【暴食領平定編 西】 村の依頼
少女の声が聞こえなくなってから、しばらく歩いた。
足取りに変化はない。
一定の速度。
一定の呼吸。
予定通りなら、日が落ちるまでに次の街道宿へ辿り着ける。
そこから西へ進めば、二日ほどで城塞都市へ入れる。
頭の中で地図を広げる。
途中に大きな河川はない。
魔物の生息域も少ない。
食料は十分。
問題はない。
「……。」
問題は、ないはずだった。
なのに、どうにも集中できない。
先ほどの少女の顔が頭に残っている。
涙を浮かべて、俺に助けを求めていた。
薬師を呼んでほしい。
ただ、それだけだった。
俺は断った。
任務があるから。
それは間違っていない。
俺が西へ向かうことは、これから起こる戦争に備えるために必要なことだ。
西の帝王候補を仲間にできれば、戦力は大きく増える。
その結果、多くの人間が救われる可能性もある。
一人の少女を助けるために、重要な任務を遅らせる理由にはならない。
「……合理的だ。」
呟く。
それでいい。
そう思い直した。
街道を抜け、森へ入る。
木々の隙間から差し込む日差しが、徐々に弱くなっていく。
野営するには少し早い。
もう少し進めば、開けた場所がある。
そこまで行けばいい。
そう考えていた時だった。
遠くから、また声が聞こえた。
「誰かー!」
足が止まる。
聞き覚えのある声だった。
振り返る。
先ほどの少女が、こちらへ向かって走ってくる。
息を切らし、何度も転びそうになりながら。
「……まだいたのか。」
「お願い……!」
少女は俺の前まで来ると、その場に膝をついた。
「お母さんが……!」
肩で息をしている。
「魔物が村の近くまで来たの!」
「村の人達だけじゃ……無理で……!」
言葉が途切れる。
俺は黙って少女を見る。
「お願いします……!」
頭を下げる。
「助けて……!」
さっきと同じだ。
俺には任務がある。
村を救うことより、西へ向かうことの方が重要だ。
そう判断する。
「……分かった。」
口から出た言葉に、自分でも少し驚いた。
少女が顔を上げる。
「ほ、本当……?」
「村まで案内してくれ。」
「うん!」
少女が立ち上がる。
走り出した背中を追う。
森を抜けると、小さな村が見えた。
木製の柵。
粗末な家。
畑。
その向こうから、悲鳴が聞こえてくる。
「魔物だ!」
「子供を中へ!」
「門を閉めろ!」
村人達が慌ただしく動いていた。
俺は村へ入る。
同時に、柵の向こうから巨大な影が飛び出した。
狼。
だが、先ほどの魔物とは違う。
体長は三メートルを超えている。
群れ。
数は八。
村人達が武器を構える。
しかし、手が震えている。
当然だ。
農具しか持たない人間が戦える相手ではない。
俺は剣を抜いた。
「下がってください。」
「え?」
「全員、柵の内側へ。」
村人達が慌てて後退する。
狼が一斉に飛び掛かってきた。
霊帝の抱擁が身体を包む。
世界が遅くなる。
右。
左。
正面。
背後。
八体。
動きは全て見える。
一歩。
身体を捻る。
剣を振る。
首。
腹。
脚。
喉。
次々と魔物が地面へ落ちていく。
最後の一体が逃げようとする。
追う。
一閃。
終わり。
静寂が戻った。
剣を鞘へ収める。
周囲から、誰も声を発しない。
ただ俺を見ている。
やがて、一人の老人が口を開いた。
「……あんた、一体……。」
「冒険者です。」
「そうか……。」
老人は何度も頭を下げた。
「助かった。」
「本当に、ありがとう。」
別の村人も続く。
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
次々に声が上がる。
俺はそれを聞きながら、先ほどの少女を見る。
少女は泣きながら笑っていた。
「ありがとう……!」
「お母さんも助かったよ!」
「そうですか。」
それだけ返す。
胸の奥に、何かが引っ掛かった。
先ほどまで感じていた違和感とは少し違う。
妙な感覚だった。
誰かに感謝された。
それだけなのに。
なぜか、悪くないと思った。
しかし、それ以上考えることはやめた。
俺には目的がある。
西へ向かわなければならない。
「俺はこれで。」
「待ってください!」
老人が慌てて呼び止める。
「せめて今日は村に泊まっていってくだされ。」
「食事も用意します。」
「必要ありません。」
「ですが……。」
「先を急いでいます。」
断る。
老人は少し寂しそうな顔をした。
それでも無理に引き留めることはしなかった。
「……そうですか。」
「道中、お気を付けて。」
「ありがとうございます。」
村を出る。
振り返らない。
歩き始める。
日が沈み始めていた。
予定より少し遅れた。
それでも大した問題ではない。
明日の朝、少し早く出れば取り戻せる。
そう考えていた。
森の中へ入り、しばらく進む。
周囲に人の気配はない。
今夜はここで野営する。
焚き火を起こし、荷物を下ろす。
食事を取る。
そして眠る。
それでいい。
剣を傍らへ置き、薪を火へ放り込む。
炎が揺れた。
その向こうに、先ほどの少女の笑顔が浮かぶ。
「……。」
俺は目を閉じた。
考える必要はない。
村を助けた。
それで終わりだ。
明日になれば西へ向かう。
ヴァイスを仲間にする。
それが俺の役目だ。
霊帝の抱擁が、静かに魔力を流し続けている。
その力に包まれながら、俺は目を閉じた。
――まだ、この時は知らなかった。
この夜、俺自身が合理性の意味を疑うことになるとは。




