【暴食領平定編 東】宿の夜
気が付けば、日はすっかり傾いていた。
一日中歩き回ったラクスウェルの街は夕暮れに染まり、赤く照らされた石畳を人々が家路へと急いでいる。
「もうこんな時間なんだ。」
アリフィカが空を見上げる。
「時間が経つの、早いね。」
「歩き回ってたから。」
「人間って毎日こんなに動いてるの?」
「人によるけど。」
「少なくとも僕はそうかな。」
「ふぅん……。」
感心したように頷く。
昼間の元気はそのままだが、少しだけ疲れたようにも見えた。
「今日はもう宿に戻ろう。」
「うん。」
二人で宿へ向かう。
宿屋の扉を開くと、主人が顔を上げた。
「あ、お帰りなさい。」
「ただいま。」
主人の視線が自然とアリフィカへ向く。
「こちらのお嬢さんは?」
「あ……。」
どう説明したものか。
神様です、とは言えない。
「旅の同行者です。」
少し考えた末、それだけ答えた。
「なるほど。」
主人は特に気にした様子もなく頷いた。
「お部屋は一つ追加しますか?」
「はい。」
「かしこまりました。」
鍵を受け取り、階段を上る。
廊下の奥で足を止めた。
「ここ。」
僕が部屋の扉を指差す。
「隣が僕の部屋だから。」
「分かった。」
アリフィカは鍵を受け取り、不思議そうに眺める。
「これが鍵?」
「うん。」
「閉める時はこう。」
鍵穴へ差し込み、回す。
カチリ、と小さな音が鳴った。
「おぉ……。」
「そんなに珍しい?」
「神界には無いから。」
「泥棒とかいないの?」
「そもそも鍵を掛ける文化が無いかな。」
「そうなんだ。」
世界が違えば常識も違うらしい。
「じゃあ、少し休憩して。」
「夕飯になったら呼ぶよ。」
「うん!」
アリフィカは嬉しそうに部屋へ入っていった。
◇
それから一時間ほど。
荷物を整理し終え、一階へ降りる。
食堂では既に何人もの旅人が食事を始めていた。
窓際の席へ座る。
しばらくすると、階段から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「あっ、零!」
アリフィカだった。
椅子へ座るなり、辺りをきょろきょろ見回す。
「すごい……。」
「また?」
「だって。」
食堂を見渡しながら言う。
「みんな楽しそう。」
商人たちが酒を飲み交わし。
旅人同士が今日の出来事を語り合う。
家族連れが笑いながら食卓を囲む。
「神界では。」
「こんな風に誰かと食事することって少ないの。」
「仕事ばかり?」
「うん。」
「世界を見たり。」
「祈りを受けたり。」
「他の神と話したり。」
「気付いたら一日が終わってる。」
「忙しいんだね。」
「忙しいよ。」
そう言って笑う。
しかし、その笑顔は少しだけ寂しそうにも見えた。
料理が運ばれてくる。
香草を使った鶏肉の煮込み。
野菜のスープ。
焼きたてのパン。
アリフィカは手を止めた。
「どうしたの?」
「……。」
僕を見る。
「食べる前って。」
「いただきます。」
「って言うんだよね。」
「うん。」
「何で?」
「作ってくれた人への感謝。」
「食材への感謝。」
「色々かな。」
「……。」
アリフィカは料理を見つめる。
少しだけ考えてから。
「いただきます。」
ぎこちない。
けれど、どこか嬉しそうだった。
一口食べる。
「……。」
二口目。
「美味しい。」
その一言だけで十分だった。
◇
夕食を終え、宿の外へ出る。
夜風が心地いい。
昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
空には満天の星が広がっている。
「綺麗。」
アリフィカが夜空を見上げる。
「神界からも見えるんじゃないの?」
「見えるよ。」
「でも。」
「こうして地面から見るのは初めて。」
ゆっくりと夜空を眺める横顔は、どこか幼い。
「人間って。」
ぽつりと呟く。
「短い命なのに。」
「どうして毎日こんなに一生懸命なんだろう。」
不思議そうだった。
「明日死ぬかもしれない。」
「それなのに笑って。」
「ご飯食べて。」
「友達と話して。」
「恋をして。」
「喧嘩して。」
「また笑う。」
僕は夜空を見上げる。
「明日が来る保証なんてないからじゃないかな。」
「だから今日を生きる。」
「……。」
アリフィカは黙って聞いていた。
「君たち神は違う?」
「……。」
少し間を置いて。
「永く生きるとね。」
静かに言う。
「今日じゃなくてもいい、って思っちゃう。」
その一言は、妙に胸へ残った。
永遠に近い時間を持つ者と。
限られた時間しか持たない者。
同じ景色を見ても、きっと見え方は違う。
しばらく二人で黙って星空を眺める。
誰も話さない。
それでも、不思議と居心地は悪くなかった。
やがてアリフィカが小さく笑う。
「旅って。」
「思ってたより楽しいね。」
「まだ街しか歩いてないけど。」
「それでも。」
「うん。」
その笑顔を見た瞬間。
僕は無意識に魂視を発動していた。
黒。
深く、重い黒。
その中心に。
昨日よりも、確かに灰色が広がっていた。




