【暴食領平定編 東】女神の分身
翌朝。
目を覚ますと、昨日聞こえた声が頭から離れなかった。
夢だったのか。
それとも本当に誰かが呼んだのか。
考えても答えは出ない。
身支度を済ませ、一階で朝食を取る。
今日は残りの細々とした買い物を済ませれば、明日には出発できる。
そんな予定だった。
宿を出ると、朝の市場は昨日以上に賑わっていた。
荷馬車が行き交い、商人たちが客を呼び込む。
人の流れに身を任せながら歩いていると、不意に耳元で声がした。
「零。」
昨日と同じ声。
今度ははっきりと聞こえた。
足を止め、辺りを見回す。
「……誰?」
知り合いの姿は見当たらない。
聞き間違いだろうか。
そう思い歩き出そうとした瞬間。
「こっち!」
今度は少し離れた場所から聞こえた。
細い路地。
建物と建物の間。
灰色の石壁の陰から、小さく手が振られている。
「……。」
見覚えのある白い袖。
まさか。
半信半疑のまま路地へ入る。
すると、その人物は嬉しそうに両手を広げた。
「やっと気付いた!」
白銀の長い髪。
透き通るような白い肌。
青と金が混じり合った不思議な瞳。
見間違えるはずがない。
「……アリフィカ。」
「正解!」
満面の笑みだった。
思わず周囲を見回す。
誰もこちらを気にしていない。
通行人は普通に通り過ぎていく。
「……なんで。」
「なんでって?」
「どうしてここにいるの。」
「来たかったから!」
あまりにも軽い返事だった。
「いや、そういう話じゃなくて。」
思わず額を押さえる。
「君は神界にいるはずだよね。」
「いるよ。」
「……。」
「ちゃんといる。」
「じゃあここにいるのは。」
アリフィカは胸を張った。
「分身!」
自信満々だった。
「……分身?」
「うん!」
何故そんなことを誇らしげに言うのか。
「頑張って作ったの!」
両腕を広げ、一回転する。
「どう? 本物でしょう?」
確かに、本物としか思えない。
魂視を使う。
彼女の魂は確かに存在していた。
しかし、どこか薄い。
本体ほどの密度がない。
「……本当に分身なんだ。」
「信じてなかった?」
「半信半疑だった。」
「えへへ。」
嬉しそうに笑う。
以前なら、こんな表情を見せることはなかった。
「神様も努力するんだよ?」
「初めて聞いた。」
「失礼だなぁ。」
頬を膨らませる。
その様子が妙に人間らしくて、思わず笑ってしまう。
「笑った!」
「いや……。」
「今笑ったよね!」
「少しだけ。」
「やった。」
何が「やった」なのか分からない。
それでも本人は満足そうだった。
「で。」
僕は咳払いを一つする。
「どうして分身なんて作ったの。」
「零と旅がしたかったから。」
あまりにも自然に言われる。
一瞬、言葉に詰まった。
「旅?」
「うん。」
「神界から見てるだけじゃ分からないことがいっぱいあるの。」
その瞳が真っ直ぐ僕を見る。
「人間って、何を考えて、何を感じて生きてるのか。」
「だから。」
「自分で見て、自分で歩いてみたくなった。」
それは以前のアリフィカなら絶対に口にしない言葉だった。
彼女はいつも『観測者』だった。
人間を見守る存在。
決してその輪の中へ入ろうとはしなかった。
「……本体は?」
「ちゃんと神界。」
「大丈夫なの?」
「分身だからね。」
軽く自分の肩を叩く。
「魔力は少ないし、強い魔法も使えない。」
「戦える?」
「ううん。」
首を横へ振る。
「基本魔法くらい。」
「回復とか。」
「結界とか。」
「生活魔法とか。」
「それくらいかな。」
つまり、ほとんど一般人だ。
「危ないよ。」
「分かってる。」
意外にも返事は真面目だった。
「だから零について行く。」
「僕?」
「うん。」
「一番安全だから。」
「それは買い被り過ぎ。」
「違うよ。」
アリフィカは首を振る。
「零は困ってる人を見捨てない。」
その一言に、返す言葉が見つからなかった。
「だから。」
「零の隣なら安心出来る。」
真っ直ぐな言葉だった。
打算も計算もない。
ただ、そう思ったから口にした。
「……。」
魂視を使う。
アリフィカの感情を見る。
黒。
相変わらず、その奥底には深い黒が渦巻いている。
けれど。
「……?」
昨日より少しだけ。
本当に少しだけ。
黒の中へ灰色が混じっていた。
ほんの一筋。
墨へ一滴だけ白を落としたような変化。
気のせいかと思うほど小さい。
「どうしたの?」
「いや。」
魂視を解く。
「何でもない。」
アリフィカは首を傾げる。
「変な零。」
「そうかも。」
僕が笑うと、アリフィカもつられて笑った。
その笑顔は神というより、一人の少女そのものだった。




