【暴食領平定編 東】山へ至る道
翌朝。
宿の窓を開けると、空一面を灰色の雲が覆っていた。
昨日までの青空が嘘のようだ。
山から吹き下ろす風は冷たく、春の終わりとは思えないほど肌を刺す。
「寒い……。」
アリフィカが肩を震わせる。
借りた厚手の外套を羽織っているが、それでも寒さには慣れていないらしい。
「白哭峰に近付いてる証拠だね。」
「まだ山じゃないのに?」
「だからこそだよ。」
山は麓から環境が変わる。
昨日、宿の主人が言っていた言葉を思い出す。
――夜は絶対に外へ出るな。
理由は聞けなかった。
いや、聞かなかったと言った方が正しい。
あの表情を見れば、それ以上踏み込む気にはなれなかった。
荷物をまとめ、一階へ降りる。
宿の主人は既に掃除を始めていた。
「おはようございます。」
「あぁ、おはよう。」
主人は僕たちを見るなり、小さく息を吐いた。
「本当に行くんだな。」
「はい。」
「止めても無駄か。」
「多分。」
苦笑すると、主人も諦めたように笑った。
「そういう目をしてる。」
受付の奥へ入り、一枚の古びた地図を持って戻ってくる。
「これは?」
「山へ入る昔の巡礼路だ。」
机へ広げられた地図には、現在使われている街道とは別に細い道が描かれている。
「今はほとんど誰も使わん。」
「だが、雪崩が少ない。」
「ありがとうございます。」
「ただし。」
主人の指が、山の中腹を示す。
「ここから先は誰も知らん。」
「昔から”神隠し”が起きる。」
「神隠し?」
「気付けば仲間が一人消えていた。」
「一本道だったはずが、同じ場所へ戻ってくる。」
「そんな話ばかりだ。」
作り話には聞こえなかった。
何十年も村で暮らしてきた人間の声だ。
「雪月鬼の仕業ですか?」
「知らん。」
主人は首を振る。
「昔からそうなんだ。」
「雪月鬼が来る前から。」
その一言が引っ掛かった。
つまり、異変はヴィオラより前から存在している。
「……覚えておきます。」
主人は頷くと、小さな革袋を差し出した。
「干し肉だ。」
「持って行け。」
「そんな。」
「餞別だ。」
「生きて帰って来い。」
僕は深く頭を下げた。
「必ず。」
◇
村を出ると、人の姿はほとんどなくなった。
街道も徐々に細くなり、やがて獣道のような一本道へ変わる。
左右には針葉樹が増え始め、風景は緑から白へと変わりつつあった。
道端には溶け残った雪がちらほら見える。
「雪だ。」
アリフィカがしゃがみ込む。
恐る恐る手で触れた。
「冷たい!」
思わず手を引っ込める。
「これが雪。」
「初めて?」
「うん。」
もう一度触る。
今度は少しだけ雪を掬い上げた。
「ふわふわしてる。」
「時間が経つと固くなるよ。」
「へぇ。」
しばらく眺めたあと、小さく雪を地面へ戻した。
「溶けちゃうんだね。」
「暖かくなれば。」
「少し寂しい。」
その言葉を聞きながら歩き続ける。
二時間ほど進んだ頃だろうか。
道の脇に古びた石碑が立っているのが見えた。
苔むし、文字もほとんど読めない。
「何て書いてあるんだろう。」
アリフィカが覗き込む。
表面を軽く払うと、辛うじて文字が浮かび上がった。
『霊峰セレスティア巡礼路』
「巡礼路……。」
「昔は山へお祈りに行く人がいたのかな。」
「そうかもしれない。」
石碑の横には、朽ちた木札が落ちていた。
拾い上げる。
文字は風化していたが、一部分だけ読むことが出来た。
『……山へ敬意を……』
そこまでだった。
「敬意。」
アリフィカが呟く。
「山に?」
「昔の人は、山そのものを信仰していたのかも。」
「神様じゃなくて?」
「自然を神として見る文化もあるから。」
「へぇ。」
感心したように頷く。
「人間って色んなものを信じるんだ。」
「だから面白い。」
歩き出そうとした、その時だった。
カラン。
どこかで鈴の音が鳴った。
「……。」
二人同時に足を止める。
風は吹いていない。
それなのに、鈴の音だけが森の奥から響いてくる。
「聞こえた?」
「うん。」
一度だけ。
それきり音は止んだ。
魂視を発動する。
周囲に人の気配はない。
魔物もいない。
それなのに。
「何だろう。」
「分からない。」
胸の奥がざわつく。
嫌な感じではない。
ただ、誰かに見られているような感覚だけが残る。
「行こう。」
「うん。」
二人は再び歩き出す。
その背中を見送るように。
森の奥で、もう一度だけ小さく鈴の音が鳴った。
その音に気付く者は、誰もいなかった。




