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【暴食領平定編 東】 知らなかったこと

 ヴィオラは、しばらく黙っていた。


 暖炉の薪が静かに爆ぜる音だけが部屋へ響く。


「あなたは。」


 ようやく口を開く。


「父の研究を、どこまで知っているかと聞きましたね。」


「はい。」


「私は。」


 一度言葉を区切る。


「父から研究内容を詳しく聞かされたことはありません。」


 予想通りだった。


 クラウソラスは、他人へ研究内容を語る人ではない。


 たとえ娘であっても。


「私は聖職者として父を支えるだけでした。」


「薬品を運び。」


「資料を整理し。」


「頼まれた物を準備する。」


「それだけです。」


「研究室へ入ることも?」


「許されませんでした。」


 静かな声だった。


 怒っているわけでも、責めているわけでもない。


 ただ、昔の出来事を語っている。


「だから。」


 ヴィオラは少し笑う。


「私は父が何を目指していたのか、本当は知りません。」


 その一言で確信した。


 この人は、本当に何も知らない。


 クラウソラスが何をしてきたのか。


 何人の命を犠牲にしてきたのか。


 魂術完成のため、どれだけの人間を実験材料にしたのか。


 何一つ。


「ですが。」


 ヴィオラは続ける。


「父は何度も言っていました。」


『世界を変える。』


『人類を救う。』


『この研究は必要だ。』


「だから私は信じました。」


「父は正しいことをしていると。」


 部屋が静かになる。


 僕は視線を落とした。


 この人は。


 信じたかっただけなんだ。


 父親を。


 家族を。


「灰崎さん。」


 ヴィオラが真っ直ぐ僕を見る。


「父は。」


「間違っていたのですか。」


 その問いは、とても小さかった。


 答えを恐れているようにも聞こえる。


 僕はすぐには答えなかった。


 答え方を間違えれば。


 この人は二度と話を聞いてくれなくなる。


「……間違っていた。」


 静かに言う。


「でも。」


 ヴィオラの肩が小さく震える。


「研究そのものじゃない。」


「方法です。」


 彼女が顔を上げる。


「魂術は、人の魂へ直接触れる術です。」


「だから完成させるには。」


「何度も人で試す必要があった。」


 ヴィオラの瞳が揺れる。


「父は。」


「その実験を繰り返した。」


「多くの人を犠牲にして。」


「そんな……。」


 初めて動揺が表情へ現れた。


「違います。」


 首を横へ振る。


「父はそんなこと……。」


「見たことがありません。」


「見せなかったんです。」


 僕は静かに答える。


「あなたには。」


「……。」


「研究室へ入れなかった理由も。」


「そのためだったのかもしれない。」


 ヴィオラは何も言えなかった。


 ただ両手を強く握り締めている。


 アリフィカも黙ったまま二人を見ていた。


 口を挟まない。


 これは僕とヴィオラの話だからだ。


「証拠は。」


 ヴィオラが絞り出すように言う。


「あるんですか。」


「あります。」


 即答だった。


「僕は。」


「あの研究施設を見た。」


「実験室も。」


「残された資料も。」


「全部。」


 ヴィオラの呼吸が少し乱れる。


「……嘘です。」


「父は。」


「人を助ける人でした。」


「怪我人を診て。」


「病人を救って。」


「孤児院へ寄付もしていました。」


「知ってます。」


 僕も知っている。


 表向きは立派な聖職者だった。


「だからこそ。」


「誰も疑わなかった。」


 ヴィオラは立ち上がる。


「違います。」


 声が少し大きくなる。


「父はそんな人じゃありません。」


「私は知っています。」


「毎日一緒に暮らしていました。」


「灰崎さんより。」


「ずっと。」


 その言葉には、娘としての誇りがあった。


 そして、父を信じ続けたいという願いも。


 僕はその気持ちを否定したくなかった。


 だからこそ、ゆっくりと言葉を返す。


「ヴィオラさん。」


「あなたは。」


「お父さんを知っている。」


「僕もそう思います。」


 彼女が少しだけ目を見開く。


「でも。」


「僕が知っているクラウソラスさんも。」


「間違いなく、本物だった。」


「……。」


「優しい父親だった。」


「それも本当。」


「研究へ狂った研究者だった。」


「それも本当。」


「人は。」


 一度息を吸う。


「一つの顔だけじゃない。」


「……。」


「僕は。」


「あなたのお父さんを否定したいわけじゃない。」


「ただ。」


「僕が見た事実だけを伝えています。」


 長い沈黙が流れる。


 ヴィオラは何も言わない。


 ただ俯き、唇を噛んでいた。


 その姿を見ていると、胸が少し痛んだ。


 信じてきたものが揺らぐ。


 それはきっと、言葉だけで受け入れられるものじゃない。


 だから僕は、それ以上何も言わなかった。


 暖炉の火だけが、静かに揺れていた。

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