【暴食の章】境界線
アルシャルノ山の麓は、思っていたよりも開けていた。
切り立った断崖や、不毛な岩場を想像していたが、実際には低木が点在し、獣道も確認できる。
見た目だけなら、特別な山には見えない。
――それが、余計に不気味だった。
「ここまでだ」
ヘリオが足を止める。
山道の入口。
自然にできた境界線のように、地面の色がわずかに変わっている。
「参加しないんだな」
サミエムが確認するように言った。
「ああ」
ヘリオは頷く。
「俺の仕事は、情報と物資の提供までだ。
この先は――お前たちの領分だ」
そう言って、背負っていた荷を下ろす。
簡素な布包みを二つ。
中身を確認すると、保存食と、魔力を帯びた小さな石が入っていた。
「結界避けの簡易具だ。
長くは保たないが、最初の違和感くらいは誤魔化せる」
「助かる」
「感謝するのは、生きて戻ってからにしろ」
いつもの皮肉めいた口調だが、
感情の色は、薄く張り付いた警戒だった。
ヘリオは、山を見上げない。
視線を逸らすように、商人としての顔を作る。
「……この山には、深入りしない方がいい」
珍しく、忠告めいた言葉だった。
「帝国が未踏にしている理由は、
“強いから”じゃない」
それだけ言って、ヘリオは踵を返した。
山を背にするように。
足音が遠ざかる。
その背中を見送りながら、僕は感情を見る。
――恐怖。
だが、それを押し殺す理性。
(知っているな……)
何を、とは分からない。
だが、確実に。
「行こう」
サミエムが言った。
覚悟の色。
揺らぎはない。
僕たちは、境界線を越えた。
その瞬間。
空気が、変わった。
音が、吸い込まれる。
風の流れが、乱れる。
何より――
感情の色が、見えにくくなった。
(……薄い?)
消えたわけじゃない。
だが、霧が掛かったように判別しづらい。
「……嫌な感じだな」
サミエムも気づいている。
「結界か?」
「違う」
直感で否定した。
「もっと……自然に近い」
木々は普通だ。
土も、石も、草も。
だが、どれもが僅かに“ずれて”いる。
歩いているのに、距離感がおかしい。
時間の流れが、曖昧になる。
「足跡が残らない」
サミエムが言った。
振り返ると、確かにそうだった。
踏み固めたはずの地面が、元に戻っている。
「……消える、か」
村で聞いた言葉が、脳裏をよぎる。
死体が見つからない。
痕跡が残らない。
獣の気配がする。
だが、近づいてこない。
こちらを“見ている”だけだ。
感情の色を探る。
――ある。
だが、人間でも、獣でもない。
鈍く、重く、しかし確かな意思。
(……これが、金色熊?)
まだ姿は見えない。
だが、確信があった。
この山は、
侵入者を拒んでいるのではない。
選別している。
進む者を、
値踏みしている。
サミエムが、剣に手を掛けた。
「零」
「ああ」
息を整える。
ここから先は、引き返せない。
ヘリオが越えなかった線。
帝国が越えられなかった線。
その先に、
未踏がある。
そして――
試されるのは、強さだけじゃない。
この山が、何を望んでいるのか。
それを知らないまま、
僕たちは、さらに奥へと踏み込んだ。 アルシャルノ山の麓は、思っていたよりも開けていた。
切り立った断崖や、不毛な岩場を想像していたが、実際には低木が点在し、獣道も確認できる。
見た目だけなら、特別な山には見えない。
――それが、余計に不気味だった。
「ここまでだ」
ヘリオが足を止める。
山道の入口。
自然にできた境界線のように、地面の色がわずかに変わっている。
「参加しないんだな」
サミエムが確認するように言った。
「ああ」
ヘリオは頷く。
「俺の仕事は、情報と物資の提供までだ。
この先は――お前たちの領分だ」
そう言って、背負っていた荷を下ろす。
簡素な布包みを二つ。
中身を確認すると、保存食と、魔力を帯びた小さな石が入っていた。
「結界避けの簡易具だ。
長くは保たないが、最初の違和感くらいは誤魔化せる」
「助かる」
「感謝するのは、生きて戻ってからにしろ」
いつもの皮肉めいた口調だが、
感情の色は、薄く張り付いた警戒だった。
ヘリオは、山を見上げない。
視線を逸らすように、商人としての顔を作る。
「……この山には、深入りしない方がいい」
珍しく、忠告めいた言葉だった。
「帝国が未踏にしている理由は、
“強いから”じゃない」
それだけ言って、ヘリオは踵を返した。
山を背にするように。
足音が遠ざかる。
その背中を見送りながら、僕は感情を見る。
――恐怖。
だが、それを押し殺す理性。
(知っているな……)
何を、とは分からない。
だが、確実に。
「行こう」
サミエムが言った。
覚悟の色。
揺らぎはない。
僕たちは、境界線を越えた。
その瞬間。
空気が、変わった。
音が、吸い込まれる。
風の流れが、乱れる。
何より――
感情の色が、見えにくくなった。
(……薄い?)
消えたわけじゃない。
だが、霧が掛かったように判別しづらい。
「……嫌な感じだな」
サミエムも気づいている。
「結界か?」
「違う」
直感で否定した。
「もっと……自然に近い」
木々は普通だ。
土も、石も、草も。
だが、どれもが僅かに“ずれて”いる。
歩いているのに、距離感がおかしい。
時間の流れが、曖昧になる。
「足跡が残らない」
サミエムが言った。
振り返ると、確かにそうだった。
踏み固めたはずの地面が、元に戻っている。
「……消える、か」
村で聞いた言葉が、脳裏をよぎる。
死体が見つからない。
痕跡が残らない。
獣の気配がする。
だが、近づいてこない。
こちらを“見ている”だけだ。
感情の色を探る。
――ある。
だが、人間でも、獣でもない。
鈍く、重く、しかし確かな意思。
(……これが、金色熊?)
まだ姿は見えない。
だが、確信があった。
この山は、
侵入者を拒んでいるのではない。
選別している。
進む者を、
値踏みしている。
サミエムが、剣に手を掛けた。
「零」
「ああ」
息を整える。
ここから先は、引き返せない。
ヘリオが越えなかった線。
帝国が越えられなかった線。
その先に、
未踏がある。
そして――
試されるのは、強さだけじゃない。
この山が、何を望んでいるのか。
それを知らないまま、
僕たちは、さらに奥へと踏み込んだ。




