【暴食の章】黒き女神は名を呼ばない
夜は、静かだった。
アルシャルノ山のふもとにある小さな村。
石と木で組まれた宿屋は年季が入っており、壁の隙間からは山の冷たい空気が忍び込んでくる。
遠くで、獣の鳴き声がした。
風に乗って、低く、重い音が響く。
サミエムとアレクシエルは、もう眠っている。
昼間の移動と情報集めで、相当に疲れていたのだろう。
藁を詰めた簡素な寝台で、二人は泥のように眠っていた。
だが、俺だけは眠れなかった。
(……また、か)
胸の奥が、ざわついている。
魂縛を行うようになってから、時折こうして感覚が研ぎ澄まされることがある。
危険察知とも、直感とも違う。
もっと根源的な――
“見られている”という感覚。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
目を閉じる。
――その瞬間だった。
闇が、沈んだ。
灯りが消えたわけではない。
音が消えたわけでもない。
ただ、闇そのものが、濃くなった。
底のない黒。
感情として認識できない色。
(……いるな)
声は聞こえない。
姿も、形もない。
それでも、分かる。
この感覚は、知っている。
この世界に来た、あの日から。
いや――来る前から、ずっと。
「……見てるだけか」
小さく呟く。
返事はない。
だが、否定もなかった。
この存在は、導かない。
指示もしない。
正解を与えることもしない。
ただ、見ている。
俺が選び、踏み出し、間違え、傷つくのを。
(秩序を取り戻せ、だったか)
思い出すのは、最初の言葉。
――この世界の秩序を、取り戻して。
それだけだった。
理由も、期限も、方法も。
何一つ語られなかった。
理不尽だと思わなかったわけじゃない。
だが、それ以上に――
(お前も、縛られてる)
そう感じた。
黒は、揺れない。
怒りも、悲しみも、喜びも。
何一つ映さない。
魂術師である俺には分かる。
これは“感情が無い”のではない。
“感情を失った”色だ。
(何百年、こうして見てきたんだ)
秩序が壊れ、
国が滅び、
人が殺し合うのを。
それでも、介入できず。
愛されることもなく。
黒は、ただ在り続けている。
俺は、拳を握った。
(アルシャルノ山……)
マモンが語った、未踏の三山。
その一つ。
なぜ、今になって俺たちにその話を持ち出したのか。
なぜ、暴食帝三賢者の席などという餌をぶら下げたのか。
分からない。
だが、分からないまま進むしかないのも、分かっている。
窓の外で、風が唸った。
山の気配が、夜の闇に溶けている。
(犠牲の上に成り立つ勝利)
それが、この世界の法則だとしても。
レイサムも、
名も知らぬ魂術師たちも、
そして――あの黒も。
何かを失い続けてきた。
(それでも、選ぶのは俺だ)
神に命じられたからでもない。
帝王に利用されているからでもない。
自分の意志で、踏み込む。
アルシャルノ山へ。
黒は、何も言わない。
ただ、山の向こう側で――
静かに、俺を見ていた。




