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【暴食の章】追憶は止まらず、時は再び走り出す

紙一重だった。

文字通り、薄皮一枚。

時間と空間が噛み合わず、互いの術式が相手の喉元を掠め続ける。


一歩踏み込めば死。

半歩退けば破綻。


クロノスは、時間停止という絶対領域の中で、なお退路を削られていた。

未来視は役に立たない。

映し出される未来の大半が、破滅で塗り潰されている。


――それでも、均衡は保たれていた。

つい、今までは。


違和感は、音もなくやってきた。


空間が鳴かない。

時間も、悲鳴を上げない。

魔力の奔流すら、感じ取れなかった。


それなのに。


腹部に、熱が走る。


遅れて、痛覚が追いつく。

そして視界の端で、赤が滲んだ。


(……血?)


ありえない。

時間は止まっている。

血液の流動も、細胞の反応も、停止しているはずだ。


それでも、傷口から血が流れていた。


ぽたり、と。

停止した空気の中を、赤い雫が落ちる。


その瞬間、すべてが繋がった。


(……そうか)


クロノスは、笑った。

自嘲でも、余裕でもない。

ただの、理解の笑みだ。


「……お前」


声が、震えない。


「この止まった時間を動ける理由……いや、違うな」


血を拭うこともせず、視線を上げる。


「お前も、時魔術を使っているな」


空間が、わずかに揺れた。

リオネルは、否定しなかった。


「気づくのが遅い」


淡々とした声。

責めるでもなく、誇るでもない。


「いつからだ」


問いは短い。

だが、そこに込められた意味は重い。


三賢者。

同じ師のもとで学び、同じ時代を生きた。

その中で、時魔術は――クロノスの専売特許だった。


「……いつから、使えるようになった」


リオネルは一瞬、視線を逸らした。

止まった世界の中で、その仕草だけがやけに人間的だった。


「ずっとだ」


短く、切る。


「お前が見ていなかっただけだ」


その言葉に、時間が軋む。


そして――


記憶が、溢れ出す。


まだ、三賢者と呼ばれる前。

ただの、弟子だった頃。


石造りの訓練場。

魔術陣の描かれた床。

夕暮れに伸びる影。


クロノスは、いつも先にいた。


詠唱は正確で、構築は早い。

理論も、実践も、頭一つ抜けていた。


リオネルは、その背を追い続けていた。


年長者だったからか。

それとも、元々の才覚か。

理由は分からない。


ただ、悔しかった。

届かない距離が、そこにあることが。


時魔術を見た日のことは、今でも覚えている。

世界が止まり、師匠のローブの裾だけが揺れていた。


――ああ、と思った。


(こうなりたい)


単純な憧れだった。

追いつきたい。

隣に立ちたい。


だから、真似た。


術式を分解し、再構築し、理論を食らい尽くした。

時を止めることはできなかった。

だが、時の流れに干渉することは、できた。


ディレイ。

加速。

局所的な時間操作。


誰にも言わなかった。

言えば、追いつけないことを認める気がしたから。


現在へ。


リオネルは、ゆっくりと距離を詰めてくる。

止まった時間の中で、足音だけがやけに大きく響く。


「なあ、クロノス」


それは、独白に近かった。


「俺は、お前に近づきたかった」


一歩。


「憧れを、超えたかった」


二歩。


「真似ることでしか、近づけなかったがな」


魔力が、静かに高まる。

次の一撃は、避けられない。


「それでも、守りたかったんだ」


声に、熱が混じる。


「師匠と過ごした、この国を」


脳裏に浮かぶ、クラウソラスの笑顔。

穏やかで、強い、あの女性。


「もう誰も、失いたくなかった」


――だが。


リオネルの目が、怒りに染まる。


「現実はどうだ?」


「師匠は異国で死んだ」


「お前は……国を滅ぼそうとしている」


吐き捨てるように。


「しかも、あの忌まわしい機獣で!」


空間が震える。

怒りが、術式を歪ませる。


クロノスは、静かに息を吐いた。


「……なるほどな」


小さく、納得する。


「ベルフェゴールがいる」


「巨大な敵を一体ぶつけるより、数を減らす方が合理的だ」


事実を述べるだけの声。


「だが、お前はベヒーモスを狙った」


視線が、鋭くなる。


「こんな局面で、個人の私怨を優先するとはな」


リオネルの動きが止まる。


「奮い立たせるように言い放つな」


掠れた声。

だが、瞳は揺らがない。


「俺は……」


言葉を探す間に、クロノスが続ける。


「霞む目で、まだ立っている」


血を流しながら、魔力を練り上げる。


「なら――」


二人の視線が、交差する。


同時に、言葉が放たれた。


「最終ラウンドだ」


止まっていた時間が、悲鳴を上げる。

再び、秒針が動き出す。


世界は、次の一瞬で――

決着へと、雪崩れ込む。

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