【暴食領平定編 東】 決闘
静寂が部屋を包む。
誰も口を開かなかった。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。
ヴィオラは俯いたまま動かない。
握り締めた拳が、白くなるほど力んでいた。
「……少し。」
掠れた声だった。
「少し、一人にしてください。」
「分かりました。」
僕は椅子から立ち上がる。
アリフィカも何も言わず後に続いた。
部屋を出る直前。
「灰崎さん。」
ヴィオラが僕を呼び止める。
「はい。」
「ありがとうございました。」
その一言だけだった。
何に対する礼なのかは分からない。
けれど、その声には確かな戸惑いが滲んでいた。
◇
集会所を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
雪月鬼たちは普段通り生活している。
薪を割る者。
子どもたちと遊ぶ者。
食事の支度をする者。
皆が穏やかだった。
「零。」
隣を歩くアリフィカが口を開く。
「言わなくて良かったの?」
「何を?」
「実験のこと。」
「全部。」
僕は小さく首を横へ振った。
「全部話しても。」
「今は受け止められない。」
「……うん。」
「一気に否定したら。」
「きっと、何も聞いてくれなくなる。」
ヴィオラは父を信じて生きてきた。
その人生そのものを否定することになる。
それだけは避けたかった。
「優しいね。」
「違う。」
思わず苦笑する。
「僕も。」
「家族を悪く言われたら嫌だから。」
アリフィカは何も返さなかった。
ただ、小さく頷くだけだった。
◇
その日の夕方。
宿として借りている部屋で荷物を整理していると、不意に扉が叩かれた。
コンコン。
「どうぞ。」
扉が開く。
立っていたのは、昨日案内してくれた雪月鬼の青年だった。
「ヴィオラ様がお呼びだ。」
「今ですか。」
「ああ。」
「分かりました。」
青年の後を歩き、集落の外れまで向かう。
そこには広い雪原があった。
雪は踏み固められ、まるで訓練場のようになっている。
その中央に、ヴィオラが立っていた。
白銀の法衣。
両腕には、昨日と同じ黒鉄の籠手。
風に銀髪が揺れている。
周囲には雪月鬼たちが集まり始めていた。
「零……。」
アリフィカが小さく呟く。
何となく、この空気には覚えがあった。
決闘だ。
ヴィオラはゆっくりとこちらへ向き直る。
「来ていただき、ありがとうございます。」
「話があるんですよね。」
「はい。」
静かな声だった。
けれど、その瞳には昨日までとは違う熱が宿っている。
「灰崎さん。」
「あなたの話を聞いて。」
「私は一つだけ分かったことがあります。」
雪が風で舞い上がる。
「私には。」
「あなたの言葉が信じられない。」
「……。」
「ですが。」
一歩前へ出る。
「嘘をついているようにも見えない。」
僕は黙って聞いていた。
「だから。」
ヴィオラは右腕をゆっくり持ち上げる。
黒鉄の籠手が重々しい音を立てた。
「確かめます。」
「あなた自身を。」
「……どういう意味ですか。」
「戦ってください。」
その一言で、辺りが静まり返る。
「戦う?」
「はい。」
「私と。」
僕は首を横へ振る。
「断ります。」
即答だった。
「僕は戦いに来たわけじゃない。」
「あなたを仲間にしたいだけです。」
「だから戦わない。」
ヴィオラは少しだけ目を伏せる。
「……そうですか。」
一歩。
また一歩。
静かに距離を詰めてくる。
「では。」
その瞳が真っ直ぐ僕を射抜いた。
「逃げるのですか。」
「違う。」
「戦う理由がない。」
「あります。」
ヴィオラは言い切った。
「私には。」
「あなたが父の人生を否定した人間にしか見えない。」
「そのあなたが。」
「父を超えたと言う。」
「なら。」
拳を握る。
「その強さを、この目で見せてください。」
僕は何も答えなかった。
沈黙が流れる。
その時だった。
アリフィカが一歩前へ出る。
「ヴィオラさん。」
優しい声だった。
「零は。」
「戦うことが好きな人じゃありません。」
「知っています。」
ヴィオラは頷く。
「だからこそ。」
「お願いしています。」
「……お願い?」
「はい。」
初めて。
ヴィオラの表情へ感情が浮かんだ。
「私は。」
「父が信じた魂術を知りません。」
「父が認めた灰崎零という人も知りません。」
「だから。」
唇を噛む。
「戦ってください。」
「そうすれば。」
「少しは理解出来るかもしれない。」
その声は震えていた。
怒りではない。
憎しみでもない。
何かを知りたい。
何かを確かめたい。
そんな切実な願いだった。
僕は静かに目を閉じる。
戦いたくはない。
でも。
言葉だけでは届かない相手がいることも知っている。
「……零。」
アリフィカが小さく僕を見る。
その瞳は「決めるのはあなた」と言っていた。
僕はゆっくりと息を吐く。
そして、杖を握った。
「分かりました。」
「一つだけ条件があります。」
ヴィオラが顔を上げる。
「これは勝敗を決めるための戦いじゃない。」
「互いを知るための戦いです。」
「だから。」
「命は取りません。」
ヴィオラは数秒黙った後、静かに頷いた。
「……はい。」
「その条件で。」
雪が静かに降り始める。
白哭峰の空の下。
灰崎零と鉄拳の聖女ヴィオラ・クラウソラス。
二人はゆっくりと距離を取った。
互いの信じるものを知るための戦いが、今、始まろうとしていた。




