【暴食領平定編 東】 八つ当たり
「あなたの力が必要なんです。」
その言葉が、静かな雪原へ落ちる。
ヴィオラは目を見開いたまま動けなかった。
震えていた紫色の鎖も、一瞬だけ動きを止める。
「……必要。」
小さく呟く。
「私が……。」
その瞳が揺れる。
ほんの一瞬。
迷いが生まれた。
けれど次の瞬間だった。
「……違う。」
ヴィオラは俯く。
肩が震え始める。
「違う……。」
その震えは、やがて怒りへ変わった。
「違うッ!!」
轟音。
紫色の鎖が一斉に暴れ、僕は反射的に後ろへ飛ぶ。
さっきまでとは比べ物にならない威力だった。
「ヴィオラさん!」
「黙ってください!!」
彼女が叫ぶ。
涙を流しながら。
「そんな言葉!」
「今さら聞きたくありません!!」
鎖が雪を砕く。
地面が陥没し、粉雪が吹き荒れる。
「私は!」
「あなたに認められたくて!」
拳を振る。
「頑張ってきたんじゃない!!」
踏み込む。
鉄拳が迫る。
僕は最小限の動きで躱した。
「父に!」
左拳。
「認めてほしかった!!」
右拳。
「父に褒めてほしかった!!」
膝蹴り。
「父に必要だって!」
回し蹴り。
「言ってほしかったんですッ!!」
その全てを受け流す。
攻撃はしない。
ヴィオラの拳は重い。
でも、その軌道はもう乱れていた。
怒りで。
悲しみで。
心がぐちゃぐちゃになっている。
「どうして!」
また拳が飛ぶ。
「どうしてあなたなんですか!!」
「どうして父は!」
「あなたばかり見ていたんですか!!」
「見てません。」
静かに答える。
「見ていた。」
「違います。」
「見ていた!!」
「違う!」
初めて僕も声を荒げた。
「クラウソラスさんは!」
「誰も見てなかった!」
ヴィオラの動きが止まる。
「研究しか見てなかった!」
「僕も!」
「あなたも!」
「全部置き去りにされた!」
雪原が静まり返る。
「……違う。」
ヴィオラが首を振る。
「違います。」
「だったら!」
涙を流しながら叫ぶ。
「私は何のために!」
「何年も頑張ってきたんですか!!」
その問いには答えられなかった。
答えなんて誰にも分からない。
だから僕は、違う言葉を返した。
「これからです。」
「……え。」
「これから。」
「あなたが何のために生きるのか。」
「それを決めればいい。」
ヴィオラは呆然と僕を見る。
「私は……。」
「もう。」
「何もありません。」
「あります。」
「ありません!」
紫色の鎖が再び暴れ始める。
「父はいない!」
「帰る場所もない!」
「研究もない!」
「私には!」
「もう何も!!」
「あります。」
僕は一歩踏み出した。
「ここがあります。」
雪月鬼たちを見る。
「あなたを慕う人がいる。」
「あなたを守ろうとする人がいる。」
「あなたが守ってきた人たちがいる。」
ヴィオラがゆっくり振り返る。
雪月鬼たちの表情が目に入る。
「ヴィオラ様……。」
「お願いです……。」
「もう……。」
皆、不安そうな顔をしていた。
恐れているのは鎖じゃない。
ヴィオラ自身が壊れてしまうことを。
その光景を見た瞬間。
ヴィオラの拳から力が抜けた。
「……私は。」
震える声で呟く。
「守れて……いましたか。」
「はい。」
答えたのは僕じゃなかった。
案内役だった青年の雪月鬼が、一歩前へ出る。
「ヴィオラ様。」
「あなたが来てから。」
「この里で飢えた者はいません。」
「病で死んだ子もいません。」
「冬を越えられなかった者もいません。」
「全部。」
青年は深く頭を下げた。
「あなたが守ってくださいました。」
一人。
また一人。
雪月鬼たちが頭を下げ始める。
「ありがとうございます。」
「ヴィオラ様。」
「……。」
ヴィオラの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
父から欲しかった言葉は、一度も貰えなかった。
けれど。
知らないうちに。
彼女はもう、誰かに必要とされる存在になっていた。
その事実だけが、静かに彼女の心を揺らし始めていた。




