【暴食領平定編 東】 届かない距離
「……どうして。」
ヴィオラが小さく呟く。
その声は誰にも届かない。
僕は構えを崩さず、ゆっくりと呼吸を整える。
さっきまでとは違う。
ヴィオラの動きが僅かに鈍くなっている。
疲労じゃない。
迷いだ。
「ヴィオラさん。」
「まだです。」
僕が声を掛けようとすると、彼女は遮るように前へ出た。
「まだ終わっていません。」
黒鉄の籠手を強く打ち鳴らす。
鈍い金属音が雪原へ響いた。
「私は。」
深く息を吸う。
「あなたを認めていません。」
「認めてもらう必要はありません。」
僕は静かに答える。
「あなたが僕をどう思うかは自由です。」
「ですが。」
「僕はあなたを連れて帰ります。」
「……。」
「この戦争には。」
「あなたの力が必要だから。」
その言葉に、ヴィオラの眉が僅かに動く。
「また。」
苦しそうに笑う。
「また、それですか。」
「必要。」
「力。」
「父も。」
一歩前へ出る。
「いつもそうでした。」
「必要だから。」
「役に立つから。」
「その言葉ばかり。」
雪を踏み締める音が響く。
「誰も。」
「私自身を見てくれなかった。」
その瞬間だった。
ヴィオラが消える。
「零!」
アリフィカの声。
「上!」
反射的に見上げる。
空。
いつの間にか大きく跳躍していたヴィオラが、両拳を重ねたまま真上から落ちてくる。
速い。
避け切れない。
「くっ……!」
杖を頭上へ構える。
直後。
轟音。
衝撃が雪原を揺らした。
周囲の雪が爆発するように吹き飛ぶ。
足元が沈み、膝まで雪へ埋まる。
重い。
今までで一番だ。
「まだ……!」
ヴィオラは着地と同時に身体を捻る。
回し蹴り。
杖で受け流そうとした、その時。
「右!」
アリフィカの声。
半歩だけ下がる。
蹴りは鼻先を掠め、背後の巨木を真っ二つに折った。
轟音と共に木が倒れる。
「危なかった……。」
「集中して!」
「うん!」
短い言葉。
それだけで十分だった。
アリフィカは僕が何を考えているのか理解している。
僕も、彼女が何を伝えたいのか分かる。
そのやり取りを見たヴィオラは、また足を止めた。
「……どうして。」
今度ははっきり聞こえた。
「どうして。」
アリフィカを見る。
僕を見る。
二人を見る。
「そんなに。」
拳が震えていた。
「そんなに信じられるんですか。」
アリフィカは少しだけ首を傾げる。
「信じる?」
「うん。」
「だって零だもん。」
あまりにも自然な返事だった。
「零は困ってる人を放っておけない。」
「嘘もあまり得意じゃない。」
「だから私は安心して任せられる。」
照れ臭い。
「そんな大した人じゃないよ。」
「そういうところ。」
アリフィカは笑う。
「自分で気付いてないだけ。」
二人で少しだけ笑ってしまう。
本当に、いつもの旅の延長だった。
その光景を見て。
ヴィオラの胸の奥で、何かが軋む。
違う。
怒りじゃない。
憎しみでもない。
もっと苦しくて。
もっと醜い。
「……羨ましい。」
思わず漏れたその一言に、自分自身が驚いていた。
雪月鬼たちもざわめく。
ヴィオラは慌てて首を振る。
「違う……。」
「私は。」
「そんなこと。」
違う。
違うはずなのに。
目の前の二人から目が離せない。
父といる時、一度でもこんな風に笑えただろうか。
一度でも。
対等に言葉を交わせただろうか。
一度でも。
「……どうして。」
唇を噛む。
「私は。」
拳を握る。
「こんなに頑張ったのに。」
その声は、怒りではなかった。
胸の奥から滲み出た、どうしようもない本音だった。
そして、その感情はゆっくりと色を変え始める。
僕の魂視に映るヴィオラの色。
黒く濁っていた感情の奥で。
深い紫色が、静かに揺らめいていた。
それは怒りではない。
憎しみでもない。
誰かを羨み。
誰かと比べ。
満たされない心が生み出す感情。
――嫉妬。
その色が、初めてヴィオラの魂へ現れた。




