【暴食の章】果たせた夢
確かな手応えはあった。
ヴァルドの体から血が流れた。
それは紛れもなく、今までとは違う結果だった。
だが――
(……浅い)
アレクシエル・サミエムは歯を食いしばる。
斬れた。確かに斬れた。
しかし、それだけだ。
帝都最強の騎士団長を倒すには、あまりにも浅い。
ヴァルドは後退しない。
膝もつかない。
ただ、血を流しながらそこに立っている。
その事実が、どれほど恐ろしいか。
サミエムは嫌というほど理解していた。
(今しかない……)
今しか、この男を倒す機会はない。
奇跡に近い突破だった。
同じことがもう一度できる保証などどこにもない。
剣を構える。
もう一度。
もう一度ツバメ返しを叩き込む。
踏み込む――
「……っ」
だが、脚が動かなかった。
体が言うことをきかない。
腕は痺れ、握力はほとんど残っていない。
呼吸は荒く、肺が焼けるように痛い。
魔力も、ほとんど空だ。
無理やり一歩踏み出そうとする。
しかし膝が震え、体が前に出ない。
限界だった。
その様子を見て、ヴァルドが静かに口を開く。
「……今なら間に合う」
低い声だった。
戦場の騒音の中でも、不思議とはっきり聞こえる声。
「暴食帝側に寝返れ」
サミエムは顔を上げる。
ヴァルドは剣を構えたまま続けた。
「お前ほどの剣士だ。いずれ騎士団長の座も夢ではない」
頬から血が流れている。
それでもその声は静かだった。
「レイサムが亡くなり、お前までいなくなれば……アレクシエル家の後継がいなくなる」
胸の奥がわずかに揺れる。
兄の名。
アレクシエル・レイサム。
「兄が守ってきた国を、お前は壊すのか」
その瞬間だった。
ヴァルドの声に、押し殺していた感情がわずかに滲んだのは。
怒りでも嘲りでもない。
ただの問いだった。
サミエムはゆっくりと息を吐く。
「……俺には才能がない」
ぽつりと呟く。
「兄貴みたいな才能もない」
アレクシエル・レイサム。
誰もが認めた天才剣士。
努力も才能も兼ね備えた男。
その背中を追い続けてきた。
何度も追いつけないと思った。
何度も諦めそうになった。
それでも剣を振り続けた。
「だから必死に食らいついてきた」
訓練場で倒れるまで剣を振った日々。
戦場で死にかけた夜。
仲間と共に戦い抜いた時間。
「そんな俺と共に戦ってきた戦友を」
脳裏に浮かぶ顔。
灰崎。
命を削って戦っている友人。
「裏切るなんて出来るわけがないだろ」
静かな言葉だった。
だが迷いはなかった。
ヴァルドは何も言わない。
ただ、黙って聞いていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうか」
短い言葉。
それ以上は何も言わなかった。
血を流しながら、ヴァルドはゆっくりと立ち上がる。
まだ戦うつもりだ。
サミエムも剣を握る。
残った力をすべてかき集める。
最後の一撃。
ツバメ返し。
踏み込む。
一撃目。
雷エンチャント。
二撃目。
水エンチャント。
三撃目。
同軌道の斬撃。
だが――
手応えはなかった。
ノーダメージ。
ヴァルドは静かに言う。
「言っておくが」
血を流しながら剣を構える。
「俺は一度見た攻撃をすべて覚える」
サミエムの動き。
魔力の流れ。
攻撃の性質。
すべてを記憶する。
「そして、そのダメージを無効化する」
ツバメ返しは、もう通用しない。
それが事実だった。
サミエムは息を吐く。
視界がぼやける。
体が動かない。
それでも。
剣を構える。
「……もう一回だ」
足が震える。
それでも踏み込む。
ツバメ返し。
一撃目。
雷エンチャント。
二撃目。
水エンチャント。
三撃目――
その瞬間。
魔力の制御がぶれた。
雷でもない。
水でもない。
炎。
刀身に赤い炎が宿る。
ヴァルドの目が一瞬だけ揺れる。
完全な油断だった。
予測していない属性。
剣が届く。
深く。
確実に。
ヴァルドの体を裂いた。
血が大きく噴き出す。
致命傷。
ヴァルドの剣が地面に落ちる。
膝が折れる。
帝都最強の騎士団長が、ついに地に膝をついた。
サミエムもその場に崩れ落ちる。
呼吸が荒い。
体が動かない。
ヴァルドは静かに空を見上げる。
そして、小さく呟いた。
「……そうか」
かすかな笑み。
「レイサムの夢は……果たされたのだろうな」
その言葉を最後に。
ヴァルドの体から、ゆっくりと力が抜けていった。
帝都最強の騎士団長。
その生涯は、ここで終わった。




