【暴食領平定編 東】山守の祠
鈴の音を聞いてから、一時間ほど歩いただろうか。
森はさらに深くなり、木漏れ日もほとんど届かなくなっていた。
踏み締める土は湿り、辺りには苔むした岩が増えている。
冷たい風が枝を揺らすたび、葉擦れの音だけが静かに響いた。
「静かだね。」
アリフィカが小さく呟く。
「鳥も少ない。」
「さっきから気になってた。」
確かにそうだった。
森へ入ったばかりの頃は、鳥の鳴き声や小動物の気配が絶えなかった。
今は風の音しかしない。
生き物が、この一帯だけ避けているような静けさだった。
「魂視でも何も見えない?」
「うん。」
軽く目を閉じ、魂視を発動する。
視界が少しずつ変わる。
木々。
草花。
遠くの小動物。
命の色は見える。
だが、大型の魔物や人間の気配は一つもなかった。
「異常なくらい静かだ。」
「怖い?」
「少しね。」
警戒を解かず歩き続ける。
すると、不意に木々が開けた。
「……あれ。」
そこには小さな広場があった。
中央には石造りの祠。
屋根は崩れかけ、壁は苔に覆われている。
それでも誰かが手入れしているのか、祠の前だけは不自然なくらい落ち葉一つ落ちていなかった。
「祠だ。」
アリフィカが近付く。
「巡礼路だからかな。」
「かもしれない。」
祠の前には、小さな石の台がある。
そこへ木彫りの器が一つ置かれていた。
中には新しい木の実が数粒。
「新しい。」
「うん。」
「誰か来てる。」
数日前どころではない。
今日置かれたと言われても不思議ではなかった。
「村の人かな。」
「でも。」
アリフィカは首を傾げる。
「みんな山を怖がってたよ?」
「……そうなんだよね。」
もし村人なら、こんな奥まで入ってくる理由が分からない。
祠の周囲を見回す。
雪はまだ少ない。
だから足跡も残りやすいはずだった。
「足跡……。」
地面を見る。
確かにある。
だが妙だった。
「人間?」
「違う。」
足跡は人の形をしている。
けれど細長く、つま先が異様に尖っていた。
靴ではない。
裸足でもない。
「これ。」
「雪月鬼かな。」
「分からない。」
まだ見たことがない。
決め付けるには早かった。
その時だった。
カラン――。
また鈴の音が響く。
今度は近い。
祠のすぐ裏から聞こえた。
僕は反射的に杖を構える。
「誰!」
返事はない。
静寂。
アリフィカも息を呑む。
二人でゆっくり祠の裏へ回り込む。
そこには――。
「……いない。」
誰もいなかった。
ただ一本だけ、小さな木の枝に銀色の鈴が吊るされている。
風も吹いていないのに、鈴だけが静かに揺れていた。
「これだ。」
近付いてみる。
古びた鈴だった。
けれど錆び一つない。
「誰かが鳴らしたのかな。」
「触ってみる?」
「いや。」
何となく嫌な予感がした。
不用意に触れない方がいい。
その時だった。
「零。」
アリフィカが僕の袖を引く。
「後ろ。」
振り返る。
祠の向こう。
木々の間に、小さな白い影が立っていた。
子どもくらいの背丈。
真っ白な髪。
こちらをじっと見つめている。
「……!」
一瞬だった。
目が合ったと思った次の瞬間には、影は森の奥へ駆け出していた。
「待って!」
思わず声を上げる。
白い影は振り返ることなく、木々の間を軽やかに駆け抜けていく。
「零!」
「追う!」
「えっ!?」
「まだ遠くへ行ってない!」
荷物を背負い直し、森へ飛び込む。
枝を避け、岩を飛び越える。
白い影は速い。
それでも魂視で位置だけは追える。
「あっち!」
木々の隙間。
また白い後ろ姿が見えた。
小柄な身体。
長い白髪。
着物のような白い衣。
「止まって!」
叫ぶ。
影は振り返らない。
ただ少しだけ速度を緩めた。
追い付ける。
そう思った瞬間だった。
視界が開ける。
崖。
目の前には深い谷が広がっていた。
「しまっ――」
急停止する。
足元の石が谷底へ転がり落ちていく。
危なかった。
あと一歩踏み出していたら、そのまま落ちていた。
「零!」
遅れてアリフィカが駆け寄ってくる。
「大丈夫!?」
「うん……。」
息を整えながら谷の向こうを見る。
もう白い影はいなかった。
「逃げられた。」
「でも。」
アリフィカは谷の向こうを見つめる。
「私達を誘導した……ようにも見えた。」
「……。」
その可能性はある。
いや、むしろその方が自然だ。
僕達は追い掛けることだけに集中し、周囲への注意が散漫になっていた。
もし悪意があったなら。
さっきの一歩で終わっていたかもしれない。
「これ以上追うのは危険だ。」
「戻ろう。」
二人は来た道を引き返す。
祠へ戻る頃には、辺りは夕暮れに染まり始めていた。
あの白い影は何だったのか。
雪月鬼なのか。
それとも、この山に住む別の何かだったのか。
答えはまだ、霧の中だった。




