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【暴食の章】未踏の山は、声を持たない

 夜明け前、アルシャルノ山のふもとの村は、まだ眠りの中にあった。


 だが、それは安らぎの眠りではない。

 山に寄り添うように生きるこの村では、夜明けは「終わり」ではなく、「始まり」だ。


 何が始まるのか――それを口にする者はいない。


 宿を出ると、空気が刺すように冷たかった。

 肺に吸い込むたび、冷気が内側から身体を締め付ける。


 山が、近い。


 視界の先にそびえるアルシャルノ山は、夜明けの薄明かりの中でも異様な存在感を放っていた。

 高い、というよりも――重い。


 空を押し下げているかのような圧迫感。


「……静かすぎるな」


 サミエムが、ぽつりと呟いた。


 確かに、音がない。

 鳥の声も、虫の羽音も、風のざわめきすら薄い。


「生き物はいる」


 俺は前を見たまま答える。


「だが、この山は“生きている”わけじゃない」


「……どういう意味だ?」


 アレクシエルが眉をひそめる。


「感情がない」


 それが、俺の出した結論だった。


 感情を見る。

 それは俺にとって、呼吸と同じくらい自然な行為だ。


 人の恐怖、獣の殺意、命を守ろうとする本能。

 それらは必ず、色として滲み出る。


 だが――この山は違う。


 獣の気配は、ある。

 だが、色が薄い。


 いや、薄いのではない。

 揺れていないのだ。


(……山そのものが、何かを覆い隠している?)


 足元の土は硬く、踏みしめるたびに乾いた音がする。

 人の手で整えられた道は、すぐに途切れ、そこから先は岩と根がむき出しになっていた。


「戻るなら、今だ」


 俺はそう言ったが、誰も足を止めない。


 サミエムは剣に手を添え、無意識のうちに姿勢を正している。

 騎士としての癖だ。


 ただし、以前とは違う。


 彼の腰には、剣だけでなく、小さな魔導具がいくつも吊るされていた。

 エンチャント用の補助具。

 まだ未完成で、使いどころを選ぶ代物だ。


(……成長してるな)


 本人は自覚していないだろうが、サミエムは確実に変わってきている。


 努力量が違う。

 才能がないと自覚している者ほど、歩みは重く、しかし止まらない。


 だからこそ、危うい。


 山の中腹に差し掛かった頃、空気が変わった。


 圧が増す。


 敵意ではない。

 殺意でもない。


 ただ、踏み込む者を測る何かが、確かにそこにあった。


 地面が、わずかに震えた。


 小さな揺れ。

 だが、自然のものではない。


「……来るか?」


 アレクシエルが低く問う。


「いや」


 俺は首を振る。


「まだだ。これは――警告に近い」


 感情を見る。

 遠く、巨大な存在の気配。


 だが、それも色としては曖昧だ。


(まるで、こちらを“個体”として見ていない)


 人でも、獣でもない。

 山に根付いた、何か。


 その瞬間、不意に胸の奥がざわついた。


 ――見られている。


 そんな感覚。


 声は聞こえない。

 姿も見えない。


 だが、確かに“意識”だけが触れてきた。


(……アリフィカ?)


 名を呼ぶことは、しなかった。

 彼女は、応えない。


 いや、応えられないのかもしれない。


 黒く、沈み、感情の色すら失った存在。

 ただ使命だけを抱え、見守るしかない女神。


 彼女が、この光景を見ているのなら。


 きっと、何も言わない。


 だからこそ、俺は進む。


「行くぞ」


 一歩、踏み出す。


 その瞬間、山の奥で何かが動いた。


 木々が軋み、岩が擦れる音。

 鈍く、重い足音。


 歓迎ではない。

 拒絶でもない。


 ただの事実。


 ――アルシャルノ山は、試練を始めた。


 暴食帝三賢者への道。

 帝王殺しへと至る連鎖。


 その最初の一歩が、ここに刻まれた。


 戻る選択肢は、もう存在しない。

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