」
クロノスがわずかに目を細める。
「……記録では、山を一つ飲み込んで」
そこまで言って、クロノスの言葉が止まった。
同時に、こちらの頭にも一つの仮説が浮かぶ。
「……待て」
ベルフェゴールは今、明らかに衰弱している。
シャイニングレイの連射。
長時間の戦闘。
そして追い詰められた末の切り札。
あの蛇は――
最後の手段として出されたもののはずだ。
「もし前も……同じ状況だったとしたら」
言葉にしながら、思考が形になっていく。
ベルフェゴールが限界に近づき、制御できないほどの力を解き放った。
それがヨルムンガンド。
だが、出した本人にも制御できない存在。
暴走しかけた蛇が、山を丸ごと飲み込むほどのエネルギーを取り込み――
それで限界に達して消えたのだとしたら。
「……大量のエネルギーを取り込めば」
サミエムが言葉を続ける。
「ヨルムンガンドは……消えるんじゃないか」
クロノスの目が大きく開かれる。
「……理屈としては……成立する」
その声は、確信ではない。
だが、完全な否定でもなかった。
サミエムはゆっくりと、街の奥を指差す。
「幸いなことに」
「あの蛇の“食材”なら」
「この街に、腐るほどある」
全員の視線が、その方向へ向く。
そこに広がっているのは――
食都の影だった。
食都一番街。
豪華な料理が並び、名だたる料理人が腕を振るう街の中心。
だが、その裏には必ず“余り”が出る。
使われなかった食材。
傷がついた食材。
規格外の食材。
それらすべてが流れ着く場所がある。
街の外れ。
誰も近づこうとしない区域。
迫害地区。
そこには山のように積み上がった食材がある。
本来なら、料理人さえいれば――
いくらでも美味しく食べられるものばかりだ。
だが、その技術を持つ者はいない。
だから人々は、それを腐る前に奪い合うしかない。
飢えた者たちが集まり、
捨てられた食材を漁りながら生き延びている場所。
その中心にそびえ立つもの。
腐敗した食材の山。
街の者たちは、それをこう呼んでいた。
「餓鬼の大樹」
巨大な食材の山は、まるで樹木のようにそびえ立っている。
高さも、量も、街一つ分に匹敵する。
もし――
あれを丸ごと飲み込めば。
ヨルムンガンドの暴走は止まるかもしれない。
クロノスがゆっくりと息を吐く。
「……誘導するしかないな」
視線は、飛空艇へ向けられていた。
「この飛空艇で、ヨルムンガンドを餓鬼の大樹まで引き寄せる」
成功する保証はない。
むしろ、失敗する可能性の方が高い。
もし途中で街の中心へ進路を変えれば――
被害は取り返しがつかない。
それでも。
他に方法はない。
サミエムが立ち上がる。
まだ足元は完全に安定していない。
それでも、彼は迷いなく歩き出した。
「やるぞ」
短い一言。
それだけで、皆が動き出す。
ここから先は、
成功も保証されていない賭けだ。
だが――
やらなければ、街は確実に終わる。
飛空艇のエンジンが唸りを上げる。
巨大な蛇が、ゆっくりと街を這っている。
その進路を変え、
餓鬼の大樹へと導く。
命を懸けた誘導。
一歩間違えれば、
全員が飲み込まれる。
それでも。
「行くぞ」
誰かが言った。
食都の運命を賭けた――
決死の作戦が、今始まる。




